« クロツラヘラサギを護ろう! | トップページ | 小春日を歩く »

2011年11月19日 (土)

倭国の興亡75: 倭王権飛躍と王墓移動の関係

 55、56回において、倭王権の拠点と墳墓がヤマトから佐紀へ4世紀半ば)、佐紀から河内へ(4世紀半ば~5世紀)と移動した事は記した。この移動を三輪王朝から河内王朝へと「王朝交替」があったとする説が一時風靡したが、最近はやや批判的な意見が出ている。
 即ち、5世紀の倭王権の主要メンバーは、倭王権・葛城・和珥などのヤマト勢力と吉備・出雲・紀・上毛野などの有力地方豪族であって河内勢力は見いだせない6世紀になると地方豪族の地位が低下し、ヤマト優位が確立し、河内の豪族は見当たらない。
75  古代河内の在地勢力は著しく弱く、6世紀までヤマトは河内に対して終始優位に立っていた。従って、古市・百舌鳥の巨大古墳群も、ヤマト勢力が河内に王墓を築ったのである。(写真仁徳天皇陵とされる大仙陵、国内最大)
 又、倭王権が列島を支配下に置くには河内を勢力下におき、西日本や半島への門戸となる外港の確保が必須であった。地形的にもヤマトと河内は大和川で結ばれ、両地域は一体であった。
 河内列島最大の渡来人の集住地となったのは、在地勢力の未発達と表裏の関係にあった。即ち、4世紀末以降未開拓地の河内に渡来人を計画的に集住させ、彼らの先進技術を使ってこの地域の開拓を組織的に行い、先進技術による生産拠点としたのである。

 難波の津に近い法円坂遺跡からは5世紀一大倉庫群が見つかった。又、記紀によれば応神難波大隅宮仁徳難波高津宮反正の河内の丹比柴籬宮が営まれ、一時的にせよ政治の拠点ともなった。河内の重要性が高まると大伴連、物部連などの連の姓(カバネ)を持つ氏族もヤマトと両方に拠点を持った。連は大王家に臣属し大王の手足となって職務を執行した氏族である。物部氏土師氏である。
 渡来人とその先進技術を独占掌握し、半島・大陸ルートも管轄下においた王権に飛躍したことを河内の王墓は誇示しているのである。
 

|

« クロツラヘラサギを護ろう! | トップページ | 小春日を歩く »

古代史、邪馬台国」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/534272/53280028

この記事へのトラックバック一覧です: 倭国の興亡75: 倭王権飛躍と王墓移動の関係:

« クロツラヘラサギを護ろう! | トップページ | 小春日を歩く »