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2011年7月 8日 (金)

倭国の興亡44: [異説] 邪馬台国連合諸国の成立譚

 「日朝関係2000年」の著者澤田洋太郎氏は邪馬台国連合諸国の由来を次の如く説く。
奴国:天孫降臨神話を持つ大伽耶から、北部九州沿岸域に根拠を持つ安曇海人族が、天神族の渡海を助けて北部九州へ渡来し、当時の倭国の中心・奴国を作った。更に一部は南に移動して初期邪馬台国を形成した。甘木の平塚川遺跡は5重の環濠集落を残し王国連合の中心地にふさわしい条件を備えている。
卓淳国神湊(玄海町)を根拠に往来し、この地へ伽耶族を運んだのは、宗像海人族である。少し東の遠賀川流域には百済の沸流王を祖とする物部氏がいた。又海の守護神を祀る宗像大社がある。宗像海人族は最初、東松浦半島に末廬国を建てた。宇木汲田・桜馬場遺跡が小王国の存在を示唆している。又、宗像氏は有明の筑後河口に弥奴国を建て、水沼君がその王であった。
大山祗(オオヤマツミ)河野・越智海人族の根拠地である大三島に祀られている。ここは5世紀末百済の王族・斯痲(シマ)(武寧王)が来たとされる。投馬国の所在地とする説もあるが、一般的には投馬国は不弥国の南で、日向の「妻」にあったとされている。
多羅:半島南部の多羅は古代精銅・製鉄の地であり伽耶六国の一つ。ここは新羅系の地と思えるのは六伽耶滅亡後、新羅が大耶州(大良)をおいて重視したからである。多多羅(製鉄炉)や多々良(福岡)の地名は多羅人が倭人に教えた製鉄が関係し、景行(オオタラシヒコ)息長足姫(オキナガタラシヒメ)などの人名は多羅からの渡来人の子孫であろう。博多湾には伊都国である糸島があり、前原地区に三雲遺跡がある。また、内陸の香春(カワラ)は銅の精錬が行われ、新羅の渡来者が住んでいたと「筑前風土記」にある。
安羅:半島南岸で、出雲地方への渡来は当然であろう。新木・足立の姓が多いのは安羅人の移住によることを示唆し、武蔵の足立や荒川の地名も関係があろう。
狗邪韓国:金海にあった金官加羅国または駕洛国で金首露王降誕の地。肥後にあったとされる狗奴国狗邪韓国からの渡来人が建てた国と考えられる。強大であり、邪馬台国連合と対立したため、邪馬台国が移動したとの説もある。

 これら邪馬台国連合は、当初1~3世紀甘木に邪馬台国が存在し、末廬、伊都、奴国は北部九州に、不弥国は宇美にあったであろう。しかし、卑弥呼死後の「倭国大乱」で狗奴国との抗争を繰り返し、邪馬台国は東部へ移動し宇佐市辺りに落ち着いた。日田市周辺の弥生中期大規模な遺跡群や猿田彦に因む遺物があることから、「記紀」は「甘木の高天原からの脱出・逃避行」を天孫降臨神話に仕立て上げたという。

 尚、神武東征は、卑弥呼死後立った男王が筑後川河口の近くの三潴の狗奴国の王であって、狗奴国の一部宇佐津彦とともに脱出し、京都郡にいたニニギの子孫や物部氏系と共に、遠賀川河口で宗像水軍に支えられ東進し、吉備勢力を合流し、河内に進出して、大和で覇権を有した物部氏に迎えられ大王位についてミマキイリヒコと呼ばれるようになった。
 物部氏の三輪山ホケノ古墳は木郭が発見されており、魏志の記述(=半島式古墳は木郭がないとする)と異なることから、この地が邪馬台国でないことは明白である。

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