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2011年5月

2011年5月31日 (火)

梅雨時期に目立つ花

 今日は久しぶりに青空が出た。梅雨間の晴れかと思ったら、福岡は未だ梅雨入りしてないという。福岡以外の九州、中国地方、近畿地方は梅雨入りしているのに、なぜだろう。多分半島からの風のせいで、梅雨前線が足踏みしているせいかな。梅雨入りは6月4日頃の予定とか。

 久しぶりに雨が止んだので、いつもの運動公園を通り抜けてのウオーキング。公園で、見たことがない花が今咲き始めた感じのが目に付いた。近づいてみると、両方とも非常に細い「オシベ」沢山出している。早速カメラに納めて、インターネットで調べたので、ご披露します。

Photo  これは、金糸梅(キンシバイ)という。オトギリソウ科。開花期は6/1-7/15。中国原産で1760年頃渡来した由。いっぱいある黄色のオシベを「金の糸」に5弁の花を「梅」にたとえての名前だそうだ。随分昔からある訳だから、私が知らなかっただけであろう。

Photo_3

 これは、下野(シモツケ)という。バラ科。昔下野国(栃木県)で発見されたので、この名がついた。開花期は6/1-8/10頃。小さな花が一杯寄っているので、オシベも、これは短いが一杯出ている。どうですか、平安時代からあるそうですが、こんな花をご存知でしたか。

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2011年5月29日 (日)

倭国の興亡34: 青銅祭器の変貌と王権の萌芽

Photo_3  北部九州のイト国が主体となって、先進技術や資材を得て強大化した”倭”国と緊張関係にあった1~2世紀のその他のクニグニでは、カミの依り代マツリとマツリの主催者の担う役割が変化してゆく。
 瀬戸内から近畿にかけての銅鐸文化圏では従来の30cm程度の小型銅鐸が大量埋納された後、銅鐸の呪力をさらに強化するため、40cmの中型、さらには50~80cmの大型になり、中には図示の滋賀・大岩山の近畿式銅鐸のような134.7cmのものもある。
 これは、中期の銅鐸が豊穣を祈るマツリの呪具であり、小共同体の保有で、あったのに対し、後期にはクニや国の規模で保有され、クニや国を守護するカミの依り代となって、大地に埋めることにより外部の敵を呪禁するカミに変貌したのである。即ち、北部九州の銅矛や銅戈型祭器と同じ役割を担ったのである。さらに、一歩遅れて、三河や遠江には三遠式銅鐸が創出され、政治的緊張がさらに東へ波及したと寺沢氏は主張されている。

Photo_2  尚、青銅祭器の埋納も、近畿地方はムラやクニのない辺境地帯に集中し、境界を呪禁する様相を見せる。ところが、弥生後期イヅモや中部瀬戸内では1世紀中頃の大量埋納後は青銅祭器を捨て去り始めた。そして図のような鳥取の四隅突出型方丘墓と突出部を持つ円丘墓(中部瀬戸内)の整備と巨大化が彼らのカミの依り代となった。

 マツリの演出者シャーマンや主催者首長の性格も変わった。悪霊と戦い踊る呪術師的なシャーマンは消え、ひたすらカミと交信し、信託をカミの代行者オウに伝え、オウが民衆に伝えることになった。卑弥呼の姿に近づくのである。オウは、カミの代行者として、カミを管理するものとしての性格を強く帯び始める。オウが神を体現できる人格として民衆の前に立つ、即ち王権の芽生え始めであった

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2011年5月27日 (金)

梅雨に入った

 昨日、福岡地方は梅雨に入ったと気象庁の発表があった。既に三日ほど前から雨が降り続いているので、今年は随分早い梅雨入りである。(例年6月10前後)
Photo_2  梅雨というと、毎年柿の花が雨に叩かれて、かなり落花する。これは富有柿の花であるが、ご覧のとおり小さな花がたくさん付く。雨で随分散っても、柿の実は毎年沢山付く。自然の摘花作用なのかも知れない。熟柿になったら、カラスが始末してくれる。

Photo_3

 これは民家の庭先で咲いているものだが、ノイバラの一種。今バラは花盛りだが、大輪のバラは雨に弱いらしく、花ビラが傷んでしまう。その点、この小さなノイバラは強いのか、全然痛まず咲き続けている。雨天に非常に鮮やかに感じる。

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2011年5月25日 (水)

倭国の興亡33: 倭国誕生と朝貢の開始

 北部九州に発生した武力・財力面で抜きんでたナ国は、半島との物流・人的交流でさらに強大な”国”として、中国冊封体制に入るべく漢の出先機関である楽浪郡を通じて、朝貢を始めた。このことは中国の史書の記録に残っている。
 『漢書』「地理志」「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす。歳時を以て来たりて献見す」とある。『後漢書』には○「建武中元(57年)、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。(中略)光武、賜うに印綬を以てす。」(東夷伝、倭の条)。○「中元二年春正月辛末、東夷の倭の奴国王、使を遣わして奉献す」(光武帝紀)とある。江戸時代、志賀島で発見された「漢委奴国王」の金印がこの後漢書記載の印綬にあたるというのが通説で、有力な物的証拠とされている。但し、これが偽物だという「贋物説」もつい最近発表されている。
 また同じ後漢書・東夷伝「安帝永初元年(107年)倭国王帥升等、生口百六十人献じ、請見を願う」とあり、生口(捕虜)を160人献じたとある。
 尚、帥は師の誤りであり、師は中国の姓であり、姓をを名乗るのは中国或いは関係ある半島人であり、帥升は上述の奴国王とともに渡来した、もしくは渡来人と関係深い人物であると吉田孝氏は著述されている。
Photo  金印の「委奴国王」をどう読むか。イ(委)ト(奴)国説もあるがこれは日本語読み。北宋刊本『通典』で帥升を「倭面土国王」としているのを「ヤマト王」「イト王」「マト(末廬国)王」などとする説もあるが、このような国名は実在しない。
 中国では新朝の後の後漢は、楽浪郡を中心に東方経営に力を入れた頃で、半島の首長達が銅印下賜であった中、「倭」国との友好関係を重視しての「金印」下賜という環境に恵まれて、ここに夷蛮のクニから「倭国」が誕生した。
 尚、倭国はイト国とナ国の連合体で、その所在地は当時の王墓の規模や、副葬品の突出した量と内容から、福岡前原市・井原鑓溝遺跡が最も相応しいといわれている。尤も、当時の「倭国」地理的範囲は北部九州、対馬、四国西南部とする説があるが、当時は現在の国境の概念は通用せず、半島南部と九州北部を含む範囲一帯を指していたとするのが、小生の持論である。

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2011年5月23日 (月)

放射線の受容限界

 連日のごとく放射線量の話が出るが、被曝量とその危険度をよく知らなかった。そこで、調べてみました。折角だからご参考にここにも記載しておきます。

 まず、線量の単位シーベルトとは:放射線防護の分野で使われる単位。人体が吸収した放射線の影響度を数値化した単位で、表記は「Sv」
 他に、グレイ、レントゲン、ラド(1グレイ=100ラド)、レム(0.01シーベルト=1レム)がある。

 次いで、放射線レベルとその障害
      実効線量(単位:ミリシーベルト)    内訳
 0.05     原発内の事務所境界での1年間の線量
 0.1-0.3  胸部X線撮影1回分の線量
 
1        一般公衆が1年間曝されてよい人工放射線の限度
 
2.4      1年内に自然環境から人が受ける放射線の世界平均値
 4        胃のX線の撮影1回分の線量
 7-20     X線CTによる撮像1回分の線量
 
50       放射線業務従事者が1年間曝されてよい限度  
 
100      人間の健康に確立的影響が出る線量の最低値
 250      白血球の減少             Photo_2
 500      リンパ球の減少
 
3,000-5,000   50%が死亡する
 7,000-10,000  99%の人が死ぬ
 尚、上記は
外部被曝の場合ですが、内部被曝といって飲込んだり、吸込んだりでの被曝もあります。
 又
自然被曝と言って、本人の自覚に無関係に、天然に在有する微量放射線により被曝します。宇宙線から年間ほぼ300マイクロシーベルト地殻、建材などから年間300マイクロシーベルト。以上自然から年間約600マイクロシーベルトを受けている。そして、体内で年間約250マイクロシーベルト受けており、他に空気中のラドンから年間400マイクロシーベルトの被曝をしているので、合計年間1000~1,250マイクロシーベルト(1-1.25ミリシーベルト)の被曝をしています。
 尚、上記グラフは放射線量とガン発生の関係図です。
しきい値とはこの線量以上の線量で発がんするという限界値のことです。発がんの危険性あるという下限値と思ってください。(グラフは毎日新聞より) 
 

     

 

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2011年5月21日 (土)

倭国の興亡32: 青銅器の隆盛と鉄器生産の飛躍

 紀元後、大陸・半島の戦乱に影響された列島、特に北部九州では、クニから国へと成長しつつある支配層はさらなる権力の拡大強化を図り、祭祀器や武器の導入、生産或いは分配を図った。
Photo  北部九州の殆どの地域で青銅器が生産され(鋳型出土)、中でもナ国中心部の須久遺跡(春日市)一帯は弥生最大の青銅器生産地だった。王墓出現の中期後葉には飛躍的な生産をし、百点を超す銅矛、銅鐸、鏡等の鋳型、坩堝、ふいご、銅・ガラスの滓など多数見つかっている。製品はここから各地やイキ、ツシマ国を介して半島南部まで及んでいる(写真は須久岡本遺跡)
 一方、瀬戸内以東の地域では弥生時代を通じてテクノポリス的遺跡はない。勿論、少量の原料調達から製造されたのもあるが、ごく小規模である。部族国家の規模や階級構造の重層化はナ国王の階級的位置や経済的富蓄積度とは、未だ格段の差があった。

 高地性集落の様相も、この後飛躍的に増加する鉄器の生産、流通に伴い様相を変え、恒常的な対外監視機能と防御性を帯びてきたとの通説がある。
 しかし、弥生中期から後期変革は鉄器の普及・流通によるとも言われるが、瀬戸内以東の鉄工具(鉄斧、鑿、鉋など)や武器(鉄鏃、鉄剣など)の増加も北部九州とは雲泥の差があり、北部九州との鉄器量の大差は王権誕生後の3世紀まで持ち越される
 尚、この時期東西流通ルートでは、瀬戸内ルートだけでなく、日本海ルートも注目される。鳥取県大山町と淀江朝に跨る妻木晩田遺跡、上寺遺跡で大陸製の鋳造鉄斧や鉄素材が大量出土し、イヅモ社会が盛んに鉄器生産を行ったことが明らかになった。これも壱岐対馬経由の交易とみられるが、近畿の首長が独自のルートを持った、或いは北部九州の鉄素材入手ルートが崩れたとみる説もあるが、考古学的には首肯する論拠はない。尚、このあたりの鉄に絡む神話が「出雲神話」であろう。

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2011年5月18日 (水)

濃淡のある花

Photo  上。バラ今頃は、薔薇と皐月が満開。
最近は大輪の、しかも艶やかな薔薇が多く民家の庭先が華やいでいる。しかし、大概花弁の色は均一であるが、通りがかりに、左図のような、花弁の色が濃淡に変化しているのを見かけた。展示会は別にして、普通に植えられているのにはあまり見かけないので撮ったもの。

Photo_2  皐月。これは鉢植えのサツキである。ツツジとサツキの区分けはできないが、ツツジは殆ど終わったので、今頃咲いているはサツキであろう。(サツキもツツジの一種だが)。この花も花弁に濃淡があった。これは多分愛好家の方であろう庭先に並んだ鉢植えの一つ。但し、濃淡のあるのこれだけだった。

Photo_3  山法師。これは濃淡に関係ない。唯山法師はなかなか花つきが悪いが、この木には沢山の花がついていたので撮ったもの。もしかして、山法師ではないのかな?

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2011年5月16日 (月)

倭国の興亡31: 半島との流通進展と分業進化

 国内争乱の緊張が高まる弥生中期末~後期初め(1世紀初め~後葉)に、半島と列島間の交易の南北ルートに加え、北部九州から瀬戸内、近畿を結ぶ東西ルートが加わった。魏志・倭人伝には半島・狗邪韓国と壱岐、北部九州との對馬国経由での交易が記されている。中国、朝鮮製の青銅器や鉄素材、ガラス素材、絹織物が壱岐や北部九州で、逆に倭製の文物が半島内で見つかることが恒常的な流通を裏付けている。
Photo  弥生中期以降には、一次高地性集落のネットに乗って、舶来品や鉄素材の物資や人が、瀬戸内ルートで東へ流通し、近畿を超えて、北陸、中部、一部は関東まで達している。その分布は環壕集落と一致する。
 但し、舶来品の量で、東部へ移入された量はわずかであり、瀬戸内諸国が北部九州に匹敵する量の舶来品を手にした形跡はない。尚、青銅器は自然銅の採掘がすでに列島内で始まり、後期以降青銅器は国内自然銅で賄った。
Photo_3  一方、土器や木器と違い、石器はその原料が限定されるので、クニ・国を超えて交易による入手の必要があった。サヌカイトは二上山、石包丁の緑色結晶片岩は紀ノ川や吉野川、粘板岩は丹波山系が供給地だ。玉生産に使う緑色凝灰岩や翡翠、碧玉は地方を超えて交易せねばならない。図は上からサヌカイト、黒曜石、ひすい。
Photo_6  ところが、北部九州ではさらに一歩進んだ共同体間分業前期後半から始まっていた。福岡・今山遺跡の玄武岩製石斧は完成品が九州一円に供給されている。イト国の繁栄やイト国王への権力集中は、こうした交換材の掌握による経済力であった。福岡・飯塚の石包丁が「嘉穂国」の経済的背景だったのも同じである。こうしたことから、舶来の鉄素材や鉄製武器なども、石器の流通システムに乗っていた可能性が高い

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2011年5月14日 (土)

野山が萌える

Photo_5  雨が上がり、爽やかな好天となった。辺り一面新緑に覆われ、朝のウオーキングもすこぶる気持ちがいい。
 今日は新芽を吹いている樹木の中で、ひと際鮮やかな黄緑色の若葉を付けている木を撮った。
Photo_6  上の木は(樟)。福岡市の木に指定されているように、楠は多い。勿論樟脳を採る木だから、葉っぱを千切り嗅ぐといい匂いがする。今花を付けているので、樹全体が黄緑色見える。下がその花である。

Photo_7  下の木は多分シラカシであろう。花に特徴がある。遠目には樟と変わらないが、近寄ってみると、葉の形状や花が違う。下がその花である。この木も公園には多く植えられている。
Photo_8  木もやはり花が咲く頃がいい。

 

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2011年5月11日 (水)

倭国の興亡30: 倭国争乱と高地性集落

 今回から列島内の話に戻る。前1世紀~後1世紀中頃(弥生中期~末)、環濠集落は防御的性格を強め、東へ広まった。近畿地方では環濠は水を溜め、は空堀)を何条も巡らした大規模な環濠集落を形成し、奈良盆地・河内平野では「環濠帯」を持つ巨大環濠集落も珍しくない。中でも唐古・鑓遺跡は環濠帯を含め30万㎡と、近畿最大の環濠集落へと拡大した。壕の底に逆茂木や乱杭を置き、防御性を高めたところもある。東日本でも中期後半には環濠集落が目立ち、方形周溝墓を持つ環濠集落(歳勝土遺跡)は第二次弥生文化の波及といえる。

Photo  左図は1次高地性集落分布図である。この頃になると、瀬戸内海沿岸部から大阪湾にかけて、高地性集落が現れる。これらは小高い山頂や丘陵上に作られ、明らかに防御性を第一としている。深いV字壕を巡らしたり、自然の要害を取り入れ、中世の山城と重なるものも多い。
 眼下の平野や海上が見渡せることや、狼煙(ノロシ)を挙げて見通せる場所が高地性の要件である。これは異常なまでの緊張が高まった弥生中期から後期への激動期を鮮明に伝えている。第一次高地性集落は紀元前後の北九州のナ国やイト国独自の海上監視システムでないかといわれる。次いで弥生後期の第二次高地性集落は一次とほぼ同じものや、それとは別の平野の奥や盆地に出現し、奈良盆地や南河内平野にまで広がり後期末(2世紀末)には北陸や東海地方にも広く認められる。
 一次高地性集落の形成は過去には、後漢書にいう卑弥呼共立前の「倭国乱」を示すものとされたが、現在は否定され、守る側の連絡網であり、防御の前線基地であったとする説が強くなっている。実際には北部九州と瀬戸内、近畿の間での戦闘の痕跡はない。未だ高地性集落の形成・存続に関する定説がない
 瀬戸内沿岸の情報ネットワークがリンクされ、結果的に瀬戸内から淀川を遡って東に向かう交通を一気に盛んにし、瀬戸内ルートの物流を促進したものと云われている。

 

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2011年5月 9日 (月)

空に鯉、池に鳥

 若葉萌ゆる五月。辺りが若葉に覆われ、空が碧く、陽射しが強くなってくると、世の中のすべてが「明るく」輝き、「成長」し、「栄える」自然の中で、なんとなく新たな「夢」や「希望」の湧いてくる季節の感じがして、年中で一番好きな季節である。

Photo  5月は端午の節句。月の端(ハジメ)の午(ウマ)の日だったのが、午(ゴ)が5となり、5月5日となった由。この辺りでは、写真のように(ノボリ)と鯉のぼりを立てる家が多い。本来は幟を立てたものだが、鯉は激流を上るところから、出生魚として、健やかな成長を祈る意味で立てられる。
Photo_2  又、菖蒲湯に入る習慣は、田の神を迎えるための禊の名残りとして入るのだそうだが、菖蒲は邪気を退け、魔物を払う薬草として軒に挿したり、菖蒲湯にした。江戸時代には「ショウブ」を「尚武」にかけて、武家では男子の成長を祈る祭りとしたそうである。

 下は、アオサギ。これはまだ若いようで、背中の羽の色が未だ濃い灰青色になりきっていない。一般に白鷺よりやや大ぶりであり、所作もなんとなく落ち着いている。尚、小生のホ-ムページ http://hihabe.com/ は立夏を過ぎましたので、俳句の項を更新しています。ご一覧ください。

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2011年5月 7日 (土)

倭国の興亡29:[異説] 古代、半島南部は”倭”だった

 前回、紀元前後、半島の南部に金首露王が降臨し、駕洛国(伽耶諸国)を興したとする神話を乗せた。しかし、この伽耶を当時の中国はどう認識していたか。
 中国古代の神話・地理志である『山海經』には「蓋国は鋸にあり、大燕の南、倭の北、倭は燕に属す」とある。鋸は河北省から山東省にかけて散在する地名であり、倭が山東省の南部にあったという。又『漢書』「地理志」では楽浪海中に倭人あり・・・・その位置は長安の北から60度東にあって燕の方向にある」と言っている。また楽浪郡は『史記』「太康地理志」では河北省ラン河と山海関の間のことだともいう。『後漢書』「郡国志」で、楽浪郡の南にあった帯方郡は遼東にあったと記している。
 これらの記録からすると、”倭”はもともと中国の華南・華中沿岸地帯に分布したが、漸次北上し渤海湾に達して真番と称した。秦・漢に追われ沿岸伝いに韓半島西岸に達して南真番となり、さらに南下し南韓沿岸に到達して、弁辰諸国に次いで加羅諸国を作り、後に対馬・壱岐・筑紫に到達したという。

Photo  歴史学者・井上秀雄氏は後漢・魏・晋時代は南韓に倭があって、中国人にとっては列島より確実な存在だったとする。『魏志』「弁辰条」では韓半島南部の倭は「倭又は倭種」といい、九州の倭は「倭人」陳寿が区別しているともいわれる。
 日本列島の「倭」は『宋書』「倭国伝」によって、「倭国在高麗東南大海中」と書かれた487年に初めて海外に知られたのである。即ち、5世紀末までの倭とは伽耶(駕洛(カラ)、加羅も同じ)を指していた。(図は3世紀頃の伽耶地域
 このように紀元初め頃から、中国でも、半島でも伽耶と呼ばれる小さなクニグニが散在した辺りを「」と呼び、九州北部も含め一つの種族「倭族」がいたと考えていた。勿論未だ国は形成されず、国境はなく、同一文化圏であった。項を改めるが、半島が倭国の宗家で、九州は分国、あるいはその逆を主張する学者もいる。古代天皇、景行、成務、仲哀、神功がタラシヒコ、タラシヒメ呼ばれるのは、タラ(多羅)の彦、姫であり、クダラは旧多羅であると云われる。
 

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2011年5月 5日 (木)

珍しい木と花

 博多どんたく港祭り(3、4日)は終わり、福博の町には日常の平静さが戻ってきた。毎年必ず雨に見舞われるが、今年は黄砂がひどかったものの、珍しく雨が降らなかった。これから、ツツジと藤の季節になる。日ごとに夏に近づく日々だが、農家の方が待っている雨が降らない。このままだと給水制限が実施されるという。

Photo  今日は名前がわからない木を紹介。これは近くの公園にある、高さ3mぐらいの木であるが、ご覧のとおり葉が薄紫の薄い若葉である。多分徐々に変化し、最終的には緑の葉になるだろうが、この薄紫状態が3週間ほど続いている。名前をご存知の方、お知らせください。

Photo_3

 次に、これは草花。民家の門脇の花壇に植えてあり、ご覧のとおり、花の真ん中が変わっている。これから順次花になってゆくのか、それともこのままの花なのか。初めて見る花である。園芸店でもこんな花を見たことがない。結構長期に咲いているようである。

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2011年5月 3日 (火)

倭国の興亡28: 倭が関わる新羅、駕洛国の建国神話

 今回の「新羅」、「駕洛国」とは地理的にも近いので、倭は深い関わりを持っている。
まず、新羅。「三国史記」の『新羅本記』によると、慶州の柳山の麓で、馬が嘶くので行ってみると、馬は消えて大きな卵があり、割ると幼児が出てきた。そこでこの地方の村長たちがこの子を育てた。これが新羅の始祖王・赫居世(ヒョッコセ)の生誕神話で、卵生神話は朱蒙と同じである。赫居世は「光明王」の意で、姓は「朴(パク)」という。即位5年、竜の腹から幼女閼英(アルヨン)が生まれ、長じて容姿端麗、仁徳のある女となったので、これを王妃とし、姓を「金」とした。
 新羅王朝の8代までは朴姓であるが、第4代王の「脱解
(タルヘ)」だけは「昔(ソク)」姓である。脱解王AD57年に即位したが、生まれが倭国の東北1千里(約500km)のところにある多婆那国但馬とか、肥後玉名の説あり)であり、倭人あるいは倭系といわれる。その国の王女が大卵を生み、不吉として絹に包み箱に入れ流され辰韓国に流れ着いた。老婆に拾われ、中に立派な少年がいた。この子が成長して赫居世の子南解王の娘婿に迎えられた。これが脱解で3代王の遺言により、第4代王になり、「昔」とした。次の代から「朴」姓に戻るが、新羅王朝は、朴、昔、金の姓の系統で継がれて行く。
Photo_2  最後に、駕洛(伽耶)(左地図)。加羅とも言い、百済と新羅の間の地域(弁韓、半島南端)のこと。この地域は中国史書では”倭”ともされている。
 AD42年現金海市の北、亀旨峯(クジポン)で怪しげな声がして、この地の王になるものが峯に降りるとのお告げがあり、天から包みが降り、中に黄金の卵が6個入っていた。村長が持ち帰り、床に安置すると翌日6人の男になった。
 そのうちの1人は背丈9尺もあり、顔も高貴で、その地の王に即位した。諱(イミナ)首露とし、国の名を大駕洛(又は大伽耶)と呼ぶ。別名金官加羅国。残りの5人も伽耶6国の夫々の王になった。

 駕洛国は扶余系であり、天の神の命で王者が降臨すること、降臨場所が日本は高千穂ののクシフル岳であるが、首露王は亀旨(クシ)峯と一致し天皇家と駕洛王室とが同族であり「天皇家朝鮮渡来説」の有力な証拠とされている

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2011年5月 1日 (日)

我が庭の花を紹介

Photo  昨日まで、田舎の法事に出かけ、昨夜遅く帰ってきて今朝庭見ると、テッセンが一斉に開花していた。今年はズボラをして、蔓が登る「テ」をしてやらなかったら、水平面にたくさんの花を付けたので却ってよかった。珍しく大きな花になった。

Photo_2

 これは近所から頂いた「イチハツ」。これも日当たりが良かったせいか大きな花を付けた。
ほんとに今年はなぜかどんな花も大きく咲き、且色が良い。農作物が豊作になる年であればいいが、如何であろうか。

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