« 台風接近 | トップページ | 蝉の鳴かない夏 »

2011年7月21日 (木)

倭国の興亡47: [異説] 狗奴国が倭国だった?

 卑弥呼没(247年)後の倭国は一時台与政権で平穏となったが、266年中国は魏が滅び西晋王朝が興り、邪馬台国は台与が朝貢の遣使を派遣している。(『晋書』「四夷伝」倭人の条)。但しこれを最後に遣使は途絶え、中国史書に倭国が登場するのは147年後の倭王讃が5世紀初頭に晋に朝貢するまで、完全な闕史時代に入る。この間、ヤマトに発生したヤマト政権と邪馬台国を引き継いだ九州倭国のせめぎあいが、仲哀天皇の熊襲征伐まで続く

 まず、狗奴国の発生と消長をを見よう。北部九州に勢力を持つイト国とナ国は紀元前後より伊都国が倭国を代表する「国」に成長する。相対して、ナ国の勢力は衰亡してゆき、その拠点も福岡平野部から玄海沿岸部へと移動した。そして狗奴国は、半島から渡来する部族とこの奴国の分派である半農半漁の漁撈民を主体とした、戦闘的な部族国家を形成し、卑弥弓呼素(ヒメキコソ)という男王が支配したクニであった。勿論邪馬台国には同和せず、ついには魏の支援もある卑弥呼の前に滅びゆくことになるが、その時、支配層の一部が九州東岸を南下し、日向に来て、薩摩の漁撈民や土着の部民も含め、新国家を形成した。それが大奴国の意で「狗奴国と称されたのである。それは奴国の分派でもあり、半島への航路も確保し、中国へも朝貢していたと思われる。

 そして、魏の没落とともに勢力を失った邪馬台国との戦端を開き、征服してしまい、九州一円を統一支配する一大勢力を形成した。勿論この時期に未だヤマト政権は直接半島ルートは持たず、半島及び中国からはこの九州倭国を「倭国」として対応していたものと思われる。
 纏向に芽生えたヤマト王権は吉備の勢力と出雲の地方も含め、「原大和国家」を形成したのがこの頃。崇神天皇から仲哀迄に相当する期間であり、列島に東西二つの王権が存続し、国家と王権の確立に向けせめぎ合う時期だった。4世紀中葉に統一国家を目指した仲哀天皇の九州遠征があったが、仲哀の戦死に伴い、崇神王朝は終わる。この時、神功皇后の三韓征伐の神話があるが、応神渡来説が強い中、神功も渡来人系との話も絡み、この時期、半島との可なり緊密な関係から、応神は渡来人系の狗奴国王であるとの説がある。即ち当時半島において任那・加羅(元伽耶)の倭地を足掛かりに、百済と共同して、新羅と戦いながら、高句麗とも戦った「倭国・倭王」は狗奴国と狗奴国王」に他ならない。
 ここに新たな征服王朝が西日本の統一を成し遂げ、「倭国」を確立し、日本史上初の「大王(オオキミ)」が誕生したのである。ときに391年のことである 

|

« 台風接近 | トップページ | 蝉の鳴かない夏 »

古代史、邪馬台国」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/534272/52267904

この記事へのトラックバック一覧です: 倭国の興亡47: [異説] 狗奴国が倭国だった?:

« 台風接近 | トップページ | 蝉の鳴かない夏 »