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2011年10月15日 (土)

倭国の興亡67: 半島戦乱で知識・文化・技術が渡来

 高句麗の南進策による半島戦乱の頃(4世紀末~5世紀初頭)、倭国に大量のヒト・モノが流入した。半島に居場所を失った人々や、倭国が新知識や技術導入のため連れ帰った工人或いは前述の「質」とその同伴者など含め、第一次の渡来人ピークとなり、先進文化や技術などをもたらした。
67  基本的なものはまず韓式土器といわれ、4世紀後半~5世紀代の遺跡から出土する半島南部の土器とよく似た土器の総称である。古墳時代の須恵器の祖型に当る陶質土器はロクロを使用し高温で焼成する高級な土器である。又、土師器と同じく酸化炎焼成した赤みを帯びた南質土器があるが、列島の土師器にはない器種・器形である。(写真は堺・大庭寺遺跡の須恵器
 これらの出土分布河内地域に集中し、畿内の河内・大和に最も多く、吉備・筑紫がこれに次ぐのは、渡来人の多くが倭王権と関係が深い要地に計画的に定着させられたからである。
 須恵器は列島西部各地で生産されたが、大阪・陶邑(スエムラ)は須恵器生産の中心地となる。尚、須恵器は400年前後には既に生産が開始されていた。当然ながら、渡来人たちの生活用具類(鍋や甑、竃など)や煮炊きする調理法なども、列島に広がり倭人の生活文化として定着してゆく。又、5世紀初頭には馬と馬具やその金メッキの技術がもたらされ、乗馬の風習もひろまった。

 5世紀前半までの土器伽耶南部地域の工人集団によって製作された可能性が高く、馬具・金工技術も金海・釜山の金官国の系譜だと言われる。伽耶南部地域は4世紀前半には土師器をはじめ倭系の遺物が集中出土し、4世紀末には住民が大挙して渡来するという逆現象が起きたことになる。半島での戦乱は半島南部の広範な地域を巻き込んだが、考古遺物から見れば渡来人の大半は伽耶南部地域の人々であり、ヤマトは身近な存在だったのだ。
 もちろん、同盟国の百済からの贈り物は学者や名馬、珍奇な宝物など国家の威信をかけた一級の物ばかりだった。新羅も同様であるが、質量ともカラとは大きく違った。尚、渡来人による河内地域の大規模な堰や河川工事は、土木・灌漑技術を飛躍的に発展させた。

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