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2011年8月28日 (日)

倭国の興亡55: ヤマト大王墓の移動

 三輪山の麓にあった三輪王朝を凌ぐ纏向で発生したヤマト王権は、東方に向かって領域を伸長し、4世紀にかけて大王墓や前方後円墳の築造が増加し、大型化していった。
Photo  図示のように、北から大和(オオヤマト)古墳群、柳本古墳群、纏向古墳群が、更に南には桜井茶臼山、メスリ古墳群が左程時間的に離れない時期に、大王墓クラスに重なるように分布している。

 これらは従来のような在地首長とは異なり、王権中枢を支える主要な部族的国家の王たちが王都周辺に居館を構えたのではないかとみられる。当然、主要な地位にあり、後には豪族と化した人たちであろう。王権誕生に活躍したはずの主要国の首長は王権の伸長に伴い、次第にその立場を失墜させ、他国と同列に扱われたと思われる。
 現時点ではこれらの被葬者の出自は明らかでないが、箸墓古墳や西殿塚古墳の後円部にはキビ様式の祭祀器が並べられ、ホケノ山古墳や東田大塚古墳の周辺埋葬には伊予型の大型壺が供献された。

 ところが、大和最大の大王墓である4世紀前葉渋谷向山古墳(景行陵)をもって、「オオヤマト」での大王墓の築造は停止する。これ以降、盆地北部の佐紀地方へ大王墓クラスの前方後円墳は移動するのである。

 4世紀中頃、佐紀には200mを超える巨大な前方後円墳が現れる。五社神古墳全長276mで佐紀最大であり、渋谷向山古墳からうまくバトンタッチした。以後、佐紀陵山古墳、佐紀石塚古墳(成務陵)、宝来山古墳(垂仁陵)と4世紀代の大王墓が次々と造営され、5世紀前半には市庭古墳(平城陵)、ヒシアゲ古墳、コナベ古墳、ウワナベ古墳と続く。
 ところが5世紀になると大王墓は佐紀から今度は河内平野へと移動する。

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