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2011年9月17日 (土)

倭国の興亡60: [異説] 多羅系王族の倭国(九州)王朝

 4世紀初頭、一度は邪馬台国に滅ぼされた狗奴国は再び力を盛り返したと言われ、北部九州に現れる熊襲ではないかという。最初に熊襲征伐に乗り出したのは12代景行天皇であると、「日本書紀」(景行紀12年)に書いている。
 景行天皇の熊襲征伐は周芳の娑麼(防府)から菟狭(宇佐)、京(ミヤコ)(行橋)を経て日向に向かっている。この日向は筑紫の日向(ヒナタ)(早良郡)である。宮崎の日向にいたのは隼人であって、熊襲ではない。筑紫早良郡の日向には、田隈、七隈、干隈などがある。隈は熊襲の熊に通ずる。京から筑紫の日向に至るに、筑豊の碩田(オオキタ)も経由している。「古事記」には景行の熊襲征伐は一行もない。
 この熊襲征伐をした12代景行天皇の諱名は「オホタラシヒコ」であった。タラシのシは韓国語であり、日本語の「の」にあたり、タラシヒコは多羅の彦という意味だ。即ち当時、半島南部の6伽耶のうち多羅伽耶から渡来した彦であり、祖父、父が「イリヒコ」であるのとは別系統であり、子の13代成務は「ワカタラシヒコ」、孫(子のヤマトタケルの子)の14代仲哀は「タラシナカツヒコ」と言い、又仲哀の后の神功皇后は「オキナガタラシヒメである。
Kasiigu1731_2    成務が豊前淡海(アウミ)の大津(豊津)の天皇なら、ヤマトタケルミコトは豊後安岐津(安岐)の天皇であり、豊の中津で生まれたのが仲哀である。仲哀は根っからの豊の天皇であり、一族を京(豊の)に残し、熊襲征伐の陣営を橿日(カシヒ)まで進め、362年に賊の矢に当たり急死した。現福岡市・香椎宮の裏には仲哀天皇の「橿日廟」跡がある。(写真は橿日廟跡にある「仲哀天皇大本営御旧蹟」の碑。)
 神功皇后は夫・仲哀の死を隠して、仲哀の意志を継いで熊襲を討つ。但し、書記の神功の熊襲征伐は虚構であり、本当の話は佐賀・大善寺に伝わる垂玉命(=神功)の桜桃沈輪(ユスラチンリン)譚であるという。
 豊の難波高津宮(行橋)で桜桃沈輪の乱暴を聞いて、勅命を受けた藤大臣が367年に到着した。藤大臣とは高良記には武内宿祢とある。勅命は神功が発したものである。
 この間に神功は朝鮮海峡を往復し応神を生み、仲哀の異母王子香坂王、忍熊王を滅ぼし、豊の京に入洛している。神功皇后の熊襲征伐には当然武内宿祢が従い、368年沈淪を追い詰め、討ち果たす。

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