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2011年10月

2011年10月30日 (日)

深まり行く秋 Ⅲ

 今朝の気温は、11月下旬の寒さだとか。本格的な暖房とまではゆかないが、朝夕は少し補助暖房が要る。

Photo  いつも今頃目をとめる柿の木。ここは周りに何もなく、紺碧の空に、一本だけある柿の木が、赤くなった柿の実を一杯付けて、そそり立っている。この柿の赤と空の青のコントラストが、秋だ!と感じさせる。ついカメラを向けたくなる風景なのだ。

Photo_2

 これもいつもながらの「フウセン葛」ホオヅキと同じ形の実がついて、も少しすると、ホオヅキと同じく赤くなる。結構強い草で、枯れても消えてなくなることがなく、次の年、枯れ枝から又新しい芽が出て、実をつける。

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2011年10月28日 (金)

倭国の興亡70: [異説] 応神天皇の謎

 応神天皇に関しては大きく評価される場合と、単なる仲哀から仁徳への繋ぎ役との評価に分かれ、多くの説がある。以下要点を下記する。前回と対比してみてください。

○九州国家(応神)が大和国家(崇神朝)を統合しえた年を362年とすれば諸事説明できる。362-391年列島を統一する国家体制が組織され、半島においても任那・加羅の植民地を確立し、それを足がかりに、百済と共同し、新羅と闘いながら中部朝鮮まで侵攻するに至った。こう考えれば、百済王から七支刀を献上され、高句麗と戦った「倭国・倭王」とは、大和国家を破って列島統一を実現した九州国家即ち狗奴国と狗奴国王に他ならない。
 この狗奴国王仁徳天皇応神天皇であった。記紀では応神を日本初の「大王(オオキミ)と称し、それに相応しい伝説や事蹟を記している。中でも重要なのは応神が九州で出生したと明記していることだ。これは史実を反映している。
 仲哀の大和遠征軍を狗奴国王の応神が打ち破り、大和の旧領域まで包含した巨大な統一勢力を築いた。応神は完全な支配権の確立、半島事情への精通、地の利を得た場所に本拠地をもち、強敵高句麗と対決しえた。(古代王朝99の謎「応神の謎」)

日本統一を成し遂げたのは応神の母である神功皇太后である。皇太后死後、応神が親政をはじめ、百済の王仁博士の来朝で漢字が伝えられたこと、秦氏の祖先弓月君の渡来、呉から縫工女の招聘の事蹟。兄の忍熊王子らを破った経過からも支持勢力は紀伊や河内に多い。フロンティアが東国から大陸に変わって、交流に便利な大和や難波が立地に優れていた。(写真は応神陵陪塚発掘の馬具)
70  尚兄たちの地盤であった近江を巡幸し、妃の出身地の吉備にも出かけている。そして日向の豪族の娘も娶っている。一方相変わらず油断できない筑紫(昔の邪馬台国)には武内宿祢を観察のため派遣した。応神の出自ははっきりしないが、仲哀の後継者であり、新王朝の創始者とは言えず、河内王朝はやはり仁徳からであろう。(「本当は謎がない『古代史』」より)

○記紀は応神朝に最初の集中的な渡来人の来朝があったと記している。但し、そのままは信じられない。まず、千字文と論語を応神朝に渡来した和邇吉師がもたらしたというが、千字文成立は6世紀の事であり、また書記応神記に倭漢氏の祖・阿地使主の子として見える都加使主は、雄略記に見える東漢直掬のことで、5世紀後半の雄略朝の人物とみられる。
 雄略記にも渡来人関係の記事も多いが、東漢氏、秦氏、衣縫の女性など応神紀に対応するものが少なくない雄略記の方に記録性があり応神紀の方は架空の説の性格を持っている。最近は5世紀前半の渡来人は余り高く評価してない。(「日本歴史03巻」) 

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2011年10月26日 (水)

深まり行く秋Ⅱ 渡り鳥

 秋深まると、博多湾には世界有数といわれる野鳥が飛来する和白干潟がある。その干潟に近い多々良川にも、その群れから外れた野鳥を見かける季節となった。

Photo  。もうそろそろ鴨の来る季節と思い、多々良河畔を歩くと、居た。約30羽程の群れが泳いでいた。早速カメラを向けると、例によって彼等は素早く散開。写真のような4、5羽ずつのグループに分散してしまい、「群れ」は撮れなかった。

Photo_2  サギ。それより上流の堰の水たまりにはサギがいた。これは大人のサギだろうか、大きい。サギももうしばらくすると、渡ってきた群れが見られるが、今は未だ来てないようだ。

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2011年10月23日 (日)

倭国の興亡69: 初期の大王・応神天皇の出現

 応神実在した初期の大王と言われる。即ち半島出自で半島とも近しい関係の狗奴国を率いて、邪馬台国を滅ぼし、九州倭国王となって、日本海を北上。ヤマト前王朝の遺児・香坂、忍熊王子を滅ぼし、敦賀から近江を経由して半島渡来氏族を従えて大倭(ヤマト)王朝を樹立。新王朝を創始した大王である。(因みに神話時代神武、ヤマト王崇神、そして大倭王応神の夫々新王統初代天皇のみに冠する「神」がついている)。
69  
応神の事蹟は何と言っても列島の統一国家「大倭」を作り、半島との近しい実績を以て鉄資源を確保し、中国から半島を含めた「安東大将軍」の称号を受け、半島から多くのヒトと共に新しい技術、文化を導入し国家の建設を軌道に載せたことであろう。以下応神天皇事蹟を箇条書きしてみる。
.王権の象徴である前方後円墳は
世紀に入り、応神、仁徳陵は最大級のものとなり、天皇の権威は古墳に象徴され、他の豪族を圧した
.4世紀古墳は竪穴式石室だったが、5世紀になると横穴式石室が作られる。横穴式は大陸では早くから発達しており半島からの渡来の影響があった。
.4世紀古墳に多かった三角縁神獣鏡が減少し、馬具や馬の埴輪が出土するようになる。百済王から阿直岐につけて良馬二匹が贈られた。
.上記阿直岐は皇太子の儒学の師となり、また阿直岐の推薦で百済から王仁(ワニ)論語、千字文を持ってきた。応神朝にはまた弓月の君が配下百二十県の人々を連れ来朝する。後の秦氏の祖先である。秦氏は織物の生産に携わる。又、東漢氏(ヤマトノアヤウジ)の祖先となる阿知の使臣(アチノオミ)も子の都加の使臣(トカノオミ)と共に十七県の人々を率いて来朝する。
.半島からの渡来人は池や堤を作り、古墳の築造や堤の築造などには新しい外来の技術が導入された。書記に天皇のが武内宿祢に命じて、韓人を率いて池を造らせたとある。武内の子孫の蘇我氏は渡来系氏族と密接な関係を持ち、或いは支配し富を蓄積した。
5世紀には岡山県の造山古墳(墳丘全長350m全国4位の前方後円墳)や作山古墳(墳丘長270m同12位)、宮崎県の女狭穂塚古墳など巨大古墳が作られた。何れも応神や仁徳の妃の出身地であり、巨大古墳の分布は記紀伝承と合致する。

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2011年10月21日 (金)

深まりゆく秋Ⅰ

 カダフィ大佐死亡が報じられた。最近の世界の動きは、大きなうねりをもって変化し始めた感を深くする。秋も深まり、澄んだ青空と強いコントラスト感じさせる花や実のの色が美しく映えるこの頃です。いつもの定番の題材になるが、秋を感じさせるものを掲載。
Photo ススキ:芒が美しくなる季節。尾花ともいう。最近、芒の種類も多くなったと思っていたが、それは似て非なるものかもしれない。芒はノギとも読むが、似たものはオギ(荻)といい、これは屋根を葺くのに用いるもので、通称「かや」と称している。但し茅・萱は芒も含めた総称でもあるらしい。
Photo_3  中 レモン:まだ色づく前ではあるが、もう既にこの大きさであり、やがて色づくだろう。これは民家の屋敷内に植わっているので、多分自家用に植えられているのであろう。是には虫が着かないのか、虫に食われいるところは見た事がない。虫や鳥に食われない果物は作りやすいかも。
Photo_4 下 橘モドキ:今、タチバナモドキは盛りである。今年特に実が沢山付いている。これは道路のフェンス脇に植った小木ながら、この成り様である。是は小鳥の餌食にはならないのだろうか。

 

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2011年10月19日 (水)

倭国の興亡68: 神功皇后は実在した

 神功皇后は卑弥呼に比定されることが多い一方、実存しない虚構とする人も多い。多くの事蹟を持ちながら何故女帝でなかったのか、又記紀の仲哀との婚姻関係、応神との親子関係記述が、明らかに作為的な皇統作成のため無理を重ねている。
Photo  その中で、歴史家・安本美典氏「実在説」を次のように説いている。
神功皇后の新羅遠征は、「古事記」「日本書紀」「風土記」「万葉集」など奈良時代文献が挙って記し、又「続日本記」「古語拾遺」「新選姓氏録」など平安以降の諸文献も昔あった事実とした書き方をしている。また、九州を中心とする諸社の縁起、各地の地誌或いは伝説で神功皇后に結びつけたものは多い。
 宇佐神宮や香椎廟の伝えなどが示すように、古くから多くの民間伝承もある。(写真は神功皇后の木像)
.中国の「宋書」で、倭王武が「・・・・・六国諸軍事安東大将軍・倭国王」の爵号を受けたのは、その数代前に神功・応神の頃半島への征討があったとしてこそ極めて自然である。半島への軍事的進出は広開土王碑や朝鮮「三国史記」も記しており、中国、朝鮮、日本の文献がそろって記している。
.神功皇后の物語そのものが天皇や大和朝廷の権威を高めるには少しも役立たないから、そのための虚構でもない。
.天皇や大和朝廷の権威を高めるためなら英明な天皇像を描くべきなのに、記紀ではやや愚図な仲哀天皇を神功皇后が叱咤激励するという図式である。
.神功皇后に神懸りした神が仲哀に言ったことに対し、仲哀が否定したために神の怒りを買い、息途絶えてしまう。むしろ天皇の権威失墜の話である。
.神功皇后の出自は、天皇家との血縁は薄い。然るに、神功は天皇家の血筋の香坂、忍熊王子を滅ぼし、自分の子の品陀和気命(ホンダワケノミコト)(応神)を天皇の位につける。
.古事記の「応神天皇記」で神功の母、葛城の高額比売は「新羅国王の子」の天の日矛の5世の孫、即ち神功には敵国の王室の血が混じっているとしている。新羅を蕃国(野蛮なクニ)としており、記紀も新羅を尊敬すべき国としていない。

 以上、神功の朝鮮出兵を架空の話とする例は多いが、内外の諸文献は一致して倭の朝鮮進出を伝えており、考古学的事実もそれを支持している

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2011年10月17日 (月)

香椎宮の流鏑馬(ヤブサメ)

 昨日、近くの香椎宮「秋季氏子大祭」あり、その行事の一つとして例年開催の流鏑馬(ヤブサメ)が行われた。いつも日時が判らず見損なうが、今年は近所の床屋に教わり、一度見たいとの念願が叶った。
Photo  出場馬登場(三頭)。少し早めにと思って、聞いた時間より30分ほど前に行って見ると、丁度出場馬が正装を整え入場してくるのに出くわした。これは、本殿前での神事に行くためであったらしく、予定通り午後一時に流鏑馬会場(香椎宮のグランド)に入場してきた。 最初はコースを歩行、助走、最後に疾走の「慣らし運動」後、愈々本番へ。
Photo_3   本走。奔って矢を放った瞬間を20枚程度撮ったが、走る馬のピントは合いにくい。ピントが合っているのは4、5枚程度。疾走馬を撮る写真家は偉い!と感心した次第。尚、観衆全員が、カメラを出すので、人の腕やカメラなど要らぬものが入る。当然新聞社のカメラマンは脚立の上から。
 的は二つを連射するが、これは後の場所の的での撮影。
Photo_4  写真撮影の観客:望遠からコンパクトカメラ、更には携帯と全員が一生懸命に撮影に腐心。ついつい押し合い圧し合いで、係員からあまりカメラを突き出すと馬が驚きますと叱れた。でも、そばで矢を射る瞬間は素晴らしく、圧巻であった

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2011年10月15日 (土)

倭国の興亡67: 半島戦乱で知識・文化・技術が渡来

 高句麗の南進策による半島戦乱の頃(4世紀末~5世紀初頭)、倭国に大量のヒト・モノが流入した。半島に居場所を失った人々や、倭国が新知識や技術導入のため連れ帰った工人或いは前述の「質」とその同伴者など含め、第一次の渡来人ピークとなり、先進文化や技術などをもたらした。
67  基本的なものはまず韓式土器といわれ、4世紀後半~5世紀代の遺跡から出土する半島南部の土器とよく似た土器の総称である。古墳時代の須恵器の祖型に当る陶質土器はロクロを使用し高温で焼成する高級な土器である。又、土師器と同じく酸化炎焼成した赤みを帯びた南質土器があるが、列島の土師器にはない器種・器形である。(写真は堺・大庭寺遺跡の須恵器
 これらの出土分布河内地域に集中し、畿内の河内・大和に最も多く、吉備・筑紫がこれに次ぐのは、渡来人の多くが倭王権と関係が深い要地に計画的に定着させられたからである。
 須恵器は列島西部各地で生産されたが、大阪・陶邑(スエムラ)は須恵器生産の中心地となる。尚、須恵器は400年前後には既に生産が開始されていた。当然ながら、渡来人たちの生活用具類(鍋や甑、竃など)や煮炊きする調理法なども、列島に広がり倭人の生活文化として定着してゆく。又、5世紀初頭には馬と馬具やその金メッキの技術がもたらされ、乗馬の風習もひろまった。

 5世紀前半までの土器伽耶南部地域の工人集団によって製作された可能性が高く、馬具・金工技術も金海・釜山の金官国の系譜だと言われる。伽耶南部地域は4世紀前半には土師器をはじめ倭系の遺物が集中出土し、4世紀末には住民が大挙して渡来するという逆現象が起きたことになる。半島での戦乱は半島南部の広範な地域を巻き込んだが、考古遺物から見れば渡来人の大半は伽耶南部地域の人々であり、ヤマトは身近な存在だったのだ。
 もちろん、同盟国の百済からの贈り物は学者や名馬、珍奇な宝物など国家の威信をかけた一級の物ばかりだった。新羅も同様であるが、質量ともカラとは大きく違った。尚、渡来人による河内地域の大規模な堰や河川工事は、土木・灌漑技術を飛躍的に発展させた。

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2011年10月13日 (木)

珍しい花が多い

Photo  最近は新しい花が多く、名前もわからない。そんな中、他では見かけず、ここでしか見かけない珍しい花2点。
 。沢山植っているのではなく、多分1株だけが50cmほどに広がって咲いている。多分花だろうから、咲いていると記したが、これが花なのかどうかもわからない。唯真紅で美しい。

Photo_2  。これは庭のフェンスに目隠し用に這わせた蔓に白い花がついている。この蔓はスギナのような感じの葉が、余り茂りすぎず、丁度風通しはよくて、いい具合の目隠しになっている。そこにポツンポツンと真っ白な小さな花がよく目立つ
 尚、10月9日で、クロッカスかとしたのは、イヌサフランでした。

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2011年10月11日 (火)

倭国の興亡66: 倭国も巻き込んだ半島動乱

 4世紀の後半に本格化する高句麗の南下政策は、新興国の百済・新羅や伽耶諸国、さらには倭国をも巻き込んで、半島は最初の動乱期を迎えた。
66_2   新羅は高句麗の軍事力を頼り、その傘下に入る。一方、百済や伽耶諸国は、倭国との提携を深め、倭国を半島に引き込んで、対高句麗の一翼を担わせた
 半島とのパイプが王権の強化に不可欠の倭国は、その要請に積極的に応じて半島南部に派兵する。倭軍は金官国などを拠点に、東は新羅領内、西は遠く帯方郡方面まで進軍し、高句麗軍と戦ったことが知られる。
 この結果、多くの人・モノが列島に渡来し、これを独占的に掌握した倭王権はその再配分を通して各地の首長への支配力を強め、王権を大きく伸ばした

 倭国は友好国の伽耶諸国に加え、百済とも同盟関係を結んだ。基本的に対等の関係であったが、伽耶諸国が小国だったから、ある程度の依存・保護関係は否定できない。又百済・新羅との関係でも軍事力を切り札に、王族の「質」や多くのモノ・ヒトを要求し、さらには政治的介入も行った。広開土王時代、新羅・百済から倭へ、王族を「質」として送らせた。
 百済・新羅の倭国への入質は、ムカハリ即ち王の「身代わり」で、重要な政治的・軍事的協力を要請するときの、裏切らない証に王の身代わりに派遣された外交使節だった。但し倭国が相手国に送ることはなかった

 397年百済の阿莘王(アカオウ)倭国との好(ヨシミ)のため太子の腆支(直支)を「質」として倭国に送った。396年に百済が高句麗に大敗した時、同盟を解消したが、後に再び、倭国と提携し高句麗に対抗した時の「質」である。405年阿莘王が没した時、腆支を返し、即位を支援している。(倭が仲哀から応神天皇の時代で大和政権が確立の頃か)。
 また、400年には新羅が王子美海を質として倭に入れたが、外交折衝の末、新羅侵攻中止の見返りとして王子を入質したものである。
 この政治的介入は民族意識・国家意識の形成を促し、倭国が半島との関係を朝貢関係とみなすようになり、倭の五王時代には半島での軍政権を宋王朝に主張したり、任那や百済を朝廷の「官家」(ミヤケ)と主張するようになった。

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2011年10月 9日 (日)

放置していても咲いてくれた

Photo_3  若い頃は花つくりにも凝った。そのうち一番熱を入れたのが『蘭』だった。が一番難しいのもランだった。いろんな種類のランを友人から分けてもらってやってみたが、せいぜい1、2年咲けば、3年以上続けてうまく咲いたためしがない。花期が終わった後の世話と、温室的な環境を作ることが難しいのである。

 そのうち飽きて、生来ものぐさ故、放っぱらかしにするが、そん中でも我が庭に毎年辛抱強く咲いてくれる花2点
Photo_4  の花。多分クロッカスだろう。多分とは頼りない記憶だが、水耕栽培が流行り、ヒヤシンス、クロッカスなど水耕栽培した。が、これも例にもれず、飽きて、球根を庭に埋めた。ところが強い花なのか、毎年花が出る。但し、このように沢山出たのは珍しいし、大体花期が春のはずだから、狂い咲き(返り咲き)か。もしかしたらクロッカスでなないのかも。訂正:これはイヌサフランらしい。

 の花はオンシジューム。本来毎年植え替え、ミズゴケも取り替え株数も減らすべきだが、これは何の世話もせず、庭木の枝の日蔭に吊るしっ放し。それでも辛抱強く花を咲かせる。本当に強い花ではある。咲いている時だけ、目につく所に吊るしている。

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2011年10月 7日 (金)

倭国の興亡65: 広開土王碑

 百済と軍事同盟を結んだ倭国は、やがて百済の要請により、高句麗と直接戦火を交える。それが記録されているのが、広開土王碑である。この碑は鴨緑江北岸、中国吉林省集安に所在する。(下図
Photo  この碑は高句麗の広開土王の功績を讃えた石碑であるが、この碑の中の前書きの部分にあるの記述について、戦前、日本軍部による欠字部分の補修の問題、碑文の日本にとって都合よい解釈など問題を醸してきた。しかし、最近大方の意見もまとまり、まず日本軍による改竄はなかったことが分かった。そして問題の前書き部分の解釈については次の通りである。
[原文]而倭、以辛卯年来、渡海破百残□□新羅、以為臣民
[読下し文](シカ)るに倭、辛卯の年(391年)を以て来たり、海を渡りて百残・□□・新羅を破り、以て臣民となす
[意訳]391年に、倭が海を渡って攻めてきて、あっという間に百残(百済の蔑称)新羅等を破り、倭の臣民即ち属国にした。と解釈された。

 ところが最近の日朝双方の学者の研究では、上記の部分の文法上の間違いに気づき以下の通りに変更された。即ち「辛卯年」は「辛卯年」を以て来たりではなく、「辛卯年」以来と解釈すべきことで一致した。即ち、「倭、辛卯の年(391年)よりこの方、海を渡りて百残を破り、新羅を□□し、以て臣民となす」とすんなりと読下すことが出来るというものである。
 即ち、元々高句麗の属民だった百残・新羅を辛卯年以来、倭が海を渡って来て両国を倭の臣民としてしまった。そこで、広開土王が倭の臣民となった百済を、自らの水軍を率いて396年に討伐したとなる。一時的に倭が百済・新羅を「臣民」としたと解釈された。
 尚、この時の倭軍を、当時は未だ、大軍を率いて渡海する能力は「列島を統一した政権」にはなかったとし、北九州の倭国(地方勢力)或いは後世の倭寇のような海賊勢力という見方や、当時の半島南部の伽耶系人種や倭人も多く、その戦闘集団であったとの説も強いが、現在は否定され、列島の統一王権の軍団だと見られている。

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2011年10月 5日 (水)

案山子も頑張ってる

Photo  今時珍しい案山子(カカシ)に出会した。この圃場は確か、小学校の児童が稲作体験したり、稲の成長観察をするのに使われている田圃である。だから、子供向けにわざわざ造った案山子であろう。

Photo_2  案山子が向いている方向が面白い。雀を脅すために田圃の方を見るのでなく、人が通る通路に向いているのである。だから雀追いのためでなく、子供向けというのが判る。
 最近は雀脅しはテープを張ってキラキラと光らせている。そのせいか、雀が群れている季節だが、稲には寄っていない。効果があるんだろう。

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2011年10月 3日 (月)

倭国の興亡64: 百済との国交ー軍事同盟

 4世紀初頭に半島ルートを掌握し、伽耶諸国と通交するようになったヤマト王権は伽耶を介して、建国間もない百済と国交を樹立する。
Photo_2   奈良・石上神宮は「七支刀」を所蔵している。これは泰和4年(369年)に百済で造られ百済王子(太子)が倭王に贈ったものとされており、ほぼ諸家も認めるところである。即ちこの時点で倭国と百済の間には正式の国交があった証拠だ。この事は「書記」の神功紀52年9月条にも記載されているが、百済が毎年「朝貢」するが如き記事になっているが信用できない。実際には対等の立場での国交樹立であった記念としての贈物であろう。

 当時(4世紀後半)の半島は三国時代に入ったばかりで、北に高句麗その南に建設直後の新羅と百済が東西に並び、南端に伽耶諸国があった。その中で、百済が倭国に接近してきた背景には高句麗の南下策があった。
 中国は4世紀に入ると晋が衰え五胡十六国時代に入る。この影響で、313年頃、高句麗が楽浪・帯方を攻め、晋を半島から駆逐した。ところが342年、高句麗は前燕に大敗し、翌年臣従する。この後高句麗は平壌を拠点とし南方に活路を求める
 こうして、
4世紀前半には高句麗と馬韓に建設されたばかりの百済とが激しく対立し、371年百済の近肖古王は平壌城を攻め、激しく戦った。

 このようにして、七支刀が百済から贈られたのは、百済が高句麗と凌ぎを削っていた時で、軍事パートナーが必要なときであった。一方倭国は百済が先進文物の供給源として必要であり、百済には楽浪・帯方遺民の中国系人が多く、高句麗に勝利した翌年には東晋に朝貢し、正式に国交を開き、倭国は半島・大陸に新しいチャンネルを開くのに成功した。        尚、七支刀に刻まれた銘文は次の通りである。
[表]「泰和四年五月十六日丙午正陽造百練鉄七支刀辟百兵宜供候王□□□□□
(大意:泰和4年(369年)5月16日丙午の正午に、よく鍛えた鉄で七支刀を造った。この刀は多くの災厄を辟けることができ、候王が持つにふさわしい。・・・)
[裏]「先世以来未有此刀百済王世子奇生聖音故為倭王旨造伝示後世
(大意:先世以来、このようなりっぱな刀はなかったが、百済王の世子(太子)奇生(貴須王か)が、倭王のためにわざわざ造ったものである。後世まで伝え示されたい)」 

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2011年10月 1日 (土)

花薫る

 急に秋らしくなって、青い空にいわし雲が浮かんでいる。昼間も25度と過ごしやすい。
Photo  これはご存じキンモクセイ(金木犀)。ここ2、3日で急に香り出したので、廻りを見回すとあちこちの金木犀が満開状態となっていた。
 何故か朝のうちが匂いが強く感じるが、単にこちらの神経が朝が鋭敏なだけかも。

Photo_7   名前は不詳。多分庭で栽培されたものを道端に植えたものだろう。ここだけこの花がぎっしりと茂っていて、目に付くので撮ったもの。

Photo_6  これも名前は不詳。これは民家の花壇の端っこに遠慮がちに植わっているが、なかなか端麗な感じで、見過ごせずカメラに入ったもの。

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