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2011年9月29日 (木)

倭国の興亡63: 半島との交流進展

 3世紀頃、三輪山(奈良)麓に発生した(実在したとされる初代倭王朝)崇神王朝も、半島南部のカラ(加羅や伽耶諸国、特に金官国)との交流が始まったと考えられる。4~5世紀にかけて統治領域も拡大した応神、仁徳からの河内王朝では、機を一にしたように隆盛する「金官伽耶」とは物流、人的交流も含め、政治的、軍事的にも非常に緊密な関係維持拡大した。

 金海では4世紀前半ごろの列島からの到来遺物や、半島で倭人が製作した遺物が伽耶地域には少なからず出土している。弥生時代までのもの(2~3世紀の墳墓群、良洞里遺跡)は大半が北九州のものだが、古墳時代になると(4世紀代の大成洞遺跡や福泉洞遺跡)、畿内の遺物が主となり、畿内勢力の伸長を示している。即ち、ヤマト勢力(倭王権)が北九州を含む地域を政治的に統合し、半島との交流ルートも倭王権が掌握したものと見られる。
Photo  これを裏付けるのが、北部九州の宗像神社の沖津宮が鎮座する沖ノ島で、4世紀後半畿内の祭祀具が多量に奉献されており、その量・種類は北部九州の古墳をはるかに凌いでいる。図は沖ノ島出土の祭祀具
 物と共に人の動きを示すのが、日常使用の土師器(ハジキ)の系譜をひく土器類の金海、釜山を中心に慶州・馬山での出土である。これらの土器は4世紀前半から5世紀にかけ存続し、列島の倭人の集団的移住が想定される。伽耶諸国・百済と軍事同盟を結び援助を行った渡航兵士達やその子孫の一部が定着した証と言える。

 半島ルートを掌握し、倭王権が倭人を半島に送った目的は、一つには鉄の掌握である。半島に依存していた鉄資源の確保は武器、農具の供給に欠かせず、政治権力と覇権を握るに必須であった。また、首長としての権威づけに重要な中国鏡や装飾太刀、冠などの威信材である。これらの多くは半島ルートを通じて中国や半島から列島にもたらされたものである。4世紀以降倭王権の半島進出は、半島南部支配のためではなく、半島側の要請に基づく軍事援助や、見返りとして供給されるヒト、モノの独占掌握のためであったろう。
 尚、この当時、ヤマト王権は列島統一の政権に未だ至ってないと見られ、中国は九州”倭”を通じてヤマト倭との交流を始めた段階と考えられる。 

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コメント

この時代、まだ大和政権は列島統一を果たしていないとのことですが、この時代の列島統一とは何をもって統一としたのでしょうか?
征服されていった側からの視点で残された史料などはあるのでしょうか?

投稿: Y | 2011年9月30日 (金) 09時49分

難しい質問ですが、一つの政権が列島全部を支配しておれば、統一と言えましょうが、当時、中国、半島とは、正式な国交はできておりませんので、中国歴史書にも、倭国の事ははっきり書かれていません。そこで、類推されているのが、中国・半島は九州王朝を倭国と考え、大和王朝は倭国の東部にある国と理解して居た節があるそうです。事実統一はされておらず並立していたようです。統一は大王が誕生した時からでしょう。卑弥呼の時代は小国家の連合国でした。大王になっても壬申の乱以降ぐらいでないと全国を統一支配はできてません。それでも、南方諸島と東北以北は未だ外国です・・・明治時代まで。(朝貢はしてきていたようです)

投稿: 山猿 | 2011年9月30日 (金) 15時47分

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