« 「鷹の祭典」を見に行った | トップページ | 山笠 奔る! »

2011年7月13日 (水)

倭国の興亡45: 三世紀のイト・ナ国の変遷

 邪馬台国連合が「倭国」として中国の冊封体制に入り、半島との交易が進み、イト国、ナ国も変貌せざるを得なかった。
 旧イト国は依然住居・墓地は広がり、集落機能も衰えず、3世紀前半までは鉄器・鉄素材も減らず活気に満ちていた。弥生中期後半(1世紀前半)以来港湾国家機能も健在で、3世紀三雲遺跡群には三韓系・楽浪系の瓦質土器と共に、朝鮮三国時代の陶質土器や畿内、瀬戸内、山陰系の土器も多く、逆に伊都国経由で半島南部に倭製(北九州)文物がもたらされた。
 尚、伊都国に置かれた「大率」とは大帥(軍の総督)であるが、これは旧イト倭国の機能を生かし、伊都国が王権の大率の機能を分担して、「倭国」の政治・経済の監視を行ったのでないかとの説がある。
 一方奴国は3世紀になると春日丘陵の環濠集落は解体し、ナ国首都の須久遺跡も次第に衰退して、奴国は大きく転換した。即ち、同じ奴国ながら博多湾に近い「儺」のクニの那珂・比恵遺跡、博多遺跡群、西新遺跡の御笠、御原、那珂川流域に移動した。3世紀になると他地域特に畿内系の土器が目立ち、ヤマト王権との関係深まりを示唆する。
 初期の古墳規模も、北部九州は吉備に次ぐ大形の前方後円墳を築き、御笠の原口古墳儺の那珂八幡古墳は纏向型であり、箸墓に近い規模で、かつ三角縁神獣鏡写真)も副葬され、ヤマト王権に繋がって行ったと見られる。
Photo  しかし、
3世紀後葉になると、伊都国の三雲遺跡も衰退し、海岸部には畿内系土器を出土する集落が出現し、「粕屋」、「胸肩」(宗像)のクニが次第に力を付け始めている。「倭国」内の4世紀も含めた前方後円墳は21基に及びヤマトに次いで多く、三角縁神獣鏡を持つ古墳が7例もあり、ヤマト政権からの評価は保持していた。

 4世紀前葉頃になると、北部九州最大の前期前方後円墳で三角縁神獣鏡7面と獣帯鏡1面を副葬した苅田町・石塚山古墳(120m)が築造されている。周防灘に面した「豊」の国にある「(ミヤコ)」だ。この頃から、半島との外交・交易ルートに変化があり、半島から直接響灘に入り関門を抜け瀬戸内に入るルートに変った。そして、石塚山古墳こそ、伊都国の大率権力を奪ったヤマト王権の派遣した大率のものでないかと思わせる。即ち、九州倭国の衰えの兆である。

|

« 「鷹の祭典」を見に行った | トップページ | 山笠 奔る! »

古代史、邪馬台国」カテゴリの記事

コメント

古墳の形式や鏡で力関係が推察されるのは興味深いですね。
これらが権力を表していたからでしょうか。
素人的には食物の貢物なんかが発掘されれば今の科学の力でルートなんか明らかに出来るんじゃないか等と思っています。
しかし地名には歴史があるんですね。
豊の国の「京(ミヤコ)」とは!
とても勉強になります。

投稿: Y | 2011年7月13日 (水) 18時49分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/534272/52194361

この記事へのトラックバック一覧です: 倭国の興亡45: 三世紀のイト・ナ国の変遷:

« 「鷹の祭典」を見に行った | トップページ | 山笠 奔る! »