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2011年6月16日 (木)

倭国の興亡39: 前方後円墳の出現とヤマト政権の系譜

Photo  纏向には箸墓古墳に先立ち3世紀前葉から後葉にかけて、前方後円墳の原型とみられる「纏向型」とも呼ぶべき後円部に比し前方部が小さい古墳が6基造営された。(図は纏向古墳群)。同様の小型の「纏向型」古墳が、3世紀後葉から4世紀初めににかけ、鹿児島から北は福島までヤマト王権共立に加わった王たちの墳墓が点在する。特に中・東部瀬戸内や北九州には集中する。
 この「纏向型」前方後円墳の原型は吉備の楯築墳丘墓であるといわれる。円丘部径と突出部長の比が2対1であり、突出部1つ外せば「纏向型」にそっくりなことや首長霊継承儀式を直接引き継いでいることがその理由である。
Photo_3  この墳墓は中国の思想「天円地方(後円部=天、方丘部=地)、陰陽説、神仙道教的思想」を日本的にアレンジしたものであり、新生倭国の遣使が洛陽で武帝即位の祭祀(266年)でみた巨大な南円北丘での儀式が、この後の前方後円墳の巨大化に影響したとの説もある(図は箸墓古墳)

 この纏向に誕生したヤマト政権の権力母体は、九州王権でも、近畿の部族国家連合でもなく、筑紫、吉備、播磨、讃岐や出雲、近畿の1勢力の連合政権であり、纏向型墳丘墓が楯築墳丘墓が原型となっていることから、キビ国とその国家連合が主導権を握っていたとみられる。
 尚、纏向にあるホケノ山古墳は箸墓古墳に先行し3世紀中頃の築造であり、竪穴式石槨がうまれる直前のもので、瀬戸内中・東部地域との深い関係を示している。又、三角縁神獣鏡は副葬されず、画文帯同向式神獣鏡2面が足元に副葬されていた。首長霊継承の秘儀が引き継がれ一層の整備がなされた形跡がある。被葬者は卑弥呼側近の有力な男王との見方もある。

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