« 政界の梅雨明けはいつ? | トップページ | 梅雨も終末に近いか »

2011年6月20日 (月)

倭国の興亡40: 『魏志』「倭人伝」の真偽

 宮崎康平氏の「まぼろしの邪馬台国」が火をつけた邪馬台国論争は「魏志倭人伝」の読み解きでは解決できず、又最近飛躍的に進展した考古学的見地からも、九州論と纏向論に割れたままである。邪馬台国論争は、大方の方がご存じなので、詳説は避けるが、非常に大雑把な概要だけを今回記しておきます。

 魏志倭人伝は、中国の魏、呉、蜀三国の歴史を書いた『三国志』のうちの『魏書』の最後の30巻「烏丸鮮卑東夷伝」「東夷伝」「倭人の条」のことを言う。
 編者は陳寿(233年生)で、この三国志が完成したのは西晋の太康年間(280~290年)。この間陳寿は一度も洛陽を出ていない。従って倭国に関しては過去の資料や入貢者等からの伝聞をもとに記述したもの。倭が朝貢した頃、魏の権力者曹真が西方の大国「大月氏国」に「親魏大月氏王」の称号を与えたのに対抗し、魏の重臣司馬氏も遼東から朝鮮に勢力を持っていた公孫氏を破り、その東の『邪馬台国』と国交を持っておるので、対抗上、大月氏に匹敵する大国とする必要から、『邪馬台国王』に対し「親魏倭王」の称号を与えたといわれる。又蜀の出身ながら魏に敗れ、のち司馬氏の興した西晋に仕えた陳寿は、魏書編纂時、憎き大月氏国を省き、代わりに東夷伝に「倭人の条」を加え「邪馬台国」を載せたという。
Photo  このような背景で書かれた倭人伝だから、可なり誇張されたものになっている。
 魏志倭人伝は約2000文字で書かれ、倭国に存在する30余国の方位や距離、人口、倭人の生活習慣、衣食住につきかなり詳しく著述している。
 問題なのが邪馬台国の所在地図は倭人伝で所在場所を記述した部分)である。佐賀の伊都国・奴国まではほぼ正確であるが、それ以降の諸国の方位も距離も全く信用できない。まず日本列島を半島の南にある南北に細長い島と考えていた節がある。だから、漢や魏時代の中国では、邪馬台国の所在は不明であったろうと考える。
 即ち倭人伝から邪馬台国又は倭国の王都を探ることは不可能とみるべきだ。尚、日本の正史ともいうべき「日本書紀」には邪馬台国及び卑弥呼は一切記載していない。これはヤマト王朝を正統とするもので、邪馬台国九州に存在した単なる部族小国家連合であり、漢書、魏書、或いは隋書に記載されているのはその九州倭国で、6世紀ごろヤマト王朝に滅ぼされたとするものであろうか。

|

« 政界の梅雨明けはいつ? | トップページ | 梅雨も終末に近いか »

古代史、邪馬台国」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/534272/51995636

この記事へのトラックバック一覧です: 倭国の興亡40: 『魏志』「倭人伝」の真偽:

« 政界の梅雨明けはいつ? | トップページ | 梅雨も終末に近いか »