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2011年8月

2011年8月30日 (火)

稲の出穂日は決まっている?

 もう3週間以上も前、8月初旬の話になる。早朝ウオーキングの途次、水田の縁に座り、じっと田圃を見つめている農家の人がいた。
Photo  「何しているんですか?」と尋ねると「稲に肥料をやろうと思って水を張ろうとしているが、ここんところの日照り続きで、ひび割れが深く、水が漏れるのか溜まらないので困っている」との返事。見ると確かに田圃は地割れしている。この干し上げは稲の根を地中に深く伸ばすためにやる作業工程の一つなのだが出穂前には、も一度水を張り、施肥するんだそうだ。「もうすぐ稲刈りの時期に、今から肥料をやるようでは、穂が出るのは随分先になりませんか?」と聞くと、「いや、穂が出るのは、8月26日です」との答え。「気温や天候の変化で、出穂する時期は変わらないんですか?」と尋ねると「いや、稲の出穂は、種籾を蒔いた時期によって既に決まっています。大きな気象変化があっても、せいぜい1両日ずれる位です」との返事であった。

 そんな不思議なことがあるものかと思ったが、相手は農家の人。嘘は言わないだろうが、種蒔き時点で、気候の如何を問わず、出穂日が決まるなんてどうにも信じられなかった。
 その26日が来た。だが、その日は生憎朝から雨で、私はウオーキングに出なかったが、その前日には私は稲の出穂に気づいていない
 27日、陽が昇る前のウオーキング時、よーく見ると確かに穂の先が出ている。カメラを向けたがフラッシュの反射光で、うまく撮れず、その翌日28日、明るくなってからの写真がこの通り、なんと稲穂は出揃っていた! 全くの驚きの一言しかない

 稲だけでなく、どんな植物でも、播種時から決まった日数経過で花が咲き、実がつくものなのか。それとも、現在の稲作技術は播種から出穂までコントロール出来るようになったのか。それとも私に常識がないのか、無知なのか? ご存知の方ご教示ください

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2011年8月28日 (日)

倭国の興亡55: ヤマト大王墓の移動

 三輪山の麓にあった三輪王朝を凌ぐ纏向で発生したヤマト王権は、東方に向かって領域を伸長し、4世紀にかけて大王墓や前方後円墳の築造が増加し、大型化していった。
Photo  図示のように、北から大和(オオヤマト)古墳群、柳本古墳群、纏向古墳群が、更に南には桜井茶臼山、メスリ古墳群が左程時間的に離れない時期に、大王墓クラスに重なるように分布している。

 これらは従来のような在地首長とは異なり、王権中枢を支える主要な部族的国家の王たちが王都周辺に居館を構えたのではないかとみられる。当然、主要な地位にあり、後には豪族と化した人たちであろう。王権誕生に活躍したはずの主要国の首長は王権の伸長に伴い、次第にその立場を失墜させ、他国と同列に扱われたと思われる。
 現時点ではこれらの被葬者の出自は明らかでないが、箸墓古墳や西殿塚古墳の後円部にはキビ様式の祭祀器が並べられ、ホケノ山古墳や東田大塚古墳の周辺埋葬には伊予型の大型壺が供献された。

 ところが、大和最大の大王墓である4世紀前葉渋谷向山古墳(景行陵)をもって、「オオヤマト」での大王墓の築造は停止する。これ以降、盆地北部の佐紀地方へ大王墓クラスの前方後円墳は移動するのである。

 4世紀中頃、佐紀には200mを超える巨大な前方後円墳が現れる。五社神古墳全長276mで佐紀最大であり、渋谷向山古墳からうまくバトンタッチした。以後、佐紀陵山古墳、佐紀石塚古墳(成務陵)、宝来山古墳(垂仁陵)と4世紀代の大王墓が次々と造営され、5世紀前半には市庭古墳(平城陵)、ヒシアゲ古墳、コナベ古墳、ウワナベ古墳と続く。
 ところが5世紀になると大王墓は佐紀から今度は河内平野へと移動する。

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2011年8月26日 (金)

今秋は実つきが多い

 いろんな花や果物が実を付けるときだが、今秋はどんな植物も沢山の実を付けている。多分冷暖の繰り返しや干ばつと多雨の繰り返しなど不純な気候のせいだろうが、こんなにもあらゆる木々が沢山の実をつけたのも珍しい。
Photo  これは当ブログにも載せた百日紅の実である。百日紅が結実するのは知っていたが、こんなにも沢山の実をつけているのは珍しい。普通は百日紅の実を意識するほどにはつかないだろう。
 尤も、百日紅は種類も多く、全部が全部沢山の実がついているわけでもないらしく、我が家のは左程でもない。

Photo_2  これは富有柿。普通柿は沢山の花を付けてるが、受粉する前に可なり散る。又実がなっても梅雨時期など強い雨や風で実も沢山落ちる。これは成り過ぎるのを自然に調節する機能が柿にはあってのことだといわれる。特に富有柿はそう多くなるものではないが、今年はご覧のとおり固まってなっている。それだけに実は小さい。

Photo_3  これはイチジク。葉の陰になって見づらいが、かたまって実がなっているのがわかるでしょうか。このような塊がまた沢山ついているのである。それも結構大きな実がついている。本来イチジクはやや日陰に植わっており、実のつき方もパラパラという程度なのに、今秋はなんとも不思議な結実である。

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2011年8月24日 (水)

倭国の興亡54: 古墳時代への変遷

 大和・三輪山と巻向山に囲まれた巨大都市、纏向の出現古代ヤマト王権(崇神天皇より始まる日本最初の王朝・三輪王朝)の伸長したものか、それとも全く別の新王朝が出現したのか、卑弥呼没後、中国史書から消えた倭国は未だ闇の中で、「闇の4世紀」と呼ばれている。前回から話が少し後戻りするが、この時期、新たに出現した墓制「前方後円墳」を中心にこの時代を手探りしてみよう。

54  まず、元々前方後円墳にも影響あったとされる「四隅突出形方丘墓」であるが、これはイヅモを中心に2世紀末頃出現し巨大化した墳墓である。唯、この古墳上での祖霊祭祀はイト国の平原一号墳との共通点を持っており、又瀬戸内の楯突墳丘墓との祭礼の共通点を持ちつつも、独自の出雲文化圏を作ったと思われる。まだまだ未発見の四隅突出墳墓が眠っていると思われる。

54_2  今一つ、纏向に前方後円墳が発生する頃、近畿以東、特に北陸、中部、関東方面には前方後方墳が発生している。これは前方後円墳の影響を受けてできたものでないかとも推測されている。纏向前方後円墳と同じく方丘長と前方部長の比率が2:1となっているからである。
 この方墳が分布している地域の土器が赤く塗られていることが特徴で、これは倭国の南部の熊本平野を中心とする中・南九州とも共通しており、当時の邪馬台国を中心とした勢力に対立した勢力圏、例えば狗奴国の勢力圏であったとする見方もある。但し、3世紀後半には関東は前方後円墳圏に変化してゆき、ヤマト政権の伸長を暗示する。
 尚、この時期、対外的には『倭国』は北部九州であり、ヤマト政権は未だ中国や半島からは認知されていない(中国の史書等に出現してない)。

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2011年8月22日 (月)

残暑が続きそう

 やや涼しいのは今日まで。明日から又30-33℃の最高気温が続く予報である。
 ところで、ちょっと意外な話。人間、喋ったり、食ったりするとき、上あごと下あごが動いていると思っちゃう。ところが、人間の上あごの歯が並ぶ「歯槽骨」は頭の骨に固定されている由。
 よって、喋ったり、食ったりのときは、下顎骨の両端が、ハンモックのように頭の骨にある関節窩というところに、筋肉や腱で吊り下げられ、その筋肉が動くことにより上下・左右に動いているそうだ。考えてみれば人間の体は骨ががっちり支えているようで、実は筋肉がすべてを結び付け、動かしている。浅学ゆえか今時分驚いている次第。

Photo_2   これテッポウユリ。先日名古屋市から知多半島を中部空港まで下る間、道路近くに白ユリが沢山群生していたのに驚いた。が、我が家の近くでもこのユリが沢山咲いているのを見つけたので、カメラに納めた。
 このユリは、お盆に墓にそなえられたり、観光葬祭にはよく使われるのは、西洋でも同じだそうだ。尤もこのユリによく似た「タカサゴユリ」「ササユリ」など名前が違う種類もおおいようだが、互いに交配し、よく似てきているようだ。

Photo_3  下のは群生の状態を撮ったものだが、この百合も水はけの良い所を好むのか、なぜか平地ではなく、傾斜地に群生しているようだ。

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2011年8月20日 (土)

倭国の興亡53: [異説] 応神は阿羅伽耶王の王子か?

 応神は渡来人系の王族の出自であるというのは通説となっている。三韓征伐より帰ってきた神功皇后が九州・筑紫で応神を産んだことになっている。故に崇神から始まり14代仲哀で終わったヤマト王朝とは繋がりはなく、16代仁徳から河内に築かれた河内王朝の始祖なのである。

 半島で倭と百済は伽耶を挟んで緊密な関係を持ってきた。百済が強国として領土拡大をしたのは、近肖古王(346-75)の時代で、倭地をはじめ中国など海外の領土まで攻め、366年神功(卑弥呼)の死後、伽耶の分国である邪馬台国を、王子(近仇首王)を王として直轄統治を始めた。 即ち神功亡き後の北部九州まで支配下に置き、近肖古に続く近仇首王、枕流王、辰斯王まで約25年間続いた(台与没後の倭国乱時代か?)。 しかし、392年、辰斯王が殺され、次の阿莘王のとき、沸流(朱蒙の子、温祚の兄)の末裔である阿羅伽耶王の阿羅斯等の息子である応神が大和政権を立て、百済から倭は分立して「倭の五王」の初代となり、百済の干渉を受けずに伽耶人の倭国「大和朝廷」が誕生した。以降4世紀末から5世紀にかけ、伽耶系(沸流系百済)の五王が87年間倭を統治した。

 又一説には、362年仲哀天皇が九州遠征で戦死し、九州倭がヤマト王権を統合し、391年までにようやく列島は統一された。 当時の倭は半島の任那(伽耶)・加羅の植民地を確立し、それを足がかりに百済と共同で新羅と戦いながら、半島中部まで侵攻した。 この時、百済王から七支刀を献上され(詳しくは後述)高句麗と戦った「倭国・倭王」はヤマト国を破って列島を統一した九州倭国即ち狗奴国・狗奴国王に他ならない。と、いう。 この王こそ仁徳天皇かその父王である応神天皇である。応神天皇は九州・宇美で出生したことになっているが、九州出身であることだけは史実であるという。そして応神こそが史上初の「大王」だった。(「倭国の興亡48」を参照)

 ヤマト王朝を倒す応神は、武内宿祢と共に、日本海に航路を採り、近江から若狭、敦賀を廻り、ヤマト王朝系の異母兄弟の香坂、忍熊王子を討ち、大和入りをした。 これらの地域は渡来系部族の拠点であり、応神天皇が有力氏族を朝鮮から連れてきたのと符合する。 渡来人の葛城一族、和邇一族らが大和に勢力を張り、これら有力氏族を引き連れ大和を征服後、河内に進出した。 ここに新天地作りに着手し、広大な水田開発や水利工事を進めた。
 記紀の記述が15代応神から具体性を帯びていることから、間違いなく実在したのは応神天皇からだとの説がある。そして、それは渡来人系の王朝だった
  

 

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2011年8月18日 (木)

雷雨の中を伊勢参り

Photo  長男のいる名古屋に次男家族、我家が集まって、ついでに伊勢参りをした。あいにく、伊勢に着いた途端雨が降り出し、雨の中での参拝となった。(おかげ横丁で3時間ほど雨宿りをした)
 雨の中での正殿への参道。これだけ杉の大木の多い参道故、平常から薄暗く、神域ゆえの霊厳を感じる所であろうが、今日は雨中であり、全体が幻想的なお厳かな雰囲気に包まれた中を進んだ。

Photo_2  途中にある「神楽殿」。ご祈祷のお神楽や、御饌(ミケ)を行う御殿である。お札やお守りなども授与しているところ。この建物は鎌倉時代の建築様式だそうだ。
 詳細は、すべて伊勢神宮のHPに紹介されているので、省きますが、雨の「お伊勢さん」もなかなか良かったという写真を添付しました。URLは以下の通り
 http://www.isejingu.or.jp/

Photo_3  最終目的である正殿。天照大神を祀る本殿であるが、一般参詣者は、この写真の奥にある正殿は屋根の一部しか見えない正面の門の所までしか行けない。写真も、門までの石段の最下部からしか撮影できない。平成25年の遷宮のため、現在この本殿の横に建設工事が行われていた。

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2011年8月13日 (土)

我が庭の花

 連日猛暑が続いているが、これもあと数日ではないかと推定する。蜻蛉が飛んだり、秋の花が咲き始め、稲田の手入れの状況は月末刈取りの準備をしている。自然の動きは、もう秋を見据えた状態だ。

Photo_3  今日は我が庭の花を紹介する。
夏水仙。別名リコリス。ヒガンバナ属(Lycoris)からきている。葉がないので、裸百合とも呼ばれるそうな。2、3日前少し夕立めいた雨が降った途端、いきなり地中から伸びてきて咲いたものである。この花は早春に葉が伸びだし6月ごろ枯れてしまう。そして今頃いきなり茎が出て花を付ける。9月ごろまで咲く。変わった花だが、中国からの帰化植物だそうだ。但しこれも毒を持った植物ではある。この花が咲くと秋になるといわれている。

Photo_2  これはダリア。近所から球根を頂いたものを鉢植えしていたら白い花を付けた。花が牡丹に似ているので、天竺牡丹とも呼ばれる。メキシコ原産で、メキシコの国花だそうである。日本には1842年にオランダ人によって持ち込まれたとある。これも次から次と蕾を付け結構、長期間楽しめる。今のところ我が家の庭には他に葉は咲いていない。

 

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2011年8月11日 (木)

倭国の興亡52: 伽耶と倭国(九州)の繋がり

 1~5世紀の間、金海、対馬、壱岐、北部九州を結ぶ海路は倭人専用航路だった。故に弥生文化の伝播の中間点であり、引き続き大和と韓の交流の拠点であった。文化伝播は両地域から発掘される支石墓や土器、鉄器を見ればわかる。
 日本では西九州地域だけに巨石墳墓が5ヶ所に偏在している(唐津湾・平野、糸島平野、長崎北海岸と島原半島、熊本平野など)。この地域は河川や海岸の小丘陵や沖積層上に位置し、支石墓時代農耕生活が主流だったことがわかる。
 支石墓は蓋石式と基盤式が混在する。半島南部からBC3世紀に伝播し、弥生文化の形成した新しい墓形である。支石墓からの発掘物は半島のものと同じく、壺型、鉢型の土器類が多く、石鏃、勾玉まれに青銅器も出土している。これらは金海の無文土器からその起源がわかる。鉄器類は伽耶や新羅の出土形態と同じでなので、半島からの移入と考えられる。当時の倭には鉄の大量生産は不可能であり、伽耶に依存した。

 伽耶から列島への海路は、狗邪韓国(金海)から対馬→壱岐→伊都国ルート壱岐→出雲だった。伽耶人は東側に進出し畿内地域に及ぶヤマト政権成立に影響した。出雲は畿内進出の拠点であった。玄界灘を挟んでの人的・物的交流により、半島南部の弥生式土器や甕棺も倭人のものであり、金海良洞里から出た「方格規矩四神鏡」は唐津で発掘されたのと同じ模様・年代など全く同じである。
52  対馬の高麗山の古墳は石を板のように立てた石棺墓で、BC3~4世紀の伽耶式と同じであり、頭を半島に向けている。ここから出る土器はみな金海式土器で、隆起文土器や櫛目文土器は釜山出土品と同じで、継続して半島の南部文化は倭に伝播している。写真は半島の影響を受けた櫛目文土器
 北部九州の遺跡500余の墓から出土した人骨は当時の倭人より背が高く、半島渡来人であることがわかる。糸島半島からは半島製の鉄器や馬具類が多く見られる。奈良・藤の木古墳も伽耶文化が飛鳥文化に与えた影響を物語っている。
 6世紀に入ると百済と新羅の勢力拡大の影響を受け、伽耶の影響を受けた邪馬台国が滅び阿羅伽耶王の一族による大和朝廷の成立により、阿羅伽耶もまた衰退していったといわれる。
 

 

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2011年8月 9日 (火)

猛暑の真っ只中

 先週中ごろから続いている猛暑も今週末で終わるという予報もあるそうな。そこで、真夏の代表3点を取り上げる。

Photo  まず、待宵草。宵待草ともいう。但し、月見草とは違う。待宵草にも実は沢山の種類があるそうだ。写真はおそらく「メマツヨイグサ」であろう。この花、実は1920年代に北米原産のものが帰化したものだそうだ。この花が咲き始めると真夏。この植物、実は薬効があり薬草としても多用される由。

Photo_2  ついで、ヘクソカズラ(屁糞蔓)。なんとも汚い名前だが、臭いがあるのでこの名がついている。花は実に可憐でかわいい。造化の神様も変なイタズラをしたものだ。別名やいと花(灸花)、早乙女花ともい云われる。蔓は径1cmほどにもなるそうで、この蔓を利用することもあるそうだ。

Photo_3  これ、ミンミンゼミ。早朝、歩道を歩いて(這って?)いるのを見つけた。アブラゼミと同じ位の大きさで翅は透き通っている。このセミは乾燥した土壌中で育つので、傾斜面の所に多いとか。又早朝夜明けと共に鳴きだし1時間後、アブラゼミに代るそうである。このセミは羽化したばかりか、それとも弱って落ちたのかは不明。

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2011年8月 7日 (日)

倭国の興亡51: 三国時代の始りと発展(2):新羅と伽耶諸国

 新羅:辰韓12ヶ国の一つ慶州の斯盧国紀元1世紀後葉に周辺諸小国と連盟体国家を形成した。建国神話では初代王位に朴赫居世が就いた。三国で最も遅い建国だが、他の集権国家が発展させた諸制度を受容した。
 3代儒理王24-57年)代には中央官制を作り、地方行政区域も整備しつつあった。征服戦争も順調に進み、4代(昔氏)脱解王(倭系人とされている)(80-112年)代に周辺諸国を征服した。
 この征服戦争が一段落した後、4世紀の17代(金氏)奈勿王(356-402年)代には洛東江流域まで領土を拡大し、集権的な国家体制を整えた。この時から朴・昔(ソク)・金三姓氏交代制に代わり、金氏の王位独占世襲制が確立した。

51  伽耶諸国:伽耶は4世紀頃、弁韓12国が母胎となって成立した。領域は現在の慶尚南道・北道に当たり洛東江の中・下流域西岸が本貫であった。
 すでに3世紀頃、この地域には狗邪韓国弁辰狗邪国といった韓族の小さな部族国家が成長していた。それが金官伽耶国大伽耶国となって発展した。
 『書記』では伽耶諸国を任那と汎称するが、韓国史書は伽耶または加羅とする。六伽耶、加羅七国と言われる日本の郡ほどの大きさの諸小国が金官国などを盟主に連盟体を形成したが、ついに集権国家とはならなかった
 しかし、伽耶は百済と新羅のはざまにあって、合従連衡を繰り返しながら、時には半島勢力圏の動向を左右する存在であった。そして、伽耶は百済・新羅両国から文化を吸収消化して、独自の高い文化を生み出した。それは最新の文物・知識として漢(アヤ)氏(百済・伽耶系)や秦氏(新羅・伽耶系)などの渡来人によって倭国に伝えられ、大きな影響を与えた。北部九州の5世紀の伽耶系文物はヤマト政権を介在せず、伽耶系海人種により直接の交易でもたらされたことを物語っている。

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2011年8月 5日 (金)

やはり猛暑だ!

 台風9号、10号及び熱低が列島南方海上に並んでいる。そのうちの9号が九州西海上を抜けるという予報だが、週間天気予報では、福岡は最高気温36℃がずっと続いている。
 ここんところ、九電の電力需要は昼間で、発電容量に対し80%前後で推移し、ピークで90%位。もうこれ以上暑くなっては電力が持たなくなる。そんな心配をしている。

Photo  これは名前がわからぬが、ハーブの一種で、この辺りを通る際は大抵葉っぱを一枚とって、嗅ぎながら歩く。爽やかなミント風の香りがする。最近久しぶりにここ通過してみると、写真のように花がついていた。珍しいので撮ったもの。

Photo_2  これはウーキングコースにある学習塾のブロックの石垣に並べられている首振り人形。天気の日は人形の前部にある受光部で太陽電池が効き、人形が左右に首を振っている。今日は曇っていて首振りはお休みのようだった。受講生への慰みであろう。

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2011年8月 3日 (水)

倭国の興亡50: 三国時代の始まりと発展(1)高句麗と百済

 三韓時代の相互間ほ不均等発展を背景に紀元1~4世紀にかけて、高句麗、百済、新羅の古代国家が形成された。
 高句麗:鴨緑江中流域、佟佳江流域に前1世紀には連盟体的な国家があり、中国、近隣諸国の攻伐を通じ紀元前後~1世紀には古代集権国家を形成した。
Photo_2  神話(三国史記)では朱蒙(東明王)が始祖であり、「高」が姓で、句麗が国名である。第6代太祖王(53-146年)代には沃祖を服属させ、咸興地方を確保し、遼東への進出を図り、7代次大王、8代新大王に引き継がれた。9代故国川王のとき、王位継承が兄弟相続から父子相続に変り、中央集権的な官僚体制が整備された。10代山上王は198年集安に丸都城を築く
 以後、東川王、美川王、故国原王と継続して中国及び百済との勢力競争を通じて対外的な体制維持を図り、丸都城移った。また、17代小獣林王(371-384年在位)のときには仏教の受入、大学の設立、律令の公布をし、対外的な変化に対応した。
 そして、19代公開土王時代、西の後燕を撃破し、東北の粛慎を服属させ満州を占め、百済を征伐し、又倭の侵入を受けた新羅を助けて、倭軍を撃破した。20代長寿王のとき、427年王都を平壌に定め唐に滅ぼされるまで栄えた。 

 百済:漢江流域の伯済国は、紀元前後には近隣諸国を併せて連盟体的国家を形成した。この国の建国も扶余・高句麗系とされ、「三国史記」によれば、高句麗始祖の朱蒙の子の温祚が南方に下り河南慰礼城に都邑を定め建国した。温祚王(BC18-AD28)のとき漢江流域を中心に領域を拡大し、靺鞨を撃破し、馬韓を攻撃し滅亡させた。漢郡県や近隣諸国との抗争を通じて3世紀中葉には集権的な国家を建てた。8代古爾王(234-286年在位)のときには官制(法令)を作り、4世紀後半には13代近肖古王(346-375年在位)のとき国土を拡張し、南は馬韓の残りを討ち北は高句麗故国原王を戦死させた。この時父子相続による王位継承を定め、博士高興に国史「書記」を編纂させた。対外的拡大に対応する内部体制の整備だった。15代枕流王(384-385年在位)のとき、東晋から仏教を受け入れているのもその一環だった。

 

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