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2011年11月15日 (火)

倭国の興亡74: [異説] 倭の五王は百済王統

 当シリーズ62回に於いて、392年北九州にいた王は、沸流百済宗家の兄王で、百済は弟王に任せていたとする異説を記した。(兄王=応神か)。その続きを見る。
 この兄王(応神)394年筑紫の貴国(佐賀・基肆)で崩じた。この後を継いだのはである。書記(395年以降)や好太王碑文(396年)の応神の業績とされているのは倭王讃のことである。
『八年(397年)・・・百済人来朝り・・・これを以て王子直支を天朝に遣わして、先王の好を脩むといへり』(応神紀)とあり、百済の阿花王が好太王に降伏した事がわかったので、倭王讃は翌八年韓半島の百済の檐魯(地方領土)をすべて没収し、阿花王の王子・直支(トキ)を人質にとって、宗家(倭王)への忠誠を誓わせたとある。
 好太王碑文にある
残国とは列島の倭王讃が半島南部に残している国であり討つべきは倭であると高句麗は考えた。一方、倭王讃も半島北部まで攻めるべしとして、400年(永楽十年の役)、404年(同14年の役)、407年(同17年の役)と攻めている。
 405年直支は百済に帰りとして420年まで在位する。429年讃が没して、珍が立っている。宋書に430年珍の遣使の記事がある。珍は百済に対し采女(人質の女性・天皇の食事の世話をした)を要求して、池津媛が遣わされた。

 興の時代になると、「百済新撰」からの引用記事として雄略紀に『辛丑年(461年)に蓋鹵王(百済王・余慶)、弟昆支君を遣わして、大倭に向でて、天王に侍らしむ。以て兄王の好を脩るなりといへり』とあり、百済王は昆支君を天皇に仕えさせるために倭へ派遣。一緒に来日した蓋鹵王の婦が肥前の加羅で産んだ子(斯麻)が後の武寧王(百済王になる)として百済王統を統合する。
 蓋鹵王の次の文周王のとき、昆支君は内大臣となり帰国。文周王と次の文斤王が
479年に没した。そのとき倭に残って、興及び武に仕えていた昆支君の子が即位し未多王となって、百済に送り込まれ東城王となる。

 尚、五王の系譜で不明なのが、武の父王であるである。是を百済王・近蓋婁とすれば、無理なく説明が可能であるとする。即ちは温祚系余氏の百済王ビ有の子とすれば、ビ有の存命中に没した倭王珍の後に自分の子の近蓋婁を倭王に出来るし、武の上表文中の父兄の死に関する叙述にも無理がないという。よって、沸流系余氏だった讃(395-429)・珍(429-443)を継いだのは温祚系余氏済(443-461)・興(461-477)・武(478-515)がついで王統の変更があったことになる。
 以上百済王族が倭国王として君臨し、北部九州と半島南部を倭国として支配し、百済とも近しい関係を維持していた。と見る論がある。 

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