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2011年6月24日 (金)

倭国の興亡41: 邪馬台国九州説

 前々回、邪馬台国纏向説が台頭してきたことを述べた。しかし、論拠となる決定的な遺跡や物的証拠が出土したわけではない。そこで今回は今でも意気軒昂な最近の邪馬台国九州説について紹介する。
 近畿説が採る邪馬台国東遷説について、正史の「日本書紀」には邪馬台国や卑弥呼の存在さえも記載されていない。即ち、邪馬台国ヤマトに発生した王権とは全く関係のない存在だったのである。
・1~2世紀の頃、日向を少人数で出奔し大和盆地に来た人物(神武)がいた。
・8代崇神天皇は三輪地方も支配下に入れ、大和を統一した。
・孫の10代景行天皇は南九州から関東まで勢力を伸ばした(北九州には入れず)。
・その孫の12代仲哀天皇は神功皇后と共に熊襲征伐に筑紫に下り、北部九州も傘下にいれ、統一国家ができた。とする建国物語が日本書紀にあるだけである。
 一方中国の史書『魏志倭人伝』に初めて「邪馬台国」に都する倭国王『卑弥呼』の記事があるが、3世紀半ば卑弥呼死後、邪馬台国の記事は中国史書に出てこない。以上からは、邪馬台国が九州にあったことを否定する根拠は皆無である。

 それ故、改めて邪馬台国九州説の論拠を挙げよう。
.前回記述通り、『魏志』「倭人伝」の記述は絶対に間違っていないとするのは盲信。事実は特に所在地に関しては方位、距離とも殆ど信用できない
.邪馬台国が当時の列島で一番進んだ強力なクニであったと思い込んでいること。邪馬台国は単なる九州北部地方の部族的クニの一集合体だったのである。
.畿内説は当時発展したクニが機内に存在したことを論証しているが、それが「邪馬台国」であるという論証が一つもない
.倭人では卑弥呼の塚は(円形で)径百歩(150m位)とするに対して、箸墓は後円部だけで160m、全長280mの広大な墳墓であり、卑弥呼の墓と証拠立てるものが一つもない
築造年代が卑弥呼が248年没したとするに対し、出土土器270~280年代のもので、年代が合わない。最近はC14測定法にも疑問符が打たれる。
.卑弥呼がもらった銅鏡100枚の「三角縁神獣鏡」はすでに400枚以上出土し、中国製は少なく、殆ど国産である。証拠にならない
.もし纏向が邪馬台国であれば、大和朝廷がこれを滅ぼしたことになるが、魏との壮大な交流を行っていた筈のヤマト朝廷の記録として残っていないのも不思議である。

 このように、邪馬台国は筑後、豊前などに存在し、肥後あたりに狗奴国があったとするほうが余程自然であり、大和朝廷北九州に支配を及ぼしたのは邪馬台国時代より1世紀あとの4世紀に入ってからである。纏めると、
.この当時の畿内の弥生集落に、後に王権へ発展する要因が希薄なこと
.畿内諸遺跡から出土する鉄製品が少なすぎる(戦いに不可欠の鉄製武器が殆ど出土しない)。また、大陸との交易品がもっと出土すべきである。尚畿内は、長老制による祖霊信仰が主で、北部九州のような首長制になるのは3世紀以降だ。
.邪馬台国にはイト国の影響が大きく一大卒を置いている。イト国とは近しい関係でなければいけない。

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