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2011年6月28日 (火)

倭国の興亡42: 東アジヤ情勢と卑弥呼の外交

 卑弥呼が倭国の女王となった3世紀初め遼東は公孫氏の統治下にあり、楽浪郡を支配下に置き、帯方郡を設置した。消滅寸前の後漢朝に依存したイト倭国が衰亡し、これに変わった新倭国は当然公孫政権を選んだ。しかし、倭国と公孫政権の外交記事全く残っていない。公孫氏の下賜品は雑多な後漢式鏡であり、3世紀初めも依然として北部九州を中心とし、近畿から一部、北陸や東国からも出土し始めている。それは楽浪系土器や陶質土器などの舶来品や鉄器生産依然大卒が置かれた伊都国を通して供給されつつ、次第に畿内に移り変わる状況とも見合い、伊都国を窓口とした新倭国の入手した鏡である。
Photo  中国本土では魏・呉・蜀が鼎立し、公孫氏は魏と呉の抗争に翻弄された。公孫淵4代となった翌229年魏の呉王だった孫権は独立し皇帝を名乗り、公孫氏に寝返りを求めた。公孫淵は孫権に上表文を奉呈し燕王に冊封されたが、魏に寝返り大司馬・楽浪公に叙任される。疑心をもった魏は蜀漢との戦線が好転すると同時に公孫淵を攻め233年公孫氏は滅亡した。

 卑弥呼が魏に遣使朝貢したのは翌234年だった。魏が中国の門戸である楽浪・帯方郡が復活したこともあったが、魏への服従がヤマト政権の唯一の延命策だったのである。もっとも魏にも倭との君臣関係が必要だった。当時倭国をのとおり、北部九州の南に伸びた島国と認識し、呉を背後から脅かすこの上ない勢力と期待し、倭人伝のとおり万戸を超える大国の集まりとの認識があった。まさに近攻遠交策で、外蛮にしては破格の「親魏倭王」金印紫綬まで授け封冊し、軍事的てこ入れまでしたのである。
 そこには北部九州を中心に数世紀にわたる外交ノウハウが間違いなく伝授されていた。

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