« 570年干支銘入大刀発掘 | トップページ | 徐々に秋らしく »

2011年9月25日 (日)

倭国の興亡62: [異説] 沸流百済(伽耶)王が渡来、倭国王に

 『書記』「応神紀3年」
『是歳、百済の辰斯王たちて、貴国の天皇のみために失礼(イヤナシ)し。故、紀角宿祢・羽田矢代宿祢・石川宿祢を遣わして、その礼旡(イヤナ)き状を嘖譲(コロ)はしむ。是に由りて、百済国辰斯王を殺して謝ひき。紀角宿祢等、便(スデ)に阿花をたてて王として帰れり』とある。
 即ち、貴国(倭国)の天皇は百済の王位にあるものを、無礼があった(高句麗と戦わなかったこと)といとも簡単に首をすげ替えたという。このようなことが出来るのは、武内宿祢や応神でないとすれば、この年(392年)に既に百済宗家の王(伽耶王・倭人(=応神とも言われる)が貴国(狗奴国即ち倭国ともいう)の政権の座にいたことになる。

 百済宗家の王が基肆国の実権を握ったのは372年より早い時期であろうとする意見がある。そして、百済宗家(伽耶)の王が南韓から北部九州に居を移すに当たり、温祚百済(百済本国)の王に南韓の支配を任せたとも考えられる。この事実は次の温祚百済の近肖古王の孫への言葉が反映している(神功摂政紀52年)。
 『今我が通ふ所の、海の東の貴国は、是天の啓きたまふ所なり。是を以て、天恩を垂れて、海の西を割(サ)きて我に賜へり。是に由りて、国の基永に固し。汝当善く和好を修め、土物を聚斂めて、奉貢ること絶えずは、死ぬと雖も何の恨みかあらむ』
 
これは、369年の倭と百済の共同作戦の結果、獲得した新領地(海の西)を百済に贈与したように解釈できるが、倭と百済の共同作戦というより、沸流百済(南韓)と温祚百済(百済本国)の共同作戦だったと解釈できる。
 だから、日本書紀が「百済紀に曰く」として
『加羅の国王の妹、大倭に向(モウデ)きて啓して云さく、「天皇、沙至比跪(=襲津彦)を遣わして、新羅を・・・・・」ともうす。天皇、大きに怒りたまひて、即ち木羅斤資を遣わし・・・・・』
の中の
前の天皇は沙至比跪に新羅征伐に行かせた神功皇后であり、後の天皇は木羅斤資に加羅諸国を平定させた百済宗家の天皇である。よってこれは兄弟百済の共同作戦であった。
 これらの結果、
369年東韓を失った神功・武内系貴国は衰弱し始め、東韓を掌中にした沸流百済宗家は北部九州まで呑込むことになる。372年の段階で、西の海を宗家から任されることになった温祚百済の近肖古王は、代償として高句麗防衛の義務を負わされることになった。
 この時の百済宗家の王即ち
「倭国王」が誰であるかは特定できていない。

|

« 570年干支銘入大刀発掘 | トップページ | 徐々に秋らしく »

古代史、邪馬台国」カテゴリの記事

コメント

電波ですねー
ただ単に倭の五王をどうにかして百済に結びつけたいチョンが言い始めた捏造じゃないか。

>天皇が百済宗家の王倭国の政権の座にいた
百済にそんな力ないし、そのような記述は無い。天皇家が百済系とする肝心なところがすっぽり抜けてるし、願望でこうだったらいいなになってる。
これなら倭人が百済に渡って王族として支配していたのほうが文脈にもその当時の情勢にも合致する。

投稿: | 2012年8月16日 (木) 12時00分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/534272/52827564

この記事へのトラックバック一覧です: 倭国の興亡62: [異説] 沸流百済(伽耶)王が渡来、倭国王に:

« 570年干支銘入大刀発掘 | トップページ | 徐々に秋らしく »