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2011年9月13日 (火)

倭国の興亡59: [異説] 古代は渡来王権だったのか

 以前にも書いたが、王権の萌芽する3世紀前後、半島と列島の間には未だ「国境」は存在しておらず、且つ半島南部と九州北部は同一文化圏、生活圏であったろうし、民族的にも分離しえない混血民族だったと思われる。故に両方に跨る一つの支配層が成立していたとしてもおかしくはない。
 そんな状況下で、卑弥呼・台与が没して(266年に最後の朝貢)以来、倭の五王の最後の倭王・讃が宋に朝貢する421年までの156年間、中国との国交は途絶え、半島との交易・折衝等も記録に残っていない。よって、倭国が邪馬台国を中心にした部族連合国であった頃から、倭王権が誕生するまでの客観的資料が一切ない
 よって、日本書紀、古事記、各地の風土記、半島の史書・三国遺事や三国史記から、その時代の変遷を読み取ることにより、半島との濃密な関係が浮かび上がってくるが、史実とは思えないような記事も多い。それで、これらを[異説]として紹介しておこう。全くの虚構でもないだろうが、どこまでが真実か全く不明である。だからと言って、これらを捨て去るのは憚れる。むしろ真説と云うべき場合もあることを前提に目を通して下さい。

神話時代の倭国王権
 
記紀による天皇系譜は(2代から9代までは欠史八代といわれる不在の天皇)1神武ー2・・・・・・9-10崇神ー11垂仁ー12景行ー13成務ー14仲哀ー15応神ー16仁徳ー17履中・・・21雄略・・・25武烈ー26継体・・・と続く。
 この中で、1神武と10崇神の和名は神武が「始馭天下の天皇」と書き崇神は「御肇国天皇」と書き、共にハツクニシラススメラミコトと、読みは同じ名前なのである。そして、二人の業績に分けて、建国の業績が述べられていることになり、二人は同一人物を指しているというのが通説である。

 この崇神が大和・三輪山の麓に部族国家を建てた頃(3-4世紀)その南方には蘇我氏が、又西南方には葛城氏などの豪族が並び立っていた。この通説に対し、倭の国を支配していたと、中国や半島で考えられていたのは、ヤマト地方の豪族ではなく、半島南部の王族が北九州に渡来したものという異説である。
 即ち、この時期、倭国はあくまで半島南部と北部九州地域一帯をさし、神武に相当する人物は、弁韓にいた王族である。そして崇神は北の扶余あたりにいた王族の後裔で、辰韓へ南下し、海を渡って出雲辺りに移住したのち、更に大和へ移って部族国家を建てたものであると言われる。
 尚、崇神の諱号は「ミマキイリヒコイニエ」と称し、その子の垂仁天皇は「イクメイリヒコイサチ」であり、所謂「イリヒコ」系の王統で、ミマキは任那の城の意であって、半島南部の辰王の後裔だとする江上教授説もある。
 

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