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2011年8月20日 (土)

倭国の興亡53: [異説] 応神は阿羅伽耶王の王子か?

 応神は渡来人系の王族の出自であるというのは通説となっている。三韓征伐より帰ってきた神功皇后が九州・筑紫で応神を産んだことになっている。故に崇神から始まり14代仲哀で終わったヤマト王朝とは繋がりはなく、16代仁徳から河内に築かれた河内王朝の始祖なのである。

 半島で倭と百済は伽耶を挟んで緊密な関係を持ってきた。百済が強国として領土拡大をしたのは、近肖古王(346-75)の時代で、倭地をはじめ中国など海外の領土まで攻め、366年神功(卑弥呼)の死後、伽耶の分国である邪馬台国を、王子(近仇首王)を王として直轄統治を始めた。 即ち神功亡き後の北部九州まで支配下に置き、近肖古に続く近仇首王、枕流王、辰斯王まで約25年間続いた(台与没後の倭国乱時代か?)。 しかし、392年、辰斯王が殺され、次の阿莘王のとき、沸流(朱蒙の子、温祚の兄)の末裔である阿羅伽耶王の阿羅斯等の息子である応神が大和政権を立て、百済から倭は分立して「倭の五王」の初代となり、百済の干渉を受けずに伽耶人の倭国「大和朝廷」が誕生した。以降4世紀末から5世紀にかけ、伽耶系(沸流系百済)の五王が87年間倭を統治した。

 又一説には、362年仲哀天皇が九州遠征で戦死し、九州倭がヤマト王権を統合し、391年までにようやく列島は統一された。 当時の倭は半島の任那(伽耶)・加羅の植民地を確立し、それを足がかりに百済と共同で新羅と戦いながら、半島中部まで侵攻した。 この時、百済王から七支刀を献上され(詳しくは後述)高句麗と戦った「倭国・倭王」はヤマト国を破って列島を統一した九州倭国即ち狗奴国・狗奴国王に他ならない。と、いう。 この王こそ仁徳天皇かその父王である応神天皇である。応神天皇は九州・宇美で出生したことになっているが、九州出身であることだけは史実であるという。そして応神こそが史上初の「大王」だった。(「倭国の興亡48」を参照)

 ヤマト王朝を倒す応神は、武内宿祢と共に、日本海に航路を採り、近江から若狭、敦賀を廻り、ヤマト王朝系の異母兄弟の香坂、忍熊王子を討ち、大和入りをした。 これらの地域は渡来系部族の拠点であり、応神天皇が有力氏族を朝鮮から連れてきたのと符合する。 渡来人の葛城一族、和邇一族らが大和に勢力を張り、これら有力氏族を引き連れ大和を征服後、河内に進出した。 ここに新天地作りに着手し、広大な水田開発や水利工事を進めた。
 記紀の記述が15代応神から具体性を帯びていることから、間違いなく実在したのは応神天皇からだとの説がある。そして、それは渡来人系の王朝だった
  

 

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