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2011年11月

2011年11月29日 (火)

倭国の興亡77: 古墳時代の人々の生活

 6世紀に榛名山は二度の大噴火により、火山灰が多くの遺跡を残してくれた。5、6世紀には既に平地建物が多くなり、1棟の竪穴住居に、数棟の平地建物を垣根で囲んだ形態が屋敷地であったようだ。竪穴住居に竃があり煮炊きをして、平地建物は納屋家畜小屋に使われた。屋敷地に高床倉庫家畜小屋を持つ有力農家とそうでないものがあり、農民にも階級差が発生していた。第一波の渡来人がもたらしたは、5世紀後半には東北地方まで伝播する。
77jpg  榛名遺跡群には首長の居館と古墳がセットになった「三つ寺 I 遺跡」と名付けられた巨大居館跡がある(左図:遺跡復元図)。居館部分は約86m四方で、周囲には巨大なを巡らし、その斜面は河原石を石垣状に築き、要所には張出施設、柵列など防御機能を備えている。ここの在地首長が政治をとり、祭祀を行い、金属製品の生産、貢納物を蓄積し、地域社会の支配者として君臨した拠点である。

 この近くの保渡田古墳群図は復元図)は、5世紀後半から6世紀にかけて三つの前方後円墳が築かれた。墳丘長100m前後で、二重の濠を巡らし、多数の人物・動物の埴輪を立て並べていて有名である。上記居館の主の古墳と考えられている。

77  保渡田古墳群の西方1キロの地点で、下芝谷ツ古墳という列島と半島双方の特徴を備えた珍しい古墳が発見された。約20mの方墳であるが、傾斜が急な二段築成で、埴輪を巡らした列島の特徴を備え、上段は河原石で積んだ積石塚形態をとって半島に分布するものだ。被葬者は多分渡来集団の首長と思われる。金銅製飾履金製装身具、入念な作りの馬具類が副葬され、半島に多い金製品がは国内では十数例しかない発見例である。上毛野地方を本拠地とした上毛野氏は倭王権の重要な地位を占めたが、渡来人の一部をここに住まわせたと考えられる。仁徳紀の記述とも合致するという。 

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2011年11月27日 (日)

晩秋を歩く

Photo  昨日までの真冬並みの寒さと打って変わって、今日は予報通り、暖かくなってきた。久しぶりにゆっくりと周囲の花や景色を眺めながら、何か珍しい花や植物はないかと、探しながら歩いた。
 菊、山茶花、皇帝花など、季節の花が盛りではあるが、珍しい物はなかなか見つけられず歩いていて、ひょっと目に留まったのが上の写真の鉢植えの花。
 クラリンドウ。名前の由来はわからないが、クマツヅラ科で、外来種かも知れない。九州、沖縄に見られるとあるから山野にある種だろうが、本州以北では、温室でないと花を付けないかも。
 ご覧のように、鉢植えでき(丈は最大2m)、花茎が垂れ下がって花を付けている。12月中頃には、実をつけ、真っ赤な蕚の真ん中に黒い実を付けるので、それはそれで観賞できるという。これまであまり見かけず、初めて知った次第。

Photo_2  百両。一名カラタチバナ万両と同じヤビコウジ科の植物で、特に珍種でもなんでも無いが、実の多いこと。万両と百両の差程はない。尤もこれは、正月の縁起物に使われるべく、店頭での販売品だからこんなに実が多いので、通常の庭植えではこの1/5程度が普通。何れにせよ赤い実は正月には喜ばれる

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2011年11月25日 (金)

倭国の興亡76: 倭王権の地方抗争介入

 5世紀倭王権は、倭王家を中心に、葛城・和珥などのヤマトの豪族や、筑紫・吉備・出雲・紀・上毛野などとの地方豪族の連合政権だった。彼らは内政や外交の枢要な地を占め、王権の中枢に参画して、地方との格差は左程なかった。
 また、政治組織が整っておらず、倭王と構成メンバーの結びつきは、地方豪族が一族の有力者を連れ王宮に出仕し王に直接つかえた。その奉仕の見返りは先進文物や技術供与により、地域での地位を高めた。ギブアンドテイクの「互酬性」による支配体制であった。故に王権の地方との政治関係はいまだ不安定なものであった。

 王権が河内へ移動した時期と列島での古墳造営の断絶時期とがほぼ一致する。5世紀代には、葛城・和珥・平群・蘇我・大伴・物部など中央諸氏や吉備・上毛野・筑紫・紀の豪族たちは軍事指揮官として国内各地・半島に軍兵を率いて遠征したのは事実であろうし、5世紀代に倭王が自ら軍兵を率いて征討戦にでるようなことは無ったと思える。
76_4   古墳時代になると、環濠集落が消滅していることは考古学で証明されている。一つには首長層の階層化が進み、首長は豪族居館を営むようになり、集落を巻き込んだ慢性的な戦乱は終息する。しかし、中期古墳では鏡や石製の呪具にかわり、甲冑や武器が副葬品の主体を占める。首長は祭祀者から武人に変化したことを示す。(は大陸・半島の影響示す金銅製馬具(後輪
 集落共同体の戦闘は消えたものの、首長同士の勢力争いで、武力衝突が起こり、王権が軍事介入することがあったが、内乱に至る程のではなかった。しかし、列島各地での地域勢力の成長・角逐は、王権が介入することで、勢力交替を促進し、新たな政治関係を構築した。列島内各地に倭王権が新しい支配秩序を創出しようとして積極的介入し、抗争を激化させたともみられる。         
  

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2011年11月23日 (水)

小春日を歩く

Photo  昨日、一昨日と小春日が続き、久しぶりに横浜から遊びに来てくれた義弟と、秋を満喫しようと、散策に出かけた。一昨日は少し遠いが、しばらく訪れていない、山口県の長府に行き、長府城下町を散策した。

Photo_2  の紅葉は長府毛利邸の内庭の紅葉である。こちらの方は紅葉はまだ赤くなりきっておらず、紅葉した紅葉を探すのに苦労するぐらいである。
 の紅葉は、屋敷周り全部が庭園になっている、その一部の紅葉である。
 小春日で柔らかな日差しの中、観光客は結構多く、長府の城下町を散策していた。
Photo_3  昨日も又天候もよく、行楽日和となったので、近郊の南蔵院(四国霊場篠栗八十八ヶ所の1番札所)の涅槃像を見に行った。これはブロンズ像としては世界最大(長さ41m、高さ11m)と言われている(自由の女神、或いはジャンボジェットと同じ大きさとか)。ここも山の中だから、周囲が本来ならば紅葉している時期だが、あかい紅葉があまり見かけられなかった。

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2011年11月19日 (土)

倭国の興亡75: 倭王権飛躍と王墓移動の関係

 55、56回において、倭王権の拠点と墳墓がヤマトから佐紀へ4世紀半ば)、佐紀から河内へ(4世紀半ば~5世紀)と移動した事は記した。この移動を三輪王朝から河内王朝へと「王朝交替」があったとする説が一時風靡したが、最近はやや批判的な意見が出ている。
 即ち、5世紀の倭王権の主要メンバーは、倭王権・葛城・和珥などのヤマト勢力と吉備・出雲・紀・上毛野などの有力地方豪族であって河内勢力は見いだせない6世紀になると地方豪族の地位が低下し、ヤマト優位が確立し、河内の豪族は見当たらない。
75  古代河内の在地勢力は著しく弱く、6世紀までヤマトは河内に対して終始優位に立っていた。従って、古市・百舌鳥の巨大古墳群も、ヤマト勢力が河内に王墓を築ったのである。(写真仁徳天皇陵とされる大仙陵、国内最大)
 又、倭王権が列島を支配下に置くには河内を勢力下におき、西日本や半島への門戸となる外港の確保が必須であった。地形的にもヤマトと河内は大和川で結ばれ、両地域は一体であった。
 河内列島最大の渡来人の集住地となったのは、在地勢力の未発達と表裏の関係にあった。即ち、4世紀末以降未開拓地の河内に渡来人を計画的に集住させ、彼らの先進技術を使ってこの地域の開拓を組織的に行い、先進技術による生産拠点としたのである。

 難波の津に近い法円坂遺跡からは5世紀一大倉庫群が見つかった。又、記紀によれば応神難波大隅宮仁徳難波高津宮反正の河内の丹比柴籬宮が営まれ、一時的にせよ政治の拠点ともなった。河内の重要性が高まると大伴連、物部連などの連の姓(カバネ)を持つ氏族もヤマトと両方に拠点を持った。連は大王家に臣属し大王の手足となって職務を執行した氏族である。物部氏土師氏である。
 渡来人とその先進技術を独占掌握し、半島・大陸ルートも管轄下においた王権に飛躍したことを河内の王墓は誇示しているのである。
 

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2011年11月17日 (木)

クロツラヘラサギを護ろう!

 今年もクロツラヘラサギが、博多湾に飛来し、多々良川河口にも姿を見せている。この鳥はトキ科の渡り鳥で、地球上に1850羽前後しかいない、非常に貴重な「絶滅危惧種」に指定されている鳥である。
Photo  ご覧のように(写真は毎日新聞より)、顔が黒く、口ばしがヘラのように横に平べったくなっている。カモたちと仲良く、川の魚など啄んでいるのであるが、今日TVでショッキングなニュースが流れた。

 多々良河口はルアー釣りの好場所でもあり、晴れた日の釣り客も多い。しかし、何かに引っかけ千切れた疑似針が残されており、今年もこのサギの一羽がこれを口ばしに巻きつけてしまい、えさを食べられなくなってしまった。発見されてから数日たって、10km近く離れた駕与丁公園の池のほとりにいるのが発見され、捕獲保護され、福岡市動物園の動物病院に運ばれ針、糸は外されたが、体中に10数か所の傷があり、食べていないので可なり衰弱している由。何とか助かり元気になるのを祈っている。

 このような例が多く、クロツラヘラサギだけでも平均毎年1羽が被害にあっているそうだ。NPOの団体が一生懸命釣り針の回収掃除に頑張っているようだが、追いつかないようである。釣り客のマナーアップと、回収作業への参加を望むところである

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2011年11月15日 (火)

倭国の興亡74: [異説] 倭の五王は百済王統

 当シリーズ62回に於いて、392年北九州にいた王は、沸流百済宗家の兄王で、百済は弟王に任せていたとする異説を記した。(兄王=応神か)。その続きを見る。
 この兄王(応神)394年筑紫の貴国(佐賀・基肆)で崩じた。この後を継いだのはである。書記(395年以降)や好太王碑文(396年)の応神の業績とされているのは倭王讃のことである。
『八年(397年)・・・百済人来朝り・・・これを以て王子直支を天朝に遣わして、先王の好を脩むといへり』(応神紀)とあり、百済の阿花王が好太王に降伏した事がわかったので、倭王讃は翌八年韓半島の百済の檐魯(地方領土)をすべて没収し、阿花王の王子・直支(トキ)を人質にとって、宗家(倭王)への忠誠を誓わせたとある。
 好太王碑文にある
残国とは列島の倭王讃が半島南部に残している国であり討つべきは倭であると高句麗は考えた。一方、倭王讃も半島北部まで攻めるべしとして、400年(永楽十年の役)、404年(同14年の役)、407年(同17年の役)と攻めている。
 405年直支は百済に帰りとして420年まで在位する。429年讃が没して、珍が立っている。宋書に430年珍の遣使の記事がある。珍は百済に対し采女(人質の女性・天皇の食事の世話をした)を要求して、池津媛が遣わされた。

 興の時代になると、「百済新撰」からの引用記事として雄略紀に『辛丑年(461年)に蓋鹵王(百済王・余慶)、弟昆支君を遣わして、大倭に向でて、天王に侍らしむ。以て兄王の好を脩るなりといへり』とあり、百済王は昆支君を天皇に仕えさせるために倭へ派遣。一緒に来日した蓋鹵王の婦が肥前の加羅で産んだ子(斯麻)が後の武寧王(百済王になる)として百済王統を統合する。
 蓋鹵王の次の文周王のとき、昆支君は内大臣となり帰国。文周王と次の文斤王が
479年に没した。そのとき倭に残って、興及び武に仕えていた昆支君の子が即位し未多王となって、百済に送り込まれ東城王となる。

 尚、五王の系譜で不明なのが、武の父王であるである。是を百済王・近蓋婁とすれば、無理なく説明が可能であるとする。即ちは温祚系余氏の百済王ビ有の子とすれば、ビ有の存命中に没した倭王珍の後に自分の子の近蓋婁を倭王に出来るし、武の上表文中の父兄の死に関する叙述にも無理がないという。よって、沸流系余氏だった讃(395-429)・珍(429-443)を継いだのは温祚系余氏済(443-461)・興(461-477)・武(478-515)がついで王統の変更があったことになる。
 以上百済王族が倭国王として君臨し、北部九州と半島南部を倭国として支配し、百済とも近しい関係を維持していた。と見る論がある。 

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2011年11月13日 (日)

渡り鳥飛来

Photo  世界的にも有名な渡り鳥の飛来地『和白干潟』から程近い、多々良川下流域には、この干潟から珍しい渡り鳥が来て羽を休めていることがある。それが撮れないかと、カメラを持って出かけたが、お目当ての『クロツラヘラサギ』には出逢えなかった。
 の写真はクロサギではないかと思う。眠っているのか、まったく微動だにせずじっとしている。周りに鴨がいるので、比べると大きさが判るが、結構大きな鳥である。皆が同じ方向を向いているのがおかしい。

Photo_3   の写真はカモであるが、薄日の差す穏やかな日だったので川の中の洲に上がり、全部丸く膨れて寝ているようである。鴨は群れてすべてが同じ行動をするところが面白い。全部こちら向きである。
 昔から、この辺りはカモがよく来たのか、近くの料亭「野鳥」ではカモ料理が定番だ。
Photo_4  の写真はゴイサギであろう。是もサギらしく、じっとして彫像の如く動かない。普通の大きさは60cm位で、翼開長110cm位というから、飛ぶと大きく見えるだろう。夏に北海道へ飛来し、冬には南下する。群れはなさず単独或いは数羽の小規模な群れを作るらしい。

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2011年11月11日 (金)

倭国の興亡73: 倭王武の上表文の狙い

73  「宋書」による倭王の中国への朝貢は最後の5番目の武王で終わる。478年倭王武は従来の朝貢とは異なり、宋王朝に対し『上表文』を提出していること、又倭王の臣下に対する官爵は要求していない。(図は宋書倭国伝
 まず、上表文。堂々たる駢儷体の漢文で書かれた上表文は全体が4つの部分からなっている。上表の目的は高句麗にも対抗できる、極東アジヤの支配権を有する官爵を得ることであり、前段部分はその理由づけとなっている。
第1段倭国の統一・征服戦争:征服戦争に明け暮れ、東方毛人を征すること55ヶ国、西の方衆夷を服すること66ヶ国、渡りて海北(半島)を平らぐこと95ヶ国。是より陛下の天下かは太平となり、支配が遠くまで及んでいます。
第2段高句麗の無道:王位についている自分は統べるところを駆率し、天極に帰崇し(部下を率いて陛下に帰順し)、百済経由で朝貢しようとしています。ところがそれを高句麗が百済を攻撃し、邪魔をします。それで朝貢も滞ります。
第3段高句麗征討が悲願:亡き父(済)は百万の兵で仇敵高句麗を討とうとしたが、突然兄(興)も相次いでなくなった。
第4段高句麗征討の決意表明官爵の要求:ようやく喪も明け、軍備を整え父、兄の意志を継ぐ。強敵を打ち破り国難を乗り越えて、陛下に朝貢し、忠節を尽くすので、「開府儀同三司」とその他の官号も仮授ください。
 と述べている。開府儀同三司とは府(=官庁)を開設できる名誉的官号だが、諸国王では4名しかおらず、そのうちの一人が高句麗・高璉だった。従って対抗勢力となるべく官号授与を願ったのである。

 しかし、倭王武の努力もむなしく、中国にとっては左程倭国重視をしなくてもよい環境にあり、「安東大将軍」は認めたものの、開府儀同三司の称号要求は容れられなかった。ところが、倭王武もこの時期には既に独自の権威が備わり、国内では「治天下大王」の称号を用い始めていた時期である。即ち「天下を治める大王」として、近畿政権は九州から東は関東までを安定支配下に置き、中国王朝の権威は不必要になり始めていたのである。従って、中国の冊封体制から離脱し、独自の「天下大王」の道を歩み始めるのである。

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2011年11月 9日 (水)

東長寺を観る

Photo  先日、年2回行われる「東長寺説明会」に行った。博多は仏教伝来時、修行僧たちが中国にわたり、帰国後、第一歩をこの地に留め、寺院を建てた各宗派の始祖が多く、ゆかりの寺院も多い。
 東長寺は空海(弘法大師)が、806年唐から帰国し、博多に滞在した折、海岸に近い場所(現呉服町)に伽藍を建立した。後、永禄・天正の兵火に逢い消失。その後、黒田藩2代藩主・忠之公が今の地(御供所町)に新たに建立したものである。忠之公の他3代・光之公、8代・治高公の墓所でもあり、黒田家の菩提寺でもある。(その他の藩主は「崇福寺」が菩提寺)。ご本尊は「千手観音像(国宝)」「弘法大師」「不動明王立像」の3体である。但し大師の像は秘仏であり、厨子内に安置され見れない。山号:南岳山、寺号:東長密寺。真言宗九州別格本山である。
 この五重塔は平成23年に落慶した、純木像総檜作りで、高さ26m。純木造の5重の塔現存するのは九州では2つ目だそうだ。
Photo_2  下の建物は「六角堂」。元々神仏混合であったとき、山笠で有名な櫛田神社内に建立されていたものを、明治になってこちらに移築されたものだ。天保13年、博多商人・豊後屋栄蔵が浄財を募り建立したもので、6面に弘法大師、文殊菩薩、地蔵菩薩、薬師如来、北辰霊符神像が祀られている。重要文化財指定である。
 他に昭和63年から4年がかりで作られた木造釈迦坐像では日本一大きい(高さ10.8m)大仏があり、光背は16.1mという大きい大仏があるが、時間の関係で見れなかった。
 櫛田神社との関係はこのようなことで、隣の承天禅寺の場所が山笠発祥の地であることもあって、山笠には必ずこの2寺に山は止まって参拝をしてから、市街を走り抜ける。

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2011年11月 7日 (月)

倭国の興亡72: 倭五王の朝貢・冊封要請

 倭の五王は「宋書」「梁書」に「讃(賛)、珍(彌)、済、興、武;( )内は梁書」と記されている。夫々がどの天皇に該当するか、種々異論もあるが、大方は、讃=応神(14代)、珍=仁徳(15代)、済=允恭(19代)、興=安康(20代)、武=雄略(21代)と見ている。
 これらの王が中国に朝貢したのは宋書などによれば以下の通りである。
421年倭王讃朝貢し叙爵される。425年曹達を遣わし国書・進物献上。430年讃の遣使朝貢。
438年倭王珍遣使朝貢し、自ら「使時節・都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」と称し、叙正(正式な任命)を求めるが、安東将軍・倭国王に任じられる。
443年倭王済遣使朝貢し、安東将軍・倭国王を授かる。451年安東将軍に使時節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加えらる。
462年:倭国王の世子を安東将軍とする。
477年倭国王(武か)、遣使朝貢する。
478年倭王武、自ら「使時節・都督倭・百済・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王」と称し、遣使して上表。百済を除かれ、六国諸軍事・安東大将軍・倭国王に任じられる。
 六国の中の秦韓・慕韓は辰韓と馬韓のこと。何れも「倭国王」とあり、倭国内の民生権・軍政権の保有を示す。そして、六国諸軍事とあるは、半島の六国の軍政権の公認を示すが、実質は単なる称号である。又百済は416年以来、南朝から代々単独で都督百済諸軍事の称号を授与されている。
Photo_3   将軍号の高位順は、安東将軍を含む四安将軍(東西南北)と四鎮将軍、四征将軍、車騎将軍の順で高く、又安東大将軍を含む四安東大将軍と同鎮、征、車騎大将軍の順に高くなる。故に、百済王の鎮東大将軍に比べると倭王の安東将軍や安東大将軍は格落ちである。高句麗・百済に比べ倭国が新参者だったこともあるが、倭国に対する評価は高句麗・百済ほど高くなかった。しかし、倭王の狙いは高句麗以外の半島全域の盟主としての地位を望んだのではないかとの説もある。尚、倭王は未だ政権内部では連合政権の盟主という位置に留まっていた

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2011年11月 4日 (金)

深まりゆく秋Ⅲ 石蕗とバッタ

 プロ野球CSのファイナルステージはセが中日2勝1敗、パはソフトバンクが2勝0敗となった。どちらもリーグ優勝チームに勝たせたいが、そうも行かなかったのが、昨年までのソフトバンク。今年こそ何としても勝たせたい。

Photo  秋も深まり、石蕗(ツワブキ)が一斉に開花した。咲いて分かったが、山陰や木陰にはたいて咲き乱れ、民家の庭先にもよく植わっている。好かれる花なのであろうか。葉に艶があるところから、ツヤバフキ、或いはツヤブキと呼ばれたのが名の由来とか。九州名産の「佃煮キャラブキ」は木の葉のじくの佃煮である。

Photo_2  ショウリョウバッタ精霊飛蝗と書き、盂蘭盆の頃から見かけることから付いた名前。俗称バッタというのがこれで、イナゴ(蝗)とは区別するが、どちらもバッタ亜目で、同族。写真は大きな緑のバッタに小さな茶系のバッタが乗っているが、これは子ではない。大きいのが雌で、上の小さなのが雄。交尾のことが多いが、そうでなくとも、雄を背負う習性があるそうだ。

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2011年11月 2日 (水)

倭国の興亡71: 中国に冊封された倭の五王

 4世紀から世紀にかけて、倭王権は半島ルートの掌握をテコに発展した。同盟を結んだ百済は372年に中国・東晋に朝貢し、420年に宋が建国されるとすぐに叙爵(ジョシャク)された。倭国はその翌年初めて宋に遣使した。413年に倭国の使者が高句麗と共に東晋に入朝した記録もある。そうすると266年の邪馬台国以来、1世紀半ぶりの朝貢である。こうして5世紀には大陸ルートが復活し、倭王は宋に朝貢し「官爵」を授かった。

 官爵とは官と爵からなる称号で、安東将軍(官)・倭国王(爵)の如きであり、官爵を授かる事を「冊封」という。本来、皇帝が臣下に爵位と采邑(領地)賜与したことから、後に周辺諸国の君主たちとの外交に適用し、皇帝が彼らに冊書(叙任辞令)によって官爵を授与し、それで、皇帝と君主の間に君臣関係を設定したのである。
 中国には、中華思想による王化思想が存在し、朝貢してくる夷荻は皇帝の徳を慕って来たとみなされた。周辺諸国の王も冊封を受ければ王としての地位を中国に承認されたことになり、外交上大きな意味を持った。

71  421年以来、讃・珍・済・興・武の5人の倭国の王が、継続して宋に朝貢し「官爵」を授かった。これが所謂「倭の五王」である。尚、479年に南斉が倭王武を鎮東大将軍に任じ、502年に梁(リョウ)が同じく武を征東大将軍に進号しているが、これらはいずれも新王朝樹立に伴う祝賀的な官爵の授与で、武が朝貢して授かったわけではない。
 倭王武の遣使は478年が最後となった。即ち5世紀「倭の5王の世紀」ということになる。記紀によるこの時期の大王の系譜は上図の通りである。
 倭の五王と、記紀に出てくる大王との関係はどうなのか。幕末には熊襲偽僭説が出たり、古田氏の「九州王朝説」では九州の豪族とみなされたりされるが、この時代に中国の冊封した倭(ヤマト)王権が大和王権であるかどうかは未だ不明とも言える。

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