倭国の興亡56: 大王墓の移動は王統の交替か
大和から佐紀に移動した大王墓は、5世紀になると河内平野の古市・百舌鳥(モズ)へ再び移動する。古市古墳群の仲ツ山古墳(中津媛陵、286m)、誉田御廟山古墳(応神陵、420m)及び百舌鳥古墳のミサンザイ古墳(履中陵、365m)、大山古墳(仁徳陵、486m)など佐紀古墳群をはるかに上回る、列島最大の超巨大前方後円墳が出現する。
大王墓が佐紀から河内に移動した理由は2つの解釈がある。
一つは、古墳はその勢力の本貫地に造営されるのが原則との立場から、ヤマト政権とは全く別の政治集団が王権を剥奪して新たな王権を打ち建てたとする。ヤマトの「三輪政権」や「崇神(イリ)王権」に対し、「河内王権」「応神(ワケ)王権」と呼ばれる。(諱名によっている)
二つは、王権の交替ではなく、あくまで3世紀以来の初期ヤマト王権が何らかの理由で葬地を移動したと見る説である。図は履中陵。
因みに私は王権の争奪による移動と見る。当時は未だ王権は安定せず、同系の王統が引き継がれるほどの安定はしていなっかたし、また応神は先にも見たように渡来説が強く、完全な王権交代があったと信じている。
佐紀の王統も河内の王統ももとは、息長氏と和珥(ワニ)氏を中心として大和盆地北部、近江南部、丹波にかけて勢力を持っていた。神功皇后(息長帯比命)を含む系統や伝承が、息長氏によって伝承されてきたとする説がある。その上で、応神擁立に際し起きた応神の異母兄弟である香坂王と忍熊王の反乱記事に注目する。「忍熊」は「忍熊里」で、佐紀最大古墳群が押熊町だという。戦いは応神とその母神功が勝ち応神が即位する。よって、河内王朝の成立は佐紀王統内での派閥抗争に勝利し、分裂して河内に基盤を移した一派だという。
応神は淀川・木津川流域から近畿北部を背景とする佐紀大王家とは袂を分かち、後の葛城氏や、大和川流域に蟠踞していた物部氏などの豪族を外戚とずる新たな王権中枢構造を再編した。とも言われる。
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