« 古代からの神社・宗像大社 | トップページ | 秋らしくなってきた »

2011年9月 9日 (金)

倭国の興亡58: 河内王朝の台頭

 4世紀後半の王権確立期に重要であったのは各地や外交上必要な交通ルートの掌握だった。4世紀末の王権傘下の河内の豪族(王)の墓、古市・津堂城山古墳(208m)は、佐紀大王墓、石塚山古墳(220m)や宝来山古墳(226m)に比べて遜色なく、大王墓に匹敵する。地理的に大和の先端で、ミヤケを管理した大和川の合流点を抑えて、瀬戸内・大和川ルートを背景にした河内大王家の基盤固めが徐々に進行していた。
 一方、日向灘に面した地域にも大型前方後円墳が次々に出現し始め、5世紀初め女狭穂塚古墳(176m)、男狭穂塚古墳(167m)が築造された。日向には応神の妃の一人、日向泉長媛や仁徳の妃の一人、日向の髪長媛がいる。このように日向重視の背景には、関門から豊後水道を南下し、南海道で畿内に至る新たな海上ルートの開拓があった
 この地域の独特の地下式横穴墳墓から大量の鉄製武器類が出土しており、この軍事力が半島侵攻に関連したと想像される。天孫降臨や神武東征の神話が生まれた背景であろうとする説もある。
Photo  応神の外戚となった葛城氏が大きく成長するのは4世紀末頃で、奈良西部の馬見古墳群の巣山古墳(204m)、築山古墳(210m)からで、佐紀に匹敵する規模を持つ。5世紀、河内への大王墓移動ときを一にして「葛城」王墓・室宮古墳(240m)は「葛城」に築造された。被葬者は仁徳の妃の父で、履中の妃の祖父にあたる葛城襲津彦との説がある。書記、三国史記にも現れ、その実在性からも、可能性は高いといわれる。
 葛城氏が大きな権力を持った背景には、大王の外戚の他、南海道ルートの紀伊水道から奈良盆地に至る紀ノ川ルートの玄関口にあたることも大きな要因だ。
 即ち、紀氏が統括していた渡来系集団の高度な航海術や水軍の軍事力であり、それを掌握したのが同じ出自の葛城であったという。5世紀初めの和歌山・楠見遺跡の大量の半島系陶質土器や鳴滝遺跡の巨大倉庫群はそうした紀氏の外交手腕を示している。
 このような情勢を背景に、5世紀ヤマト王権(河内大王家)は河内潟に向かって開いたシフトを展開するのである。

 

|

« 古代からの神社・宗像大社 | トップページ | 秋らしくなってきた »

古代史、邪馬台国」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/534272/52685835

この記事へのトラックバック一覧です: 倭国の興亡58: 河内王朝の台頭:

« 古代からの神社・宗像大社 | トップページ | 秋らしくなってきた »