« 空に鯉、池に鳥 | トップページ | 野山が萌える »

2011年5月11日 (水)

倭国の興亡30: 倭国争乱と高地性集落

 今回から列島内の話に戻る。前1世紀~後1世紀中頃(弥生中期~末)、環濠集落は防御的性格を強め、東へ広まった。近畿地方では環濠は水を溜め、は空堀)を何条も巡らした大規模な環濠集落を形成し、奈良盆地・河内平野では「環濠帯」を持つ巨大環濠集落も珍しくない。中でも唐古・鑓遺跡は環濠帯を含め30万㎡と、近畿最大の環濠集落へと拡大した。壕の底に逆茂木や乱杭を置き、防御性を高めたところもある。東日本でも中期後半には環濠集落が目立ち、方形周溝墓を持つ環濠集落(歳勝土遺跡)は第二次弥生文化の波及といえる。

Photo  左図は1次高地性集落分布図である。この頃になると、瀬戸内海沿岸部から大阪湾にかけて、高地性集落が現れる。これらは小高い山頂や丘陵上に作られ、明らかに防御性を第一としている。深いV字壕を巡らしたり、自然の要害を取り入れ、中世の山城と重なるものも多い。
 眼下の平野や海上が見渡せることや、狼煙(ノロシ)を挙げて見通せる場所が高地性の要件である。これは異常なまでの緊張が高まった弥生中期から後期への激動期を鮮明に伝えている。第一次高地性集落は紀元前後の北九州のナ国やイト国独自の海上監視システムでないかといわれる。次いで弥生後期の第二次高地性集落は一次とほぼ同じものや、それとは別の平野の奥や盆地に出現し、奈良盆地や南河内平野にまで広がり後期末(2世紀末)には北陸や東海地方にも広く認められる。
 一次高地性集落の形成は過去には、後漢書にいう卑弥呼共立前の「倭国乱」を示すものとされたが、現在は否定され、守る側の連絡網であり、防御の前線基地であったとする説が強くなっている。実際には北部九州と瀬戸内、近畿の間での戦闘の痕跡はない。未だ高地性集落の形成・存続に関する定説がない
 瀬戸内沿岸の情報ネットワークがリンクされ、結果的に瀬戸内から淀川を遡って東に向かう交通を一気に盛んにし、瀬戸内ルートの物流を促進したものと云われている。

 

|

« 空に鯉、池に鳥 | トップページ | 野山が萌える »

古代史、邪馬台国」カテゴリの記事

コメント

高地性集落が防御性を第一義にしているとの指摘は、納得させられました。
この発想が、その後のお城の造りの考え方に繋がっているんでしょうね。
ところで、集落は食料を求めて移動して出来上がっていったと何かで読んだ記憶がありますが、高地性だと畑を作って自給してたんでしょうか?また、この時代は海の側の集落は発展しなかったのですか?
もしかしたら年代が前後してるかもしれませんが・・・・。

投稿: Y | 2011年5月12日 (木) 10時37分

 Yさんへ。大変ポイントをついたご質問です。この時代、狩猟生活から、農耕を主にした定住生活に変わり、農地や収穫物の貯蔵保管など、集団が保有するものが生まれ、それを奪われないように、かつ合理的に生産、加工、保存などのため、社会性がうまれてきて、集落の防御が重要になった。即ち戦争がよく起こり、それゆえ集落が共同しより大きな、より強い集団へと成長の過程です。勿論、海浜周辺の多くの部族国家がありました。
 尚、高地性集落はなぜ出来たのか、その役割、など未だ確定した説が確立してません。議論が多く、定説ができるまでまだ時間がかかりそうです。

投稿: 山猿 | 2011年5月13日 (金) 09時08分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/534272/51640600

この記事へのトラックバック一覧です: 倭国の興亡30: 倭国争乱と高地性集落:

« 空に鯉、池に鳥 | トップページ | 野山が萌える »