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2011年7月

2011年7月31日 (日)

イワシの頭も信心から

 毎日新聞の日曜論説「時代の風」に、坂村 健氏(東大教授)の「人は何故信じるのか」という話が載った。信じることの不思議と危うさの話である。
 要旨は、東日本大地震に関するブログ等の書き込みには、疑問を感じるものが多いが、中でも「米とぎ汁乳酸菌」は疑問だといわれる。とぎ汁に糖分を咥え、常温放置し、自然発酵させた液体。これを使えば放射能地獄の中でも生き残れるというもの。信じる人たちは飲むだけでなく。エアコンフィルターに噴霧し、吸気と一緒に吸込む、目薬のように目に指す離乳食に入れるなど。当然下痢したり目が腫れても、「毒出し」とか「好転反応」であり、効いている証拠というそうだ。実践者のブログも多いという。

 一方、低レベル放射能に対する各種の実際のデータ類は多く、且つラジュウム温泉効果は支持する学者も多いが、些細な影響である事は否定されない。それに比べると、上記とぎ汁の危険性を否定する微生物や医療関係者は殆どいない
 どうして、低レベル放射能に対する耐性を持った生命の素晴らしさを信じずに、「放射能地獄から救うとぎ汁乳酸菌」の方が信じられるのか。何故、科学者は信じないが、「乳酸菌で空中線量ゼロ」などという科学用語は信じるのか
 新しい時代の信仰かもしれないが、やはりこの乳酸は信じるべきでない。ラジュウム温泉と比較にならぬほど影響が大きいのだから、と結んでいる。
 今の世の中にある沢山の矛盾をよく言い当てた感じなので紹介した。

Photo_2  今日の写真は夾竹桃(キョウチクトウ)。葉が竹に似て、花が桃に似ていることから付いた名前。夏の代表的な花であり、長期にわたって咲く。但し、この木は経口毒性があり、葉、花、枝、根、果実すべてに毒を持っており、周辺の土壌も毒性を持つ。中毒症状は下痢、頻脈、運動失調など
 福岡市は2009年に小学校などの夾竹桃は伐採したが、その後禁止の措置は取り消されている。地域によっては市や町の花或いは木に指定している。千葉市、御宿町、尼崎市、広島市、鹿児島市などである。九州大学箱崎キャンパスには沢山の夾竹桃があったが、糸島キャンパスに移転して無くなった。

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2011年7月29日 (金)

倭国の興亡49:半島のクニグニの成長:三韓時代

 当ブログ27、28回において、高句麗、百済、新羅、伽耶諸国の始祖たちの天孫降臨と建国神話を観た。しかし、現実にはクニグニが連合し部族国家を形成した三韓時代を経て、更に強力な首長のもとに統合されて三国時代へと進展してゆく。紀元前1世紀~4世紀ごろまでの話である。
 この頃倭国もヤマト政権が伸長し半島との関係も、初期的な交流からクニ同士の外交的交流へと変遷し、政治的にも深い関係となるので、半島の古代を見ておこう。先ず三韓の発生とその消長をみる。

Photo_2   古朝鮮が滅んだ前1世紀頃、東北アジア地域と漢江以南の地域には韓(ハン)族の小国家が成長していた。紀元前2~1世紀頃、漢江以南の小国家は馬韓、辰韓、弁韓の連盟体を形成した。
 『魏志』によると、馬韓は約50余国に分かれ、大国で1万余戸、小国で数千戸、計10万余戸だった。辰王は馬韓の月支国を統治し、諸国にはそれぞれ長帥
(チョウスイ)がいた。辰韓(及び弁韓)は24ヶ国で大国で4~5千戸、小国で6~7百戸、総数4万~5万戸だった。各国の渠帥がいた。
 これら、三韓は前4世紀から
鉄器文化を土台に、武器や農具を製作、使用し農業が発展・定着した。
 このような中で、
月支国の辰王は多くの小国の共立により王となり、三韓の地を併せ統治し、代々継承した。他にも伯済国、斯廬国、狗耶国が三韓地域の中心勢力として台頭し、伯済国は馬韓の50余国の一つだったが、馬韓を征服し、百済へと発展した。斯廬国は慶州で成長し新羅へ発展した。一方洛東江下流域の弁韓の有力国であった狗耶国六伽耶の中心国となったが、集権的な統一国家には発展しなかった

 三韓には政治的統治者である渠帥がいる国邑(ミヤコ)の脇に、天君(司祭者)が祭祀を捧げる蘇塗という別邑があり、大木を立て鈴と太鼓を懸けて、神聖な場所であることを示して農耕祭礼と宗教儀礼を主管した。しかし、宗教的な天君は君長の政治権力強化が進むにつれ、君長に隷属する立場となった。

 

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2011年7月27日 (水)

大暑が過ぎて、蝉も鳴き出した

 前回蝉も鳴かない夏かと心配したが、今週になって最高気温が30℃を超すと、当地の蝉もやっと鳴きだした。それにしても随分と気温に影響されるものだと感じ入った次第である。もし、気温が上がらないと、幼虫は羽化しないのかなあ。
Photo  朝歩いていると、百日紅の花が目に付き始めた。最近はいろんな色の花が栽培され、又庭木用に小さく仕立てて咲かせている家が多いようだ。
Photo_3   のは見た目には深紅に近かったが、撮ってみると浅い赤色だった。のは薄いピンクだったが、これも撮ってみると白に近いようだ。朝の薄日での写真はこんな風になろものなのか。

Photo_4  のはこれ木槿(ムクゲ)の積りで撮ったものだが如何であろう。アオイではないと思うが。紫色が珍しくとったもので、白と赤とこれとの三本寄せ植えの1本である。

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2011年7月25日 (月)

倭国の興亡48: 三世紀、列島は激動した

 邪馬台国の卑弥呼出現により倭国争乱は収まったが、列島は新しい秩序形成に向け、いろんな軋轢がある中で、大きな変動を遂げつつあった。箇条書きに纏めると、
.物流が近畿に向けて動き出した
Photo  北部九州にあった墳丘墓に中国鏡や鉄剣、鉄製工具を副葬する例が近畿にも急増した。河内潟に面した地域では半島製の土器出土が目立ち始め、舶来品や鉄素材も伊都国を介在しながらも近畿中枢部へ大きく動き出した。尚、近畿北部では鉄器を多量に副葬する方丘墓が急増し日本海ルートが活発になった。
 だが日本海ルートを掌握したのは近畿王権ではなく、タニワ(丹後)の一部族国家であった。
三世紀後葉になると、鉄器の生産は近畿が北九州を追い抜き、高度な鉄器生産を行った。
.倭国乱の緊張感はヤマト政権の誕生により、北陸道と東海道は却って増幅され第3次高地性集落が増加した。即ち王権が東部へ浸透したことを示している。唯、大分、島根、山口など西日本の一部では新体制にくみしないクニ・国では、第3次高地性集落は依然残っていた(狗奴国勢力と見る)。
.各地の弥生環濠集落は解体したが、土塁、壕などで方形に囲んだ首長層の居館が古墳の出現と同時に出現する。クニ・国の王がより一層隔絶した階級的支配層へ変貌したことを示し、その首長を葬る古墳の出現と一体をなしているのである。但し、首長居館には畿内系土器の出現が多く、背景にヤマト政権との関係を窺わせる。
.青銅器マツリが終焉を迎えた。即ち新支配層は新しい神の依り代を作り出さねばならなかったのだ。それで首長霊を「神」として祭祀し、首長霊継承の祭祀を最大限達成させるための巨大な装置として、前方後円墳が生み出されたのである。勿論青銅のマツリから前方後円墳への変遷もヤマト政権との関係により遅速が生じている。

 以上、この時期すでに列島の社会を大きく変革するほどの権力が存在したことを示しており、巨大前方後円墳が生まれるステージへ着実に進んでいた
 
 

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2011年7月23日 (土)

蝉の鳴かない夏

 台風6号が九州南方の海上を通過し、四国高知をかすめ東海南方海上に停滞したこの1週間、福岡地方は涼しくなり、最高気温は27、8℃と過ごしやすい日々が続いている。でもこれは喜んでいいのかどうか。心配になってきた。
 というのは、例年なら今時分は蝉が朝早くからガンガン鳴いている。なのに今年は未だ一度も蝉の鳴き声が聞こえないのだ。始めのうちは急激な温度変化に(急に暑くなって)、蝉の成長が追いついてないから、とテレビで”先生”が説明していたが、今じゃその説明は通用しない。
 涼しいからというのもどうかな? 27、8℃あればセミは羽化する筈。やはり今夏は気象異常なのでないか? それともこれも地震の影響かな。

Photo  これはニガウリ(ゴーヤ)の花。最近は庭の塀がなく、フェンスの家が多いが、そのフェンスに這わせてニガウリを作っている家が多い。ちょうど流行りのグリーンのカーテンとしても格好のものだ。勿論ニガウリはビタミンが多く暑いときの食欲増進にも良い。尤も奄美から沖縄にかけては珍しくもなんともないものだが・・・・。

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2011年7月21日 (木)

倭国の興亡47: [異説] 狗奴国が倭国だった?

 卑弥呼没(247年)後の倭国は一時台与政権で平穏となったが、266年中国は魏が滅び西晋王朝が興り、邪馬台国は台与が朝貢の遣使を派遣している。(『晋書』「四夷伝」倭人の条)。但しこれを最後に遣使は途絶え、中国史書に倭国が登場するのは147年後の倭王讃が5世紀初頭に晋に朝貢するまで、完全な闕史時代に入る。この間、ヤマトに発生したヤマト政権と邪馬台国を引き継いだ九州倭国のせめぎあいが、仲哀天皇の熊襲征伐まで続く

 まず、狗奴国の発生と消長をを見よう。北部九州に勢力を持つイト国とナ国は紀元前後より伊都国が倭国を代表する「国」に成長する。相対して、ナ国の勢力は衰亡してゆき、その拠点も福岡平野部から玄海沿岸部へと移動した。そして狗奴国は、半島から渡来する部族とこの奴国の分派である半農半漁の漁撈民を主体とした、戦闘的な部族国家を形成し、卑弥弓呼素(ヒメキコソ)という男王が支配したクニであった。勿論邪馬台国には同和せず、ついには魏の支援もある卑弥呼の前に滅びゆくことになるが、その時、支配層の一部が九州東岸を南下し、日向に来て、薩摩の漁撈民や土着の部民も含め、新国家を形成した。それが大奴国の意で「狗奴国と称されたのである。それは奴国の分派でもあり、半島への航路も確保し、中国へも朝貢していたと思われる。

 そして、魏の没落とともに勢力を失った邪馬台国との戦端を開き、征服してしまい、九州一円を統一支配する一大勢力を形成した。勿論この時期に未だヤマト政権は直接半島ルートは持たず、半島及び中国からはこの九州倭国を「倭国」として対応していたものと思われる。
 纏向に芽生えたヤマト王権は吉備の勢力と出雲の地方も含め、「原大和国家」を形成したのがこの頃。崇神天皇から仲哀迄に相当する期間であり、列島に東西二つの王権が存続し、国家と王権の確立に向けせめぎ合う時期だった。4世紀中葉に統一国家を目指した仲哀天皇の九州遠征があったが、仲哀の戦死に伴い、崇神王朝は終わる。この時、神功皇后の三韓征伐の神話があるが、応神渡来説が強い中、神功も渡来人系との話も絡み、この時期、半島との可なり緊密な関係から、応神は渡来人系の狗奴国王であるとの説がある。即ち当時半島において任那・加羅(元伽耶)の倭地を足掛かりに、百済と共同して、新羅と戦いながら、高句麗とも戦った「倭国・倭王」は狗奴国と狗奴国王」に他ならない。
 ここに新たな征服王朝が西日本の統一を成し遂げ、「倭国」を確立し、日本史上初の「大王(オオキミ)」が誕生したのである。ときに391年のことである 

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2011年7月19日 (火)

台風接近

 台風6号が日本列島をめがけて接近中である。今朝時点の予報では九州には今夕6時頃最接近とのこと。以降本深夜四国高知に上陸、大阪から紀州半島を抜け、明日夕刻再度太平洋に達する見込みとか。中心気圧950hPa、最大風速60mという強い台風はあまり勢力を落とさず進みそうで、太平洋の高気圧の風を巻き込んで、大量の雨を降らし、大水害発生の恐れが大きいという。
 当地北部九州では今夕強風圏に入るもののさほどの影響はなそうだが、いつも被害を蒙る九州南部、四国、紀州半島には被害の少なからんことを祈る。

 次にビッグニュースはご存じ「なでしこジャパン」W杯優勝。何もかも悪いことばかりの最近の日本に、パーッと大きな花が咲いた感じ。うれしい限りである。

 腹が立つのは九電の贋メール事件。これほど今現在国民が心配し、且将来志向を如何にするか真剣に悩んでいる最中に、自分たちの会社が一番で、それを利用する国民の生活は二の次だという態度は全く許せない。親方日の丸の環境の中で、正常な判断力も思考力もなくしているのが今の電力会社だ。

 放射能被害を受けた牛肉が、殆ど全国各地域に行き渡っている。こんなことになったのは何故なんだろう。地方行政も、なぜ農家への通達をもっとはっきり「移出禁止」としなかったのか。打つ手が一歩遅ければ、被害は何倍にもなって帰ってくる。情報・流通の速さに比し、行政の対応能力が追っつかない。行政システムの大転換を提言している人もいる。

 何とも慌ただしい昨日今日の出来事。日本人は今皆が浮足立っているのかもしれない。日本は今未曾有の災害で、多くの避難生活者が、”人災”で苦しめられていることを思い、もっと地に足を付けた為政こそが必要なとき。政治家の奮起を期待する

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2011年7月17日 (日)

倭国の興亡46: 投馬国と狗奴国の謎

 投馬国の所在ははっきりしない。倭人伝には「不弥国より南水行二十日」とあるが、方向が信用できないとして、「瀬戸内海のどこか」に比定されていることが多い。特に邪馬台国の纏向比定論者は、投馬国を吉備に比定している。戸数万戸以外の説明が一切ないので、これ以上の詮索は無駄である。

Photo_3    一方狗奴国「女王の境界の尽くる所なり、その南に狗奴国ありて、男子を王となし、その官に狗古智卑狗(クコチヒコ)あり、女王に属さず、云々」とあって、明らかに倭国に属さないとある。狗古智卑狗は菊池彦で熊本の王とする説がある。
 邪馬台国ヤマト説の大方は、この狗奴国を
伊勢湾から関東の間に存在したとの説が強く、邪馬台国九州説の殆どが熊本から日向辺りを主張している。
 両論ともそれなりの論を展開しての説明であるが、残念ながら物的証拠がある訳ではなく当時の周辺状況が明らかになり、「動かしがたい」証拠が出るのを待つより仕方ない。

 何れにしろ、交戦状態にあった卑弥呼は帯方郡に使者を送り救援を求め魏王朝は張政を遣わし、証書と黄幢(軍旗)を授けて檄文を告げ、倭国に大いに肩入れをしている。
 その最中、248年卑弥呼が死に、男王を立てるが「国中服さず。更々相誅殺し、千余人を殺す」と倭人伝は伝えている。そこで「卑弥呼の宗女「台与」を立てて王とし国中遂に定まる」とあるが、247年に来た張政を台与が大夫、率善中郎将に送らせているからこの間の混乱は短期であった筈である。
 そして、266年には西晋王朝に入貢し、台与の後の男王が晋王朝の爵命を受けているから、台与の治世は短かったようである。この間、狗奴国は多分日向の方へ退き男王の立った邪馬台国との戦闘は終焉している。
 これ以降の邪馬台国、狗奴国ともに中国史書には載らず、倭国は”闇の4世紀”へと入ってゆくことになる。 

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2011年7月15日 (金)

山笠 奔る!

 午前4時59分、一番山笠がスタート。博多山笠のフイナーレ「櫛田入り」の開始だ。
 Photo 祇園山笠は7月1日、博多及び周辺で準備されてきた「飾り山笠」が公開。以降、博多っ子は『何でんかんでん山笠たい!』となる。7月1日:注連下ろし、ご神入り、箱崎浜での当番長お汐井(浜砂)取りと神事が続き本格的に祭りに入る。 以降、9日:全流れ(一定町内区域)の舁手(カキテ)揃ってのお汐井とり、箱崎宮、櫛田神社参拝。10日:流れ舁(流れ区域内)。11日:朝山笠(早朝流れ毎に、役員接待(祝儀山)、同日他流れへも出る。
Photo_6  12日追い山ならし(櫛田入りと追い山の予行練習)。13日集団山見せ(博多以外・天神にも行く)。14日流れ舁き(舁き手交替の実地練習)。そして本日本番の山笠が奔った!
 写真上
:一番流れの舁き山の「櫛田入り」(山が控処より本殿に参拝のため走り込む)
 写真中:八番流れ、櫛田神社のある地区の飾り山で10mを超す高さあり、大変重いが、他の
舁き山と同じく櫛田入りする。八番流れには舁き山はない。尚この飾り山だけは祭り後も壊さず、境内に展示する。
Photo_3  写真下:市内を疾走中の「追い山」。
 一番流れから順次スタートした山は
、「櫛田入り」後、引き続き「追い山」に移り、約5kmある「廻りとめ」まで疾走、如何に短時間で到着するかを競う。
 追い山終了後、午前6時より、櫛田神社では
「荒ぶる神鎮めの能」が演じられ、祭りは全て終了、すべてが平常に戻る。


 

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2011年7月13日 (水)

倭国の興亡45: 三世紀のイト・ナ国の変遷

 邪馬台国連合が「倭国」として中国の冊封体制に入り、半島との交易が進み、イト国、ナ国も変貌せざるを得なかった。
 旧イト国は依然住居・墓地は広がり、集落機能も衰えず、3世紀前半までは鉄器・鉄素材も減らず活気に満ちていた。弥生中期後半(1世紀前半)以来港湾国家機能も健在で、3世紀三雲遺跡群には三韓系・楽浪系の瓦質土器と共に、朝鮮三国時代の陶質土器や畿内、瀬戸内、山陰系の土器も多く、逆に伊都国経由で半島南部に倭製(北九州)文物がもたらされた。
 尚、伊都国に置かれた「大率」とは大帥(軍の総督)であるが、これは旧イト倭国の機能を生かし、伊都国が王権の大率の機能を分担して、「倭国」の政治・経済の監視を行ったのでないかとの説がある。
 一方奴国は3世紀になると春日丘陵の環濠集落は解体し、ナ国首都の須久遺跡も次第に衰退して、奴国は大きく転換した。即ち、同じ奴国ながら博多湾に近い「儺」のクニの那珂・比恵遺跡、博多遺跡群、西新遺跡の御笠、御原、那珂川流域に移動した。3世紀になると他地域特に畿内系の土器が目立ち、ヤマト王権との関係深まりを示唆する。
 初期の古墳規模も、北部九州は吉備に次ぐ大形の前方後円墳を築き、御笠の原口古墳儺の那珂八幡古墳は纏向型であり、箸墓に近い規模で、かつ三角縁神獣鏡写真)も副葬され、ヤマト王権に繋がって行ったと見られる。
Photo  しかし、
3世紀後葉になると、伊都国の三雲遺跡も衰退し、海岸部には畿内系土器を出土する集落が出現し、「粕屋」、「胸肩」(宗像)のクニが次第に力を付け始めている。「倭国」内の4世紀も含めた前方後円墳は21基に及びヤマトに次いで多く、三角縁神獣鏡を持つ古墳が7例もあり、ヤマト政権からの評価は保持していた。

 4世紀前葉頃になると、北部九州最大の前期前方後円墳で三角縁神獣鏡7面と獣帯鏡1面を副葬した苅田町・石塚山古墳(120m)が築造されている。周防灘に面した「豊」の国にある「(ミヤコ)」だ。この頃から、半島との外交・交易ルートに変化があり、半島から直接響灘に入り関門を抜け瀬戸内に入るルートに変った。そして、石塚山古墳こそ、伊都国の大率権力を奪ったヤマト王権の派遣した大率のものでないかと思わせる。即ち、九州倭国の衰えの兆である。

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2011年7月11日 (月)

「鷹の祭典」を見に行った

 今福岡はマツリの真っ最中。櫛田神社の博多祇園山笠である。1日から15日まで博多の町が7区画に分かれ(七流れという)七か所に飾り山笠を設置する。最終日15日早朝(4時59分スタート)で櫛田神社内で一定区間をカキヤマが競争し、フィナーレとなる。その間、練習のためのカキヤマ慣らしが行われ、町中が祭り気分となる。現在は博多以外にも福岡市内に上記7番以外に飾り山が設置されている。

Photo  これに合わせ、ホークスは試合を「鷹の祭典」と銘打ち、「青色」のユニホームで、試合も祭り気分を盛り上げている次第。昨日は対ロッテ3戦目。摂津が粘りのピッチングで、小久保も打って、4-0で快勝(?)したので、写真の如くドームの屋根を開けた。開ける前に花火を上げ、藤井フミヤも来場し、グラウンドで「勇者の翼ひろげ」を熱唱してくれた。

Photo_2   球場入り口には写真の如くミニ飾山も作って、祭り気分を盛り上げている次第。でも、球場は勿論、周辺駐車場は満杯で、出庫に約1時間を要した。

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2011年7月 8日 (金)

倭国の興亡44: [異説] 邪馬台国連合諸国の成立譚

 「日朝関係2000年」の著者澤田洋太郎氏は邪馬台国連合諸国の由来を次の如く説く。
奴国:天孫降臨神話を持つ大伽耶から、北部九州沿岸域に根拠を持つ安曇海人族が、天神族の渡海を助けて北部九州へ渡来し、当時の倭国の中心・奴国を作った。更に一部は南に移動して初期邪馬台国を形成した。甘木の平塚川遺跡は5重の環濠集落を残し王国連合の中心地にふさわしい条件を備えている。
卓淳国神湊(玄海町)を根拠に往来し、この地へ伽耶族を運んだのは、宗像海人族である。少し東の遠賀川流域には百済の沸流王を祖とする物部氏がいた。又海の守護神を祀る宗像大社がある。宗像海人族は最初、東松浦半島に末廬国を建てた。宇木汲田・桜馬場遺跡が小王国の存在を示唆している。又、宗像氏は有明の筑後河口に弥奴国を建て、水沼君がその王であった。
大山祗(オオヤマツミ)河野・越智海人族の根拠地である大三島に祀られている。ここは5世紀末百済の王族・斯痲(シマ)(武寧王)が来たとされる。投馬国の所在地とする説もあるが、一般的には投馬国は不弥国の南で、日向の「妻」にあったとされている。
多羅:半島南部の多羅は古代精銅・製鉄の地であり伽耶六国の一つ。ここは新羅系の地と思えるのは六伽耶滅亡後、新羅が大耶州(大良)をおいて重視したからである。多多羅(製鉄炉)や多々良(福岡)の地名は多羅人が倭人に教えた製鉄が関係し、景行(オオタラシヒコ)息長足姫(オキナガタラシヒメ)などの人名は多羅からの渡来人の子孫であろう。博多湾には伊都国である糸島があり、前原地区に三雲遺跡がある。また、内陸の香春(カワラ)は銅の精錬が行われ、新羅の渡来者が住んでいたと「筑前風土記」にある。
安羅:半島南岸で、出雲地方への渡来は当然であろう。新木・足立の姓が多いのは安羅人の移住によることを示唆し、武蔵の足立や荒川の地名も関係があろう。
狗邪韓国:金海にあった金官加羅国または駕洛国で金首露王降誕の地。肥後にあったとされる狗奴国狗邪韓国からの渡来人が建てた国と考えられる。強大であり、邪馬台国連合と対立したため、邪馬台国が移動したとの説もある。

 これら邪馬台国連合は、当初1~3世紀甘木に邪馬台国が存在し、末廬、伊都、奴国は北部九州に、不弥国は宇美にあったであろう。しかし、卑弥呼死後の「倭国大乱」で狗奴国との抗争を繰り返し、邪馬台国は東部へ移動し宇佐市辺りに落ち着いた。日田市周辺の弥生中期大規模な遺跡群や猿田彦に因む遺物があることから、「記紀」は「甘木の高天原からの脱出・逃避行」を天孫降臨神話に仕立て上げたという。

 尚、神武東征は、卑弥呼死後立った男王が筑後川河口の近くの三潴の狗奴国の王であって、狗奴国の一部宇佐津彦とともに脱出し、京都郡にいたニニギの子孫や物部氏系と共に、遠賀川河口で宗像水軍に支えられ東進し、吉備勢力を合流し、河内に進出して、大和で覇権を有した物部氏に迎えられ大王位についてミマキイリヒコと呼ばれるようになった。
 物部氏の三輪山ホケノ古墳は木郭が発見されており、魏志の記述(=半島式古墳は木郭がないとする)と異なることから、この地が邪馬台国でないことは明白である。

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2011年7月 5日 (火)

梅雨も中休み

 梅雨入りが早かったのに、梅雨明けはまだ先のようである。福岡では梅雨は祇園山笠が終わるまで(7月15日)というのが常識。今年もそれまで続くかな。
Photo  今日は梅雨も中休みで、朝から青空になっている。例年、梅雨のさなかに色鮮やかに目につくのがこの花。ノウゼンカズラ(凌霄花)である。凌はしのぐの意、霄はそらの意で、天空を凌ぐところから付いた名前だそうだ。名の通り、この木は長寿で幹も太く、丈は4m位にもなる。梅雨時期に鮮やかに咲いて綺麗だが、あまり多く植わってないのは大木になることや花がたくさん散るのが嫌がられるのかも。中国原産で平安時代に渡来したそうな。薬にもなるそうだ。バックが白壁の所に蔓が垂れて撮りやすかったので撮ったもの。

Photo_2  下図は紫陽花だが、額アジサイにしては、中心部も咲いているような感じで珍しいので撮った一枚。

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2011年7月 3日 (日)

倭国の興亡43: [異説] 「卑弥呼は神功皇后」論

 書記には卑弥呼や邪馬台国は出てこない。が、倭人伝を知っていた編者は、卑弥呼を神功皇后にすり替え、邪馬台国は神功皇后紀の参考記載に留めた。
 古来、卑弥呼は神功皇后、倭姫命との同一論が多く、議論百出しているところであり、古代史の謎の部分であるので、その概要を以下略記する。
 第10代崇神天皇(実在したとされる初代天皇)が邪馬台国を建国し(93-103年)、垂仁(11代)、景行(12代)、成務(13代)、仲哀(14代)らが78年間治め、その後、神功皇后(女王)に権力を奪われた後、120年間王統が断絶する。この神功皇后こそが卑弥呼である。
Photo  神功皇后の出自は駕洛国(金官伽耶:半島南端の国)の始祖の初代金首露王の第一王女、妙見王女であり、「三国遺事」(韓国史書)では細烏女(セオニオ)説、「古事記」では息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)、「日本書紀」では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)の名で登場している。(図は神功皇后木像
 171年、神功皇后は敦賀へ渡り、仲哀天皇と結婚。仲哀は神功を第3の妃としたが、これは分裂しつつあった原住倭人を懐柔するためであった。神功は船団を率いて南下、下関に半年滞在し東九州を占領。博多地方を掌握、松浦へと進み、伽耶の分国である邪馬台国女王となった。そして熊襲征伐の後、仲哀に新羅征伐を要請。これを拒んだ仲哀を暗殺し、阿羅伽耶戦闘と南江流域の戦闘に参加した。これが「新羅征伐説」を生んだのである。没年247年、在位69年間。
 以上が「卑弥呼は神功皇后」論の概要で出自や在位年数など仔細な点の違いはあるものの基本的に賛同する人は多い。唯問題点は神功の子・応神が就位するまでの120年間のブランクである。応神は渡来人であるとされているのが通説であるが、神功が実質女王でありながら皇后にとどまったのは、両者が伽耶王族の出自であることと関係する隠された事実が存在するとされている。

 荒唐無稽な話のようだが、この時代、まず半島南部の伽耶地方と九州北部の間では、人の行き来が多く国境という感覚が未だ出来てないこと、同じ弥生人としてかなり血の繋がりが濃く、全く同じと言っていい天孫降臨神話を持つ両国は、新羅、百済から、同じ倭人呼ばわりされたいたことを考えると、ありえない話ではなく、事実をもとにしている可能性も強い

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2011年7月 1日 (金)

雨に打たれて花も・・・

Photo  昨日午後から降り出した雨は今朝まで降り続き、ウオーキングに出る直前ようやく止んだ。朝6時、いつもなら陽も昇っているのに、今日は雨雲が覆い、ご覧のように街灯だけが輝いていた。

Photo_4  昨日来の雨に打たれて、折角の花々も傷つき、うち萎れていたが、そんな中でも雨にも負けず咲いている花。ランタナ。最近よく玄関脇に植えられているので、目にするが、これは雨に強いのか、怯まずに咲いていた。この花、最初黄色だが、段々橙色になり、最後は赤くなる。よって、七変化とか、コウオウ花(紅黄花)とも云うそうだ。(写真は薄暗かったのでフラッシュにより色が抜けた)。

Photo_3  次に元気だったのがこのルドベキア(キク科)。この花は公園の花壇にあり、結構長期間咲いているが、未だに雨ニモマケズ咲続けていた。

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