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2011年10月11日 (火)

倭国の興亡66: 倭国も巻き込んだ半島動乱

 4世紀の後半に本格化する高句麗の南下政策は、新興国の百済・新羅や伽耶諸国、さらには倭国をも巻き込んで、半島は最初の動乱期を迎えた。
66_2   新羅は高句麗の軍事力を頼り、その傘下に入る。一方、百済や伽耶諸国は、倭国との提携を深め、倭国を半島に引き込んで、対高句麗の一翼を担わせた
 半島とのパイプが王権の強化に不可欠の倭国は、その要請に積極的に応じて半島南部に派兵する。倭軍は金官国などを拠点に、東は新羅領内、西は遠く帯方郡方面まで進軍し、高句麗軍と戦ったことが知られる。
 この結果、多くの人・モノが列島に渡来し、これを独占的に掌握した倭王権はその再配分を通して各地の首長への支配力を強め、王権を大きく伸ばした

 倭国は友好国の伽耶諸国に加え、百済とも同盟関係を結んだ。基本的に対等の関係であったが、伽耶諸国が小国だったから、ある程度の依存・保護関係は否定できない。又百済・新羅との関係でも軍事力を切り札に、王族の「質」や多くのモノ・ヒトを要求し、さらには政治的介入も行った。広開土王時代、新羅・百済から倭へ、王族を「質」として送らせた。
 百済・新羅の倭国への入質は、ムカハリ即ち王の「身代わり」で、重要な政治的・軍事的協力を要請するときの、裏切らない証に王の身代わりに派遣された外交使節だった。但し倭国が相手国に送ることはなかった

 397年百済の阿莘王(アカオウ)倭国との好(ヨシミ)のため太子の腆支(直支)を「質」として倭国に送った。396年に百済が高句麗に大敗した時、同盟を解消したが、後に再び、倭国と提携し高句麗に対抗した時の「質」である。405年阿莘王が没した時、腆支を返し、即位を支援している。(倭が仲哀から応神天皇の時代で大和政権が確立の頃か)。
 また、400年には新羅が王子美海を質として倭に入れたが、外交折衝の末、新羅侵攻中止の見返りとして王子を入質したものである。
 この政治的介入は民族意識・国家意識の形成を促し、倭国が半島との関係を朝貢関係とみなすようになり、倭の五王時代には半島での軍政権を宋王朝に主張したり、任那や百済を朝廷の「官家」(ミヤケ)と主張するようになった。

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