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2011年7月25日 (月)

倭国の興亡48: 三世紀、列島は激動した

 邪馬台国の卑弥呼出現により倭国争乱は収まったが、列島は新しい秩序形成に向け、いろんな軋轢がある中で、大きな変動を遂げつつあった。箇条書きに纏めると、
.物流が近畿に向けて動き出した
Photo  北部九州にあった墳丘墓に中国鏡や鉄剣、鉄製工具を副葬する例が近畿にも急増した。河内潟に面した地域では半島製の土器出土が目立ち始め、舶来品や鉄素材も伊都国を介在しながらも近畿中枢部へ大きく動き出した。尚、近畿北部では鉄器を多量に副葬する方丘墓が急増し日本海ルートが活発になった。
 だが日本海ルートを掌握したのは近畿王権ではなく、タニワ(丹後)の一部族国家であった。
三世紀後葉になると、鉄器の生産は近畿が北九州を追い抜き、高度な鉄器生産を行った。
.倭国乱の緊張感はヤマト政権の誕生により、北陸道と東海道は却って増幅され第3次高地性集落が増加した。即ち王権が東部へ浸透したことを示している。唯、大分、島根、山口など西日本の一部では新体制にくみしないクニ・国では、第3次高地性集落は依然残っていた(狗奴国勢力と見る)。
.各地の弥生環濠集落は解体したが、土塁、壕などで方形に囲んだ首長層の居館が古墳の出現と同時に出現する。クニ・国の王がより一層隔絶した階級的支配層へ変貌したことを示し、その首長を葬る古墳の出現と一体をなしているのである。但し、首長居館には畿内系土器の出現が多く、背景にヤマト政権との関係を窺わせる。
.青銅器マツリが終焉を迎えた。即ち新支配層は新しい神の依り代を作り出さねばならなかったのだ。それで首長霊を「神」として祭祀し、首長霊継承の祭祀を最大限達成させるための巨大な装置として、前方後円墳が生み出されたのである。勿論青銅のマツリから前方後円墳への変遷もヤマト政権との関係により遅速が生じている。

 以上、この時期すでに列島の社会を大きく変革するほどの権力が存在したことを示しており、巨大前方後円墳が生まれるステージへ着実に進んでいた
 
 

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コメント

ふ~む。
この時代の変動する様子が非常に分かりやすく、理解できました。
しかし電話もネットもない時代に、どのようにして権力が伝わっていったのか、ホント不思議です。
物流も頻繁に行われていた様子なので、人の行き来も多かったんでしょうか?
それにしても「巨大な装置」としての前方後円墳とは、ピラミッドと同じ発想なんでしょうか。人間って不思議ですね!

投稿: Y | 2011年7月26日 (火) 09時52分

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