« 猛暑の真っ只中 | トップページ | 我が庭の花 »

2011年8月11日 (木)

倭国の興亡52: 伽耶と倭国(九州)の繋がり

 1~5世紀の間、金海、対馬、壱岐、北部九州を結ぶ海路は倭人専用航路だった。故に弥生文化の伝播の中間点であり、引き続き大和と韓の交流の拠点であった。文化伝播は両地域から発掘される支石墓や土器、鉄器を見ればわかる。
 日本では西九州地域だけに巨石墳墓が5ヶ所に偏在している(唐津湾・平野、糸島平野、長崎北海岸と島原半島、熊本平野など)。この地域は河川や海岸の小丘陵や沖積層上に位置し、支石墓時代農耕生活が主流だったことがわかる。
 支石墓は蓋石式と基盤式が混在する。半島南部からBC3世紀に伝播し、弥生文化の形成した新しい墓形である。支石墓からの発掘物は半島のものと同じく、壺型、鉢型の土器類が多く、石鏃、勾玉まれに青銅器も出土している。これらは金海の無文土器からその起源がわかる。鉄器類は伽耶や新羅の出土形態と同じでなので、半島からの移入と考えられる。当時の倭には鉄の大量生産は不可能であり、伽耶に依存した。

 伽耶から列島への海路は、狗邪韓国(金海)から対馬→壱岐→伊都国ルート壱岐→出雲だった。伽耶人は東側に進出し畿内地域に及ぶヤマト政権成立に影響した。出雲は畿内進出の拠点であった。玄界灘を挟んでの人的・物的交流により、半島南部の弥生式土器や甕棺も倭人のものであり、金海良洞里から出た「方格規矩四神鏡」は唐津で発掘されたのと同じ模様・年代など全く同じである。
52  対馬の高麗山の古墳は石を板のように立てた石棺墓で、BC3~4世紀の伽耶式と同じであり、頭を半島に向けている。ここから出る土器はみな金海式土器で、隆起文土器や櫛目文土器は釜山出土品と同じで、継続して半島の南部文化は倭に伝播している。写真は半島の影響を受けた櫛目文土器
 北部九州の遺跡500余の墓から出土した人骨は当時の倭人より背が高く、半島渡来人であることがわかる。糸島半島からは半島製の鉄器や馬具類が多く見られる。奈良・藤の木古墳も伽耶文化が飛鳥文化に与えた影響を物語っている。
 6世紀に入ると百済と新羅の勢力拡大の影響を受け、伽耶の影響を受けた邪馬台国が滅び阿羅伽耶王の一族による大和朝廷の成立により、阿羅伽耶もまた衰退していったといわれる。
 

 

|

« 猛暑の真っ只中 | トップページ | 我が庭の花 »

古代史、邪馬台国」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/534272/52446826

この記事へのトラックバック一覧です: 倭国の興亡52: 伽耶と倭国(九州)の繋がり:

« 猛暑の真っ只中 | トップページ | 我が庭の花 »