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2011年9月

2011年9月29日 (木)

倭国の興亡63: 半島との交流進展

 3世紀頃、三輪山(奈良)麓に発生した(実在したとされる初代倭王朝)崇神王朝も、半島南部のカラ(加羅や伽耶諸国、特に金官国)との交流が始まったと考えられる。4~5世紀にかけて統治領域も拡大した応神、仁徳からの河内王朝では、機を一にしたように隆盛する「金官伽耶」とは物流、人的交流も含め、政治的、軍事的にも非常に緊密な関係維持拡大した。

 金海では4世紀前半ごろの列島からの到来遺物や、半島で倭人が製作した遺物が伽耶地域には少なからず出土している。弥生時代までのもの(2~3世紀の墳墓群、良洞里遺跡)は大半が北九州のものだが、古墳時代になると(4世紀代の大成洞遺跡や福泉洞遺跡)、畿内の遺物が主となり、畿内勢力の伸長を示している。即ち、ヤマト勢力(倭王権)が北九州を含む地域を政治的に統合し、半島との交流ルートも倭王権が掌握したものと見られる。
Photo  これを裏付けるのが、北部九州の宗像神社の沖津宮が鎮座する沖ノ島で、4世紀後半畿内の祭祀具が多量に奉献されており、その量・種類は北部九州の古墳をはるかに凌いでいる。図は沖ノ島出土の祭祀具
 物と共に人の動きを示すのが、日常使用の土師器(ハジキ)の系譜をひく土器類の金海、釜山を中心に慶州・馬山での出土である。これらの土器は4世紀前半から5世紀にかけ存続し、列島の倭人の集団的移住が想定される。伽耶諸国・百済と軍事同盟を結び援助を行った渡航兵士達やその子孫の一部が定着した証と言える。

 半島ルートを掌握し、倭王権が倭人を半島に送った目的は、一つには鉄の掌握である。半島に依存していた鉄資源の確保は武器、農具の供給に欠かせず、政治権力と覇権を握るに必須であった。また、首長としての権威づけに重要な中国鏡や装飾太刀、冠などの威信材である。これらの多くは半島ルートを通じて中国や半島から列島にもたらされたものである。4世紀以降倭王権の半島進出は、半島南部支配のためではなく、半島側の要請に基づく軍事援助や、見返りとして供給されるヒト、モノの独占掌握のためであったろう。
 尚、この当時、ヤマト王権は列島統一の政権に未だ至ってないと見られ、中国は九州”倭”を通じてヤマト倭との交流を始めた段階と考えられる。 

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2011年9月27日 (火)

徐々に秋らしく

 朝が20℃前後、午後は27、8度。秋の朝を迎え、夏の昼間を過ごしている。草花も秋の花が咲いているが、初夏の花の返り花も多いこの頃である。
Photo 上 毎朝6時前にこの地点に来ると、将に朝日が昇る直前だが、なぜか東の空には雲がかかり、朝焼けを呈している。雲の名は巻積雲或いは巻雲と呼ばれるものらしいが、刷毛で刷いたような感じである。雲も秋らしくなったことを感じさせてくれるものの一つだ。
Photo_2 中 ツユクサ。この花は露に濡れて5時頃から咲きはじめ昼前になると閉じてしまうからである。名前はこれに由来している。
 花弁は3枚ある。上の青い2枚はよく判るが、下に半透明の小さな花弁が1枚ある。よく見ると非常に特徴のある花ではある。夏から咲くが、露に濡れて咲くから季語は秋
Photo_3 下 これは我が家のテッセン。地上から5cmほど残し刈り取っていた茎から新しく茎が伸び、小ぶりながら1花ずつ順次咲いている。涼しさと暑さを繰り返したせいで、野草でも返り花を咲かせている草花も多い。それでも、間違いなく秋は少しずつ深まっていることを感じさせるこの頃である。

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2011年9月25日 (日)

倭国の興亡62: [異説] 沸流百済(伽耶)王が渡来、倭国王に

 『書記』「応神紀3年」
『是歳、百済の辰斯王たちて、貴国の天皇のみために失礼(イヤナシ)し。故、紀角宿祢・羽田矢代宿祢・石川宿祢を遣わして、その礼旡(イヤナ)き状を嘖譲(コロ)はしむ。是に由りて、百済国辰斯王を殺して謝ひき。紀角宿祢等、便(スデ)に阿花をたてて王として帰れり』とある。
 即ち、貴国(倭国)の天皇は百済の王位にあるものを、無礼があった(高句麗と戦わなかったこと)といとも簡単に首をすげ替えたという。このようなことが出来るのは、武内宿祢や応神でないとすれば、この年(392年)に既に百済宗家の王(伽耶王・倭人(=応神とも言われる)が貴国(狗奴国即ち倭国ともいう)の政権の座にいたことになる。

 百済宗家の王が基肆国の実権を握ったのは372年より早い時期であろうとする意見がある。そして、百済宗家(伽耶)の王が南韓から北部九州に居を移すに当たり、温祚百済(百済本国)の王に南韓の支配を任せたとも考えられる。この事実は次の温祚百済の近肖古王の孫への言葉が反映している(神功摂政紀52年)。
 『今我が通ふ所の、海の東の貴国は、是天の啓きたまふ所なり。是を以て、天恩を垂れて、海の西を割(サ)きて我に賜へり。是に由りて、国の基永に固し。汝当善く和好を修め、土物を聚斂めて、奉貢ること絶えずは、死ぬと雖も何の恨みかあらむ』
 
これは、369年の倭と百済の共同作戦の結果、獲得した新領地(海の西)を百済に贈与したように解釈できるが、倭と百済の共同作戦というより、沸流百済(南韓)と温祚百済(百済本国)の共同作戦だったと解釈できる。
 だから、日本書紀が「百済紀に曰く」として
『加羅の国王の妹、大倭に向(モウデ)きて啓して云さく、「天皇、沙至比跪(=襲津彦)を遣わして、新羅を・・・・・」ともうす。天皇、大きに怒りたまひて、即ち木羅斤資を遣わし・・・・・』
の中の
前の天皇は沙至比跪に新羅征伐に行かせた神功皇后であり、後の天皇は木羅斤資に加羅諸国を平定させた百済宗家の天皇である。よってこれは兄弟百済の共同作戦であった。
 これらの結果、
369年東韓を失った神功・武内系貴国は衰弱し始め、東韓を掌中にした沸流百済宗家は北部九州まで呑込むことになる。372年の段階で、西の海を宗家から任されることになった温祚百済の近肖古王は、代償として高句麗防衛の義務を負わされることになった。
 この時の百済宗家の王即ち
「倭国王」が誰であるかは特定できていない。

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2011年9月23日 (金)

570年干支銘入大刀発掘

Photo_3  福岡・元岡古墳群(糸島半島)で、写真の如く、570年に該当する「庚寅(コウイン)の文字を刻んだ象嵌大刀が発見された。古墳出土の銘文入り刀剣の発見で7例目だが、うち干支や年号が入った紀年銘は4例目であり、干支入りの確実な日付は初めての発見であるという。上図は発見された刀とX線解読銘文。
 この古墳は直径約18mの7世紀中頃の古墳で、土器類と共に、この大刀の他、12cmもの古墳時代では国内最大級の銅鈴も出ており、大和政権と深い関係のある大きな権力を持った豪族が授けられたものとみられる。527年の磐井の乱後、九州支配の柱になった人物のものではとの意見もある。下図は石室内、中央部に大刀が見える。(写真は毎日新聞より)

 今回の発見は、この銘文から日本書紀「553年に百済に暦博士の派遣を要請し、翌年暦博士が来日した」記事にある通り、倭国にも当時の「元嘉暦」が普及したことを実証した極めて貴重な資料であるといわれる。
Photo_2  即ちX線で、大刀の根元の背の部分にある「大歳庚寅正月六日庚寅日時作凡十二果□」(□は「練」の可能性)の19文字が発見され、年号を示す「庚寅」と正月六日の干支の「庚寅」から、年代が570年と確定された。意味は「570年1月6日に刀を作った。およそ12回鍛錬した」という。この暦は中国・南北朝時代の宋で作られた「元嘉暦」と見られる。
 暦は政治権力と密接に関係する。暦の制定は時間そのものの支配を意味し、大和政権が倭国での支配体制を固めつつあった事を意味している。日にちや期間を指定或いは限定しての指示や命令等、支配体制にに欠かせない要因を確立していったのである。

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2011年9月21日 (水)

倭国の興亡61: [異説] 神功の貴国(基肆)建国

 神功息長帯姫命(オキナガタラシヒメノミコト))は多羅伽耶(半島南部)の王族の姫であり、渡来して369年に大善寺(佐賀の基肆)に宮殿を完成させ、北部九州に新しい政権を確立した。日本書紀には下記のようにある。
 『甲子の7月、百済人、久氐・弥州流・莫古の3人、我が国に至りて曰く、「百済の王、東の方に日本の貴国あること聞きて、臣等を遣わして、その貴国の朝でしむ。故、道路を求めて、斯の土に到りぬ。・・・・・」といふ』(神功紀456年)。この貴国は基肆国であり、364年に既に存在した(佃収氏説)。
Photo  この頃、タラシ系政権の本拠地豊の国(北九州)であり、初代天皇景行は近江の志賀に3年居し、高穴穂宮に崩ず。というが、これは九州の淡海(アフミ)の国の大津と考えられる。2代成務も同じ場所で天下を治め、崩じたと考えられる。3代目仲哀は橿日で崩じ、4代目神功は熊襲征伐後に、貴国(基肆国)統治にあたっては、武内宿祢、斯摩宿祢、葛城襲津彦を起用した。

 神功は382年に新羅討伐で渡海したことになっているが、神功摂政紀には、『貴国、沙至跪(サチヒコ)を遣わして討たしむ』とあり、葛城襲津彦を新羅討伐に遣わし、加羅諸国を平定させたとみられる。
 これ以降は、武内宿祢が一時筑紫の天下を牛耳ったようだ。応神紀9年「武内宿祢、常に天下を望ふ情あり。今聞く、筑紫にありて、秘かに謀りて曰ふならく、『独筑紫を裂きて、三韓を招きて朝(シタガ)はしめて、遂に天下を有(タモ)たしむ』というなり」とある。
 このように讒訴したのは、半島南部に勢力のあった沸流百済宗家(倭を含む伽耶諸国を統治)の王でないかとの説がある。それは神功摂政紀49年(369年)「天皇、大きに怒りたまひて、即ち木羅斤資を遣わして、兵衆を領ゐて加羅に来集ひて、その社稷を服したまふといふ」とあり、葛城襲津彦を新羅討伐に遣わしたのに、加羅諸国を滅ぼしたので、天皇が木羅斤資(百済の将軍)を遣わして、加羅諸国の秩序を復したというである。これが出来るのは南韓の沸流百済王(倭を含む伽耶諸国の王)しかいないからである。
 伽耶から渡った神功が勝手に貴国を建て、配下の武内宿祢に任せたことに我慢がならず、沸流王家(代々在韓の倭人と見られる)は、彼らを貴国から追放し、当主自らが渡来し、貴国に居座ったという。

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2011年9月19日 (月)

驚くべき医学の進歩

 最近の医学の進歩は凄い!。一つは、火傷や大怪我で皮膚を傷めても、本人の細胞を培養して製作した「人口皮膚」を使えば殆ど元通りになる。二つ目、脳溢血などで倒れ、手足が不自由なることが多いが、刺激の与え方で元通り運動神経が回復(鹿児島大)というニュースを見てビックリした。いずれも既に現在、治療実施中の話。不治の病はなくなるかも・・・。 今日は秋の花2件。
Photo_4  これはニラ(韮)。実はこれが韮の花だと知らなかった。最近庭先に結構植えているとこもあるが、今のシーズン山野どこにでも咲いている。勿論畑にも咲いている。
 食用には葉を食べるが、ビタミンA、カロチンが豊富で、消化を助け、風邪の予防にもなる由。漢方では種子を乾燥させた「韮子(キュウシ)」は胃腸薬に用いる。
 独特の臭気が強く、これを嫌うことから「においきらう」が「にら」に変化、また美味であることから「みら(美辣)」から「にら」に変化とも言うが、こじつけの感が強い。
 日本には相当古くからあったようで、「みら」と呼ばれ、古事記に「かみら(加美良」、万葉集に「久々美良」、正倉院文書に「彌良」とある由。
 尚、花は6弁に見えるが花弁が3枚蕚が3枚交互になっているのが判りますか。

Photo_2  これは曼珠沙華。先日からの雨で急に咲きだした。よくも彼岸花といったものと感心する。野生のは真っ赤な花を付けている関係か、或いは彼岸に咲き、適当な花がないとき手近のヒガンバナを手折って供えるからか、余り縁起もよくないせいか「住宅の庭には植えるな」と言われたものだ。
Photo_3  本当は繁殖力が強く、虫も食わない花なので、庭に広がるから、嫌われたものであろう。最近は下のような白い花が庭先に植えられているケースが増えた。

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2011年9月17日 (土)

倭国の興亡60: [異説] 多羅系王族の倭国(九州)王朝

 4世紀初頭、一度は邪馬台国に滅ぼされた狗奴国は再び力を盛り返したと言われ、北部九州に現れる熊襲ではないかという。最初に熊襲征伐に乗り出したのは12代景行天皇であると、「日本書紀」(景行紀12年)に書いている。
 景行天皇の熊襲征伐は周芳の娑麼(防府)から菟狭(宇佐)、京(ミヤコ)(行橋)を経て日向に向かっている。この日向は筑紫の日向(ヒナタ)(早良郡)である。宮崎の日向にいたのは隼人であって、熊襲ではない。筑紫早良郡の日向には、田隈、七隈、干隈などがある。隈は熊襲の熊に通ずる。京から筑紫の日向に至るに、筑豊の碩田(オオキタ)も経由している。「古事記」には景行の熊襲征伐は一行もない。
 この熊襲征伐をした12代景行天皇の諱名は「オホタラシヒコ」であった。タラシのシは韓国語であり、日本語の「の」にあたり、タラシヒコは多羅の彦という意味だ。即ち当時、半島南部の6伽耶のうち多羅伽耶から渡来した彦であり、祖父、父が「イリヒコ」であるのとは別系統であり、子の13代成務は「ワカタラシヒコ」、孫(子のヤマトタケルの子)の14代仲哀は「タラシナカツヒコ」と言い、又仲哀の后の神功皇后は「オキナガタラシヒメである。
Kasiigu1731_2    成務が豊前淡海(アウミ)の大津(豊津)の天皇なら、ヤマトタケルミコトは豊後安岐津(安岐)の天皇であり、豊の中津で生まれたのが仲哀である。仲哀は根っからの豊の天皇であり、一族を京(豊の)に残し、熊襲征伐の陣営を橿日(カシヒ)まで進め、362年に賊の矢に当たり急死した。現福岡市・香椎宮の裏には仲哀天皇の「橿日廟」跡がある。(写真は橿日廟跡にある「仲哀天皇大本営御旧蹟」の碑。)
 神功皇后は夫・仲哀の死を隠して、仲哀の意志を継いで熊襲を討つ。但し、書記の神功の熊襲征伐は虚構であり、本当の話は佐賀・大善寺に伝わる垂玉命(=神功)の桜桃沈輪(ユスラチンリン)譚であるという。
 豊の難波高津宮(行橋)で桜桃沈輪の乱暴を聞いて、勅命を受けた藤大臣が367年に到着した。藤大臣とは高良記には武内宿祢とある。勅命は神功が発したものである。
 この間に神功は朝鮮海峡を往復し応神を生み、仲哀の異母王子香坂王、忍熊王を滅ぼし、豊の京に入洛している。神功皇后の熊襲征伐には当然武内宿祢が従い、368年沈淪を追い詰め、討ち果たす。

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2011年9月15日 (木)

名月も過ぎて・・・

Photo  12日が「中秋の名月」だったが、当地では残念ながら雲がかかり見えなかった。仕方なく翌日見た。即ち十六夜(いざよい)の月である。まん丸く、大きく感じる月は美しかった。虫の音も聞こえ、風情を感じたが、若干霧状のガスのせいか写真が撮れず、翌朝ウオーキングスタート時(6時前)に撮ったものである。普通のデジカメだから、これがせい一杯拡大したもので、天体望遠鏡のようにはゆかなかった。下のが通常の写真。
 秋の名月は、陰暦8月15日の満月で、名月、望月、満月、今日の月、十五夜、芋名月など、俳句などではいろんな呼び方をされる。名月を詠んだ句は多いが2句紹介しておく。
・名月や池をめぐりて夜もすがら(松尾芭蕉)
・けふの月馬も夜道を好みけり(村上鬼城)

Photo_3  尚、徒然草に「8月15日・・・・・月をもてあそぶに良夜とす」とあることから良夜ともいう。
・渚なる白波見えて良夜かな(高浜虚子)
 又、月が雲に隠れて見えないときは無月と表現され、雨のときは雨月と表されている。

 翌16夜の月いざよいの月と称する。月の出が少し遅くなるので、ためらうという意のいざよう(猶予)月からこう呼んだ。16夜の句2句紹介する。
・十六夜の月無しの酒さめ易し(石田波郷)
・十六夜の昨日と同じ月を見し(星野立子)
 
17日夜の月は、立待月、遅く出るようになった月を立って待っている心でこういう。
・立待月咄すほどなくさしわたり(阿波野青畝)
・宵過ぎて立待の暈ひろがりぬ(石田波郷)

 
18日夜の月座(又は居)待月、更に遅くなるので、座して待つというのである。
・くらがりをともなひ上がる居待月(後藤夜半)
 
19日夜の月は、寝(又は臥)待月、月の出がだいぶ遅くなるので寝ながら待つという。
・寝待月雨来ていねし後知らず(水原秋櫻子)
 
この時期が1年中で一番空気が澄み月が美しいときのためか、歌にもよく詠まれている。秋草や虫の音、夜露や涼風など風物のたたずまいが一層月を明澄にするといわれる。穂芒をさし、新芋や栗・枝豆・団子など供えて月を祭る風習は、収穫を祈る昔からの農耕儀礼の遺風であるといわれる。

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2011年9月13日 (火)

倭国の興亡59: [異説] 古代は渡来王権だったのか

 以前にも書いたが、王権の萌芽する3世紀前後、半島と列島の間には未だ「国境」は存在しておらず、且つ半島南部と九州北部は同一文化圏、生活圏であったろうし、民族的にも分離しえない混血民族だったと思われる。故に両方に跨る一つの支配層が成立していたとしてもおかしくはない。
 そんな状況下で、卑弥呼・台与が没して(266年に最後の朝貢)以来、倭の五王の最後の倭王・讃が宋に朝貢する421年までの156年間、中国との国交は途絶え、半島との交易・折衝等も記録に残っていない。よって、倭国が邪馬台国を中心にした部族連合国であった頃から、倭王権が誕生するまでの客観的資料が一切ない
 よって、日本書紀、古事記、各地の風土記、半島の史書・三国遺事や三国史記から、その時代の変遷を読み取ることにより、半島との濃密な関係が浮かび上がってくるが、史実とは思えないような記事も多い。それで、これらを[異説]として紹介しておこう。全くの虚構でもないだろうが、どこまでが真実か全く不明である。だからと言って、これらを捨て去るのは憚れる。むしろ真説と云うべき場合もあることを前提に目を通して下さい。

神話時代の倭国王権
 
記紀による天皇系譜は(2代から9代までは欠史八代といわれる不在の天皇)1神武ー2・・・・・・9-10崇神ー11垂仁ー12景行ー13成務ー14仲哀ー15応神ー16仁徳ー17履中・・・21雄略・・・25武烈ー26継体・・・と続く。
 この中で、1神武と10崇神の和名は神武が「始馭天下の天皇」と書き崇神は「御肇国天皇」と書き、共にハツクニシラススメラミコトと、読みは同じ名前なのである。そして、二人の業績に分けて、建国の業績が述べられていることになり、二人は同一人物を指しているというのが通説である。

 この崇神が大和・三輪山の麓に部族国家を建てた頃(3-4世紀)その南方には蘇我氏が、又西南方には葛城氏などの豪族が並び立っていた。この通説に対し、倭の国を支配していたと、中国や半島で考えられていたのは、ヤマト地方の豪族ではなく、半島南部の王族が北九州に渡来したものという異説である。
 即ち、この時期、倭国はあくまで半島南部と北部九州地域一帯をさし、神武に相当する人物は、弁韓にいた王族である。そして崇神は北の扶余あたりにいた王族の後裔で、辰韓へ南下し、海を渡って出雲辺りに移住したのち、更に大和へ移って部族国家を建てたものであると言われる。
 尚、崇神の諱号は「ミマキイリヒコイニエ」と称し、その子の垂仁天皇は「イクメイリヒコイサチ」であり、所謂「イリヒコ」系の王統で、ミマキは任那の城の意であって、半島南部の辰王の後裔だとする江上教授説もある。
 

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2011年9月11日 (日)

秋らしくなってきた

 今日は9・11米同時多発テロから満十年、3・11東日本大震災から半年の日。忌まわしい日々を思い出し、同じ被害・災害を引き起こさぬよう、必要な取組みが進められるよう祈る。
Photo  今日も、午後には34℃の予想だが、草木は秋の花を付け、空も秋の雲が浮かんでいる。夏の間、姿を見せなかったシラサギ(白鷺)が秋を知らせるように戻ってきた。これから冬にかけ、渡ってくると群れを成すようになる。

Photo_2  これはセンニンソウ(仙人草)。この花は全国各地に、20種以上あるそうな。種類は違うが似た花に、キイセンニンソウ(紀伊、九州地方)、ヤンバルセンニンソウ(屋久、琉球列島)がある由。4枚の花弁に見えるのは蕚片で、本当の花弁はないそうだ。中に果実があり白い毛がついているので、仙人のひげにみたてて「仙人草」の名がある。これも有毒だが、薬草として用いられる由。

Photo_3  ケイトウ(鶏頭)。沢山種類がある。花の形から、トサカケイトウ(鶏冠状)、羽毛ケイトウ(毛が穂状に生える)、ヤリケイトウ(長く、先が尖っている)、玉ケイトウ(又はクルメケイトウ)(球状)などがあり、色は園芸用種に色々ある。原種はやはり赤色で、写真は混合種であろう。

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2011年9月 9日 (金)

倭国の興亡58: 河内王朝の台頭

 4世紀後半の王権確立期に重要であったのは各地や外交上必要な交通ルートの掌握だった。4世紀末の王権傘下の河内の豪族(王)の墓、古市・津堂城山古墳(208m)は、佐紀大王墓、石塚山古墳(220m)や宝来山古墳(226m)に比べて遜色なく、大王墓に匹敵する。地理的に大和の先端で、ミヤケを管理した大和川の合流点を抑えて、瀬戸内・大和川ルートを背景にした河内大王家の基盤固めが徐々に進行していた。
 一方、日向灘に面した地域にも大型前方後円墳が次々に出現し始め、5世紀初め女狭穂塚古墳(176m)、男狭穂塚古墳(167m)が築造された。日向には応神の妃の一人、日向泉長媛や仁徳の妃の一人、日向の髪長媛がいる。このように日向重視の背景には、関門から豊後水道を南下し、南海道で畿内に至る新たな海上ルートの開拓があった
 この地域の独特の地下式横穴墳墓から大量の鉄製武器類が出土しており、この軍事力が半島侵攻に関連したと想像される。天孫降臨や神武東征の神話が生まれた背景であろうとする説もある。
Photo  応神の外戚となった葛城氏が大きく成長するのは4世紀末頃で、奈良西部の馬見古墳群の巣山古墳(204m)、築山古墳(210m)からで、佐紀に匹敵する規模を持つ。5世紀、河内への大王墓移動ときを一にして「葛城」王墓・室宮古墳(240m)は「葛城」に築造された。被葬者は仁徳の妃の父で、履中の妃の祖父にあたる葛城襲津彦との説がある。書記、三国史記にも現れ、その実在性からも、可能性は高いといわれる。
 葛城氏が大きな権力を持った背景には、大王の外戚の他、南海道ルートの紀伊水道から奈良盆地に至る紀ノ川ルートの玄関口にあたることも大きな要因だ。
 即ち、紀氏が統括していた渡来系集団の高度な航海術や水軍の軍事力であり、それを掌握したのが同じ出自の葛城であったという。5世紀初めの和歌山・楠見遺跡の大量の半島系陶質土器や鳴滝遺跡の巨大倉庫群はそうした紀氏の外交手腕を示している。
 このような情勢を背景に、5世紀ヤマト王権(河内大王家)は河内潟に向かって開いたシフトを展開するのである。

 

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2011年9月 7日 (水)

古代からの神社・宗像大社

 先般、伊勢神宮に参拝したからという訳ではなく、別のブログ「倭国の興亡」を書いていて、日本に古代からある神社に興味がわき、本を拾い読みしている。その一端で、福岡にある宗像大社を紹介しよう。
Photo  宗像大社は、神話に起源する。天照大神とその弟神・素戔嗚尊(スサノオノミコト)の誓約(ウケイ)(神による占い)の結果、天照の息から生まれた宗像三女神が祀られている。宗像の田島にある辺津宮には市杵嶋姫神(イチキシマヒメノカミ)、宗像大島の中津宮には湍津姫神(タギツヒメノカミ)、沖ノ島の沖津宮には田心姫神(タゴリヒメノカミ)が夫々祀られ、これら三宮を総称して宗像大社という。旧官幣大社である。尚、辺津宮の市杵嶋姫神は神仏習合により弁天様としても祀られており、ここは全国弁天様の総本宮でもある。写真上方のやや左寄りにあるのが辺津宮の本殿。
 
宗像大社は同じ宗像三女神を祀る厳島神社(旧官幣中社)も含め(イツクシマはイチキシマが転じたもの)、宗像神社の総本宮であり、末社も含め全国約600社近くあり、日本で5番目に多い。

Photo_2  三社の配置図の通りこれを結ぶ直線状の先は朝鮮半島に向いている。又、全国の宗像・イツクシマ系の神社はその殆どが大和ー伊勢ー熊野灘ー瀬戸内海を通って宗像に達する間に点在し経路に沿って建立されている。そしてここから半島に向かう。
 宗像大社は道の神様・道主貴(ミチヌシノムチ)を祀り(貴は一番尊い神)、旅の安全を守るとされているが、古くより海の神様として信仰され、神功皇后が三韓征伐の際に、ここで航海安全を祈願し、霊験があったとされ、交通の神、航海の神とされている。

Photo_3  大化改新(645年)で、国郡の制が敷かれ、宗像一郡が神領となり、豪族宗像氏に与えられて、神主として神社を祀り、又首長として神郡の行政もつかさどった。
 古代、半島と倭国の結びつきが密であった頃、宗像一帯を抑えていた海人族(狗奴国?)が宗像氏族であり、新興のヤマト王権の半島との交易・通商を助けた。その氏族の守護神こそが宗像大社であったろうと推定する。因みに宗像地方は今でも葬儀も神式である。写真は辺津宮の本殿

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2011年9月 5日 (月)

倭国の興亡57: 東アジア情勢と王権の伸長

 4世紀中頃、前方後円墳体制と王権祭祀が浸透し、王権を伸長させたが、王国が誕生する切り札は鉄と武器であった。『魏志』倭人伝に、3世紀以来、倭が盛んに半島の弁韓、辰韓の鉄の確保に動いていたことが記されており、4世紀中頃、鉄素材や鉄製品と共に鍛冶遺構の増加は大型前方後円墳の分布と重なる。古墳から出土する鉄の小札や鉄の甲冑は新羅や伽耶からのもので、倭での鉄生産はなく、鉄素材入手手段を掌握することが王権伸長の必須課題であった。
  半島4世紀になると高句麗が侵入し、313年楽浪郡と帯方郡は滅亡した。そして、馬韓、辰韓からは百済と新羅が建国し、中国王朝の衰退が、半島に独自の王国形成を促したのである。

 一方266年台与の後の男王が西晋へ入貢して以来、421年に倭王讃が宋に入貢するまで150年に亘って、倭国王の朝貢は途絶えた。この間の半島情勢は倭国にとっても、独自の王国形成ができる時代にもなった。西晋の後ろ盾を失った倭王権は、新たな権威と体制固めの模索、構築が使命となった
 こうして、倭王権は三国鼎立の半島情勢に積極的に介入を始める。4世紀後半には、高句麗の南下政策の中、倭国が半島を侵攻したり、百済や新羅に入貢を求めるようになる(書記・三国史記)。369年百済は倭と連合し新羅を破り高句麗を撃退している。百済は倭と親交を保つべく七氏刀を献じてきた(詳細は後述)。又、高句麗の「公開土王碑」や半島南部の倭製文物の出土も倭の半島侵攻を物語る資料である。

Photo  大王墓の佐紀への移動は王権の帝国的な台頭と、その実現のための鉄素材と技術の掌握を睨んだ近畿北部重視の施策深く関係している。佐紀大王家がいせきの息長氏や和珥氏はもともと渡来系の集団であり、半島外交や鉄加工技術の卓抜したノウハウを持っていた。近畿北部に初めて前方後円墳が築造されたのは4世紀前葉であるが、中頃から後半にかけては大王墓に準ずる規模の前方後円墳が次々と築造された(蛭子山古墳、網野銚子山古墳、竹野神明山古墳)。彼らこそヤマト政権の新パートナーになりえた王たちであった。

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2011年9月 3日 (土)

秋らしくなって

 台風の影響か急に涼しくなって、朝のうちは草叢から虫の音も聞こえ出した。そこで今日は秋らしい花と実を撮ってきた。(福岡では台風の影響は殆どなかった)。
Photo  芙蓉。公園に植わっているものだが、ピンクである。毎年はも少し色が濃いと思うが、今年はやや薄くやさしい色合いである。民家の芙蓉は今年は花付きがよく今が盛りのようだ。

Photo_2  。咲き始めたばかりで、未だ蕾が多い。これからたくさん花を付けて綺麗になるだろう。

Photo_3  ノブドウ。5mmぐらいの実で、色が青から紫まで種々あり、見た目に美しい。花のときは全然気がつかなかったが(ヤブガラシの花に似ていて、ヤブガラシとばかり思っていた)、実が付くと結構美しい。
 因みに実は食べられないが、薬効作用があり、肝臓の強肝特効薬として販売されている。

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2011年9月 1日 (木)

倭国の興亡56: 大王墓の移動は王統の交替か

 大和から佐紀に移動した大王墓は、5世紀になると河内平野の古市・百舌鳥(モズ)へ再び移動する。古市古墳群の仲ツ山古墳(中津媛陵、286m)、誉田御廟山古墳(応神陵、420m)及び百舌鳥古墳のミサンザイ古墳(履中陵、365m)、大山古墳(仁徳陵、486m)など佐紀古墳群をはるかに上回る、列島最大の超巨大前方後円墳が出現する。
56_2  大王墓が佐紀から河内に移動した理由は2つの解釈がある。
一つは、古墳はその勢力の本貫地に造営されるのが原則との立場から、ヤマト政権とは全く別の政治集団が王権を剥奪して新たな王権を打ち建てたとする。ヤマトの「三輪政権」や「崇神(イリ)王権」に対し、「河内王権」「応神(ワケ)王権」と呼ばれる。(諱名によっている)
二つは王権の交替ではなく、あくまで3世紀以来の初期ヤマト王権が何らかの理由で葬地を移動したと見る説である。図は履中陵
 因みに私は王権の争奪による移動と見る。当時は未だ王権は安定せず、同系の王統が引き継がれるほどの安定はしていなっかたし、また応神は先にも見たように渡来説が強く、完全な王権交代があったと信じている

 佐紀の王統も河内の王統ももとは、息長氏と和珥(ワニ)氏を中心として大和盆地北部、近江南部、丹波にかけて勢力を持っていた。神功皇后(息長帯比命)を含む系統や伝承が、息長氏によって伝承されてきたとする説がある。その上で、応神擁立に際し起きた応神の異母兄弟である香坂王と忍熊王の反乱記事に注目する。「忍熊」は「忍熊里」で、佐紀最大古墳群が押熊町だという。戦いは応神とその母神功が勝ち応神が即位する。よって、河内王朝の成立は佐紀王統内での派閥抗争に勝利し、分裂して河内に基盤を移した一派だという。
 応神は淀川・木津川流域から近畿北部を背景とする佐紀大王家とは袂を分かち、後の葛城氏や、大和川流域に蟠踞していた物部氏などの豪族を外戚とずる新たな王権中枢構造を再編した。とも言われる。

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