« 深まり行く秋Ⅱ 渡り鳥 | トップページ | 深まり行く秋 Ⅲ »

2011年10月28日 (金)

倭国の興亡70: [異説] 応神天皇の謎

 応神天皇に関しては大きく評価される場合と、単なる仲哀から仁徳への繋ぎ役との評価に分かれ、多くの説がある。以下要点を下記する。前回と対比してみてください。

○九州国家(応神)が大和国家(崇神朝)を統合しえた年を362年とすれば諸事説明できる。362-391年列島を統一する国家体制が組織され、半島においても任那・加羅の植民地を確立し、それを足がかりに、百済と共同し、新羅と闘いながら中部朝鮮まで侵攻するに至った。こう考えれば、百済王から七支刀を献上され、高句麗と戦った「倭国・倭王」とは、大和国家を破って列島統一を実現した九州国家即ち狗奴国と狗奴国王に他ならない。
 この狗奴国王仁徳天皇応神天皇であった。記紀では応神を日本初の「大王(オオキミ)と称し、それに相応しい伝説や事蹟を記している。中でも重要なのは応神が九州で出生したと明記していることだ。これは史実を反映している。
 仲哀の大和遠征軍を狗奴国王の応神が打ち破り、大和の旧領域まで包含した巨大な統一勢力を築いた。応神は完全な支配権の確立、半島事情への精通、地の利を得た場所に本拠地をもち、強敵高句麗と対決しえた。(古代王朝99の謎「応神の謎」)

日本統一を成し遂げたのは応神の母である神功皇太后である。皇太后死後、応神が親政をはじめ、百済の王仁博士の来朝で漢字が伝えられたこと、秦氏の祖先弓月君の渡来、呉から縫工女の招聘の事蹟。兄の忍熊王子らを破った経過からも支持勢力は紀伊や河内に多い。フロンティアが東国から大陸に変わって、交流に便利な大和や難波が立地に優れていた。(写真は応神陵陪塚発掘の馬具)
70  尚兄たちの地盤であった近江を巡幸し、妃の出身地の吉備にも出かけている。そして日向の豪族の娘も娶っている。一方相変わらず油断できない筑紫(昔の邪馬台国)には武内宿祢を観察のため派遣した。応神の出自ははっきりしないが、仲哀の後継者であり、新王朝の創始者とは言えず、河内王朝はやはり仁徳からであろう。(「本当は謎がない『古代史』」より)

○記紀は応神朝に最初の集中的な渡来人の来朝があったと記している。但し、そのままは信じられない。まず、千字文と論語を応神朝に渡来した和邇吉師がもたらしたというが、千字文成立は6世紀の事であり、また書記応神記に倭漢氏の祖・阿地使主の子として見える都加使主は、雄略記に見える東漢直掬のことで、5世紀後半の雄略朝の人物とみられる。
 雄略記にも渡来人関係の記事も多いが、東漢氏、秦氏、衣縫の女性など応神紀に対応するものが少なくない雄略記の方に記録性があり応神紀の方は架空の説の性格を持っている。最近は5世紀前半の渡来人は余り高く評価してない。(「日本歴史03巻」) 

|

« 深まり行く秋Ⅱ 渡り鳥 | トップページ | 深まり行く秋 Ⅲ »

古代史、邪馬台国」カテゴリの記事

コメント

ふ~む・・・・、この応神天皇時代が、古代史の一つのキーになっているようですね。
諸説あるということは、それだけ確実な物証がないということでしょうか。前回の記事では、大きな古墳にも象徴される新王朝を創始した大王に疑いは持ちませんでしたが、1700年も前のことですから、まさしく謎なんでしょうね。ただ実在はしたみたいですね。
こんなに違う見方があるもは、やはり珍しいのでしょうか?

投稿: Y | 2011年10月31日 (月) 12時46分

 Yさんへ。3-4世紀の頃は中国との交流途切れた事が多く、中国の史書にあまり記載がないからわからないのです。半島との交流が盛んだったが、半島は未だ神話時代から抜けきっていませんので、半島の史書も信用出来ないからです。でも、半島との交流は可なり密だった筈です。日本書紀の方が疑わしいのです。

投稿: 山猿 | 2011年10月31日 (月) 16時17分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/534272/53103811

この記事へのトラックバック一覧です: 倭国の興亡70: [異説] 応神天皇の謎:

« 深まり行く秋Ⅱ 渡り鳥 | トップページ | 深まり行く秋 Ⅲ »