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2011年5月25日 (水)

倭国の興亡33: 倭国誕生と朝貢の開始

 北部九州に発生した武力・財力面で抜きんでたナ国は、半島との物流・人的交流でさらに強大な”国”として、中国冊封体制に入るべく漢の出先機関である楽浪郡を通じて、朝貢を始めた。このことは中国の史書の記録に残っている。
 『漢書』「地理志」「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす。歳時を以て来たりて献見す」とある。『後漢書』には○「建武中元(57年)、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。(中略)光武、賜うに印綬を以てす。」(東夷伝、倭の条)。○「中元二年春正月辛末、東夷の倭の奴国王、使を遣わして奉献す」(光武帝紀)とある。江戸時代、志賀島で発見された「漢委奴国王」の金印がこの後漢書記載の印綬にあたるというのが通説で、有力な物的証拠とされている。但し、これが偽物だという「贋物説」もつい最近発表されている。
 また同じ後漢書・東夷伝「安帝永初元年(107年)倭国王帥升等、生口百六十人献じ、請見を願う」とあり、生口(捕虜)を160人献じたとある。
 尚、帥は師の誤りであり、師は中国の姓であり、姓をを名乗るのは中国或いは関係ある半島人であり、帥升は上述の奴国王とともに渡来した、もしくは渡来人と関係深い人物であると吉田孝氏は著述されている。
Photo  金印の「委奴国王」をどう読むか。イ(委)ト(奴)国説もあるがこれは日本語読み。北宋刊本『通典』で帥升を「倭面土国王」としているのを「ヤマト王」「イト王」「マト(末廬国)王」などとする説もあるが、このような国名は実在しない。
 中国では新朝の後の後漢は、楽浪郡を中心に東方経営に力を入れた頃で、半島の首長達が銅印下賜であった中、「倭」国との友好関係を重視しての「金印」下賜という環境に恵まれて、ここに夷蛮のクニから「倭国」が誕生した。
 尚、倭国はイト国とナ国の連合体で、その所在地は当時の王墓の規模や、副葬品の突出した量と内容から、福岡前原市・井原鑓溝遺跡が最も相応しいといわれている。尤も、当時の「倭国」地理的範囲は北部九州、対馬、四国西南部とする説があるが、当時は現在の国境の概念は通用せず、半島南部と九州北部を含む範囲一帯を指していたとするのが、小生の持論である。

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コメント

この金印の偽物説は興味深いですね。
しかし今の福岡の志賀島を知る人からすれば、何故こんなところから出土したのか、不思議に思うでしょうね。
ところで、今日の新聞に縄文時代のノコギリクワガタの化石が発掘された記事が載ってましたね。
ここからまた古代の謎が解き明かされていくのでしょうか?
不思議は尽きませんね。

投稿: Y | 2011年5月25日 (水) 14時41分

 金印真贋説も種々ありますが、最近の偽物説は、字の彫り方がこの時代の他国へ下賜され字の彫り方とくらべて、異なっており、後世の作であるというものです。材質とか形状とかの議論はクリアして居るようですが、字の彫り方と言われれば、なんとなく説得性がある感じもします。

投稿: 山猿 | 2011年5月26日 (木) 09時26分

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