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2011年7月 3日 (日)

倭国の興亡43: [異説] 「卑弥呼は神功皇后」論

 書記には卑弥呼や邪馬台国は出てこない。が、倭人伝を知っていた編者は、卑弥呼を神功皇后にすり替え、邪馬台国は神功皇后紀の参考記載に留めた。
 古来、卑弥呼は神功皇后、倭姫命との同一論が多く、議論百出しているところであり、古代史の謎の部分であるので、その概要を以下略記する。
 第10代崇神天皇(実在したとされる初代天皇)が邪馬台国を建国し(93-103年)、垂仁(11代)、景行(12代)、成務(13代)、仲哀(14代)らが78年間治め、その後、神功皇后(女王)に権力を奪われた後、120年間王統が断絶する。この神功皇后こそが卑弥呼である。
Photo  神功皇后の出自は駕洛国(金官伽耶:半島南端の国)の始祖の初代金首露王の第一王女、妙見王女であり、「三国遺事」(韓国史書)では細烏女(セオニオ)説、「古事記」では息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)、「日本書紀」では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)の名で登場している。(図は神功皇后木像
 171年、神功皇后は敦賀へ渡り、仲哀天皇と結婚。仲哀は神功を第3の妃としたが、これは分裂しつつあった原住倭人を懐柔するためであった。神功は船団を率いて南下、下関に半年滞在し東九州を占領。博多地方を掌握、松浦へと進み、伽耶の分国である邪馬台国女王となった。そして熊襲征伐の後、仲哀に新羅征伐を要請。これを拒んだ仲哀を暗殺し、阿羅伽耶戦闘と南江流域の戦闘に参加した。これが「新羅征伐説」を生んだのである。没年247年、在位69年間。
 以上が「卑弥呼は神功皇后」論の概要で出自や在位年数など仔細な点の違いはあるものの基本的に賛同する人は多い。唯問題点は神功の子・応神が就位するまでの120年間のブランクである。応神は渡来人であるとされているのが通説であるが、神功が実質女王でありながら皇后にとどまったのは、両者が伽耶王族の出自であることと関係する隠された事実が存在するとされている。

 荒唐無稽な話のようだが、この時代、まず半島南部の伽耶地方と九州北部の間では、人の行き来が多く国境という感覚が未だ出来てないこと、同じ弥生人としてかなり血の繋がりが濃く、全く同じと言っていい天孫降臨神話を持つ両国は、新羅、百済から、同じ倭人呼ばわりされたいたことを考えると、ありえない話ではなく、事実をもとにしている可能性も強い

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