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2011年10月 7日 (金)

倭国の興亡65: 広開土王碑

 百済と軍事同盟を結んだ倭国は、やがて百済の要請により、高句麗と直接戦火を交える。それが記録されているのが、広開土王碑である。この碑は鴨緑江北岸、中国吉林省集安に所在する。(下図
Photo  この碑は高句麗の広開土王の功績を讃えた石碑であるが、この碑の中の前書きの部分にあるの記述について、戦前、日本軍部による欠字部分の補修の問題、碑文の日本にとって都合よい解釈など問題を醸してきた。しかし、最近大方の意見もまとまり、まず日本軍による改竄はなかったことが分かった。そして問題の前書き部分の解釈については次の通りである。
[原文]而倭、以辛卯年来、渡海破百残□□新羅、以為臣民
[読下し文](シカ)るに倭、辛卯の年(391年)を以て来たり、海を渡りて百残・□□・新羅を破り、以て臣民となす
[意訳]391年に、倭が海を渡って攻めてきて、あっという間に百残(百済の蔑称)新羅等を破り、倭の臣民即ち属国にした。と解釈された。

 ところが最近の日朝双方の学者の研究では、上記の部分の文法上の間違いに気づき以下の通りに変更された。即ち「辛卯年」は「辛卯年」を以て来たりではなく、「辛卯年」以来と解釈すべきことで一致した。即ち、「倭、辛卯の年(391年)よりこの方、海を渡りて百残を破り、新羅を□□し、以て臣民となす」とすんなりと読下すことが出来るというものである。
 即ち、元々高句麗の属民だった百残・新羅を辛卯年以来、倭が海を渡って来て両国を倭の臣民としてしまった。そこで、広開土王が倭の臣民となった百済を、自らの水軍を率いて396年に討伐したとなる。一時的に倭が百済・新羅を「臣民」としたと解釈された。
 尚、この時の倭軍を、当時は未だ、大軍を率いて渡海する能力は「列島を統一した政権」にはなかったとし、北九州の倭国(地方勢力)或いは後世の倭寇のような海賊勢力という見方や、当時の半島南部の伽耶系人種や倭人も多く、その戦闘集団であったとの説も強いが、現在は否定され、列島の統一王権の軍団だと見られている。

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