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2011年11月25日 (金)

倭国の興亡76: 倭王権の地方抗争介入

 5世紀倭王権は、倭王家を中心に、葛城・和珥などのヤマトの豪族や、筑紫・吉備・出雲・紀・上毛野などとの地方豪族の連合政権だった。彼らは内政や外交の枢要な地を占め、王権の中枢に参画して、地方との格差は左程なかった。
 また、政治組織が整っておらず、倭王と構成メンバーの結びつきは、地方豪族が一族の有力者を連れ王宮に出仕し王に直接つかえた。その奉仕の見返りは先進文物や技術供与により、地域での地位を高めた。ギブアンドテイクの「互酬性」による支配体制であった。故に王権の地方との政治関係はいまだ不安定なものであった。

 王権が河内へ移動した時期と列島での古墳造営の断絶時期とがほぼ一致する。5世紀代には、葛城・和珥・平群・蘇我・大伴・物部など中央諸氏や吉備・上毛野・筑紫・紀の豪族たちは軍事指揮官として国内各地・半島に軍兵を率いて遠征したのは事実であろうし、5世紀代に倭王が自ら軍兵を率いて征討戦にでるようなことは無ったと思える。
76_4   古墳時代になると、環濠集落が消滅していることは考古学で証明されている。一つには首長層の階層化が進み、首長は豪族居館を営むようになり、集落を巻き込んだ慢性的な戦乱は終息する。しかし、中期古墳では鏡や石製の呪具にかわり、甲冑や武器が副葬品の主体を占める。首長は祭祀者から武人に変化したことを示す。(は大陸・半島の影響示す金銅製馬具(後輪
 集落共同体の戦闘は消えたものの、首長同士の勢力争いで、武力衝突が起こり、王権が軍事介入することがあったが、内乱に至る程のではなかった。しかし、列島各地での地域勢力の成長・角逐は、王権が介入することで、勢力交替を促進し、新たな政治関係を構築した。列島内各地に倭王権が新しい支配秩序を創出しようとして積極的介入し、抗争を激化させたともみられる。         
  

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