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2011年10月 3日 (月)

倭国の興亡64: 百済との国交ー軍事同盟

 4世紀初頭に半島ルートを掌握し、伽耶諸国と通交するようになったヤマト王権は伽耶を介して、建国間もない百済と国交を樹立する。
Photo_2   奈良・石上神宮は「七支刀」を所蔵している。これは泰和4年(369年)に百済で造られ百済王子(太子)が倭王に贈ったものとされており、ほぼ諸家も認めるところである。即ちこの時点で倭国と百済の間には正式の国交があった証拠だ。この事は「書記」の神功紀52年9月条にも記載されているが、百済が毎年「朝貢」するが如き記事になっているが信用できない。実際には対等の立場での国交樹立であった記念としての贈物であろう。

 当時(4世紀後半)の半島は三国時代に入ったばかりで、北に高句麗その南に建設直後の新羅と百済が東西に並び、南端に伽耶諸国があった。その中で、百済が倭国に接近してきた背景には高句麗の南下策があった。
 中国は4世紀に入ると晋が衰え五胡十六国時代に入る。この影響で、313年頃、高句麗が楽浪・帯方を攻め、晋を半島から駆逐した。ところが342年、高句麗は前燕に大敗し、翌年臣従する。この後高句麗は平壌を拠点とし南方に活路を求める
 こうして、
4世紀前半には高句麗と馬韓に建設されたばかりの百済とが激しく対立し、371年百済の近肖古王は平壌城を攻め、激しく戦った。

 このようにして、七支刀が百済から贈られたのは、百済が高句麗と凌ぎを削っていた時で、軍事パートナーが必要なときであった。一方倭国は百済が先進文物の供給源として必要であり、百済には楽浪・帯方遺民の中国系人が多く、高句麗に勝利した翌年には東晋に朝貢し、正式に国交を開き、倭国は半島・大陸に新しいチャンネルを開くのに成功した。        尚、七支刀に刻まれた銘文は次の通りである。
[表]「泰和四年五月十六日丙午正陽造百練鉄七支刀辟百兵宜供候王□□□□□
(大意:泰和4年(369年)5月16日丙午の正午に、よく鍛えた鉄で七支刀を造った。この刀は多くの災厄を辟けることができ、候王が持つにふさわしい。・・・)
[裏]「先世以来未有此刀百済王世子奇生聖音故為倭王旨造伝示後世
(大意:先世以来、このようなりっぱな刀はなかったが、百済王の世子(太子)奇生(貴須王か)が、倭王のためにわざわざ造ったものである。後世まで伝え示されたい)」 

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