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2011年4月

2011年4月28日 (木)

倭国の興亡27: 高句麗・百済の建国神話

 列島情勢の話が紀元前後に及んできたので、ここら辺りで半島の「建国」神話に転じる。
 古朝鮮以降、最初に朝鮮に建国されるのは高句麗である。宣帝3年(紀元前61年)、中国東北部の松花江流域に天帝の子解慕漱(ヘモス)天下り、王だと名乗り、国の号を北扶余と定めた。解慕漱の子解夫婁(ヘブル)が王位についたとき、夢枕に天帝が立ち、南下して国を興すように命じた。解夫婁は南下して東扶余国を興す。金蛙が王であったとき、水神の河伯の長女柳花(ユファ)を救う。柳花は天帝の孫を身籠っていた。柳花は大きな卵を産み、天帝のご加護により、中から童児が姿を現した。卵生神話である。
 卵から孵った
神童は朱蒙(チュモン)と名付けられたが、その異才が金蛙王の王子たちから妬みを買う。柳花は朱蒙の危機を察知し、南下して身を興すよう勧める。南下して、卒本州の沸流水に至り、そこに高句麗(コグリョ)を興す。時に紀元前37年であった。朱蒙の姓は「解(ヘ)」であったが、「高」に変えた。国の名が「句麗」だから「高句麗」と呼ばれる。初代高句麗王の朱蒙は「東名王」とも呼ばれる。

Photo  東扶余で生まれた朱蒙の長子・瑠璃が高句麗の王位を継ぐことになったので、沸流で生まれた沸流と温祚(オンジョ)の兄弟はさらに南下し、漢江の流域で国を興し、尉礼城を王都とした。兄沸流は海辺での建国に失敗し、弟の温祚は山のあるところで建国に成功する。それが百済(ペクチェ)である。紀元前18年のことである。写真は温祚の祠堂
 温祚は出身部族の扶余族から、姓を扶余とし、後の王都もこれに因み扶余とした。扶余族による建国神話は百済を以て終わる。新羅、駕洛国の神話は扶余族とはつながらない。この頃扶余、濊(イエ)、貊(メク)、と呼ばれる種族が、中国東北部から、韓半島の東海、中部から南部にかけて住んでいた。彼らが離合集散を繰り返し、韓民族の主体的構成民族となったといわれる。

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2011年4月26日 (火)

百花繚乱ー灌木編

 天気予報通り、今日は最高気温26℃となったのか。用事があり外出すると、車はクーラーが入った。昨日と変わらぬ服装では暑くて上着一枚脱いだ。繚乱シリーズ、今日は灌木(低木)編。どこから灌木になるのか分からぬが、下記の三つが目に付いた。
Photo  。普通ならゴールデンウイークに名所に見物にゆく木だが、これも今年は早く咲いている。もっともこの木は庭植えだから低木にしてあるが、藤棚になると灌木といえるどうか。5月を代表するだろうと取り上げた。
Photo_2

 山吹。子供の頃、田舎では田植えの頃(6月)に咲いていたように思うが、最近はやはり早いのかな。この木も結構庭に植えている家が多い。花も大きい品種があるようだ。
  『ななへやへ花は咲けども山吹のみの一つだになきぞかなしき』が有名な和歌。
Photo_3

 つつじ。これも、やはり5月の花だ。でも早咲は今満開になっている。サツキも含めこれから長期間楽しめるだろう。

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2011年4月24日 (日)

倭国の興亡26:青銅祭器と大量埋納

 前2世紀後半以降の青銅祭器は前1世紀後半~1世紀前半には、地域によって違い生じる。北部九州では銅矛、銅戈など武器系の青銅器が祭器のシンボルとなる。対して、近畿周辺では銅鐸を祭器シンボルとした。又、山陰や瀬戸内は銅鐸と武器系祭器が共存した。
 国家を形成し、過酷な階級社会に入った北部九州と、未だ縄文的階層社会を引きずりながら祭祀的な統合を図っている西日本との違いである。

Photo_2  中期後半(紀元1世紀前後)になると、銅鐸が複数個埋納される例が増えるが、神戸・桜ヶ丘遺跡では14個、島根・加茂岩倉遺跡では39個という一括大量の埋納が出現する。
 この大量埋納の理由についても諸説紛々である。多分北部九州(ナ国とイト国)が中国と冊封関係に入った頃(紀元前2世紀)から、瀬戸内地方に緊張感が高まったが、前漢が滅亡(紀元9年)し、25年に興った後漢朝と新たな冊封体制に入り、ナ国が金印紫綬を賜った頃(57年)、西日本の北部九州にたいする脅威への焦燥感は極度に高まった。その表れが祭祀青銅器の大量埋納だという。
 五穀豊穣のマツリのための青銅器を大量に集積することにより、巨大な悪霊に対する辟邪の力が結集できるとして、大量の銅鐸や銅剣(島根・荒神谷遺跡358本もの銅剣)を埋納した。
 図の銅鐸は加茂岩倉出土のもので、因幡、伯耆の各地域の小共同体から持ち寄り埋納したと思われる。12個の鈕には×が刻まれ、×の辟邪つまり呪詛が込められている。これだけの青銅器生産力を持つイヅモも、この時点では政治的統合がなされず大共同体を超えていない。
 これに対し、北部九州ではすでに中期前半(前200年頃)にはクニ境には複数の武器系祭器が埋納され、特にナ国とその周辺には多い。福岡・住吉遺跡では11本の銅戈、銅矛埋納があり、対岸のクニを呪禁していた。
 尚、ナ国の胸肩(宗像)、粕屋のクニや早良国、イト国、マツロ国地域には、武器系青銅祭器の埋納がほとんどない。これは、紀元前後のこの時期、「倭国」というさらに大きな枠組みがすでに出来上がりつつあったことを示唆している。
 

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2011年4月22日 (金)

百花繚乱ー草花編

 このところ、やや気温は下がり気味ながら、草木の花々はどんどん咲初め、例年5月連休頃咲く藤の花がもう満開状態である。今回は草花を披露します。
Photo  これは芥子。麻薬となるケシは当然ながら栽培禁止されており、これは観賞用の花である。多分花の形状が牡丹に似ているので「ボタンゲシ」と呼ばれる種類のものと思う。近くのJRの小さな駅前のロータリーの花壇に咲いていたもの。近所の愛好家の方が世話をして、いつも季節の花が咲いている。

Photo_2  これはイヌノフグリ。どうしてこのような可憐な花にこんな名前がついたのか不思議に思い調べると、植物学者の牧野富太郎が果実が犬の陰嚢に似ているところから名づけたという。非常に直截な名づけ方ではあるが、なんとなく遊び心が面白い。近年減りつつあり、絶滅危惧Ⅱ種に指定されているそうだ。

Photo_3  これは松葉菊。葉っぱが松葉に似て、花は菊に似ているからであり、花がぼたんのようなのは「松葉牡丹」。花期が長く、増やすのも、葉先を5cmほど5~9月に土にさせば簡単につくそうだ。最近は花の色も青紫以外に黄、オレンジ系や赤系など多い。

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2011年4月20日 (水)

倭国の興亡25: 近畿のクニグニと権力の胎動

 北部九州に王墓が出現したころ、近畿では、四周を溝で囲った方形低墳丘墓弥生前期中頃出現している。方形周溝墓は半島ルートで稲作と共に前3世紀初め、まず北九州に渡来し前3世紀末には近畿とその周辺に普及中期後半には関東まで広がり、近畿では家族墓として定着した。
 戦争のなかった北部九州以外では、中期前半期までの小共同体の首長の方形周溝墓には副葬品もなく、特に隔絶もなく、一般墓群の中に埋没している。

Photo  前期末頃(前200年頃)から、大阪や兵庫で首長の大型方形周溝墓が現れる。そして、戦争の跡が見られる中期後半(前1世紀~1世紀前半)になると、大型方丘墓も現れ、大阪・加美遺跡の1号墳(写真)は周溝を含めると1辺40mもの大きさで、3体の女性は青銅の腕輪やガラス製勾玉を付けていた。多数の土器などから1世代、首長とその家族1代限りの墓であろう。これは尼崎・田能遺跡と共に墳丘が大きく、大きな共同体を統率する大首長(オウ)へと成長していたと見られる。しかし、北部九州のような副葬品もないのは、大陸との直接外交ルートもなく、高価な副葬がされるほどの権威もなく、政治的にも階級的にも成長していなかった

 中期後半(1世紀)の瀬戸内地方では、方形の区画に多数の埋葬土壙を持つものが出現し、中国山地から山陰では四隅突出型方丘墓が出現し始めたが、いずれも小共同体の首長であり、王は未だ未成長である。

 弥生型首長が居住する環濠集落内には、オウの居住区域と祭祀空間が生まれる。勿論北九州以東の西日本各地では、こうした変化は中期後半(紀元50年頃)までゆっくり進行し、環濠集落そのものが前期後半(紀元前250年頃)にならないと出てこない。
 北部九州(吉武高木、吉野ケ里)の王族墓では巨大高殿が建てられ、祖霊が祭られ、諸々のマツリゴトが執り行われた中期後半には大阪・曽根遺跡、加茂遺跡、奈良・唐古・鍵遺跡でも大型建物が検出されている

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2011年4月18日 (月)

百花繚乱ー花木編

 ソメイヨシノは散ってしまったが、ここんところ暖かい日が続き、花々が我先にと競い合って咲いたが如く、一気に花開きまさに百花繚乱の景である。震災の中、プロ野球も始まり新人の活躍が目を引き、被災地の方々の花見風景が放映され、明るい笑顔みると、なんとなくほっとした気分になれる。
2_2  ハナミズキ。木蓮のあと待っていたかのごとく一斉に花開いた。この木もあちこちの庭に多く植えられており、若木から老木まであり、花のつき方、花の大きさなど種々あり楽しみなが見て歩ける。赤系の花もあるがやはり白がいい。

Photo_3  牡丹桜。これも普通の桜が散るのと同時に開花。今満開状態になっている。桜の種類も多くなり名前がしっかり覚えられない。梅、桜、桃のほかに同じような花を付ける木も多く、それも一斉に咲くので、よけいに分かりづらい。

Photo_4  。これは八重桜。遠目には真紅に見えて、本当に桜なのか自信がなく、宮司さんに聞いてみたが、「これは八重桜でしょう」と自信無げな返事。どうも怪しい感じだが、八重桜だと信じておくことにした。            

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2011年4月16日 (土)

倭国の興亡24:王国の萌芽と王墓出現

 前3世紀末に北部九州に出現したクニグニや小国の中で、突出した権力を備えた王が出現する。福岡平野の」国と糸島平野のイト」国だ。
 さらにこの両国を飛躍させたのは、当ブログ12回で略記したように、東アジヤの状況変化がある。中国・前漢王朝が前2世紀中頃から、周辺地域へ領土拡大を始めた。中華思想により周辺異民族を東夷、西戎、南蛮、北荻と呼び、周辺未開民族は入貢謁見し漢に同化した。冊封体制をとり、楽浪郡を半島及び倭の支配窓口としたので、倭が漢帝国を中心とする東アジヤに政治的に参入する画期的な段階に入ったのである。
Photo_2  まずイト国。江戸期にすでに怡土・三雲遺跡で、銅剣、銅鏡(35面)、玉が見つかり、膨大な副葬品を持った王墓の存在が知られていた。後の調査で、中期末(1世紀初め)の墳墓だと分かり、大量のマツリの土器が出土し、墳丘が確認され、イト国の王であり、倭を代表するほどの王の中の王であるといわれる。
 一方ナ国の王墓は、ナ国中心の福岡・春日市の須久遺跡群である。大共同体(クニ)に匹敵する規模であり、中期後半以降(紀元以降)青銅器、鉄器、ガラス製品が生産され、青銅器の鋳型は福岡平野の7割がここから出土し、弥生最大のテクノポリスと称されている。これを背景に中期末(1世紀)には須久岡本遺跡の王墓が出現している。巨大な板石の下の甕棺から前漢鏡約30面、銅矛、銅戈、銅剣、玉が出土。ここでも大きな墳丘墓出土の可能性がある。
 これら二人の王が前漢と交渉を持ったのは紀元前の世紀末で、紀元後に没している。イト国はイキ(一支)、ツシマ(対馬)とイト国連合を、ナ国は粕屋や胸肩などとナ国連合を形成し、二国は共存したと思われる。

 中期後半(前1世紀~1世紀)の北部九州各地の平野や盆地ごとに「国」ごとの王が誕生する時期であり、それぞれの王族の墓からは前漢鏡や銅器が出土する。そして、それらはナ国王、イト国王と疑似冊封体制を築いていたようである。この時期、北部九州社会の階級分化と首長層内の階層分化は想像以上に進んでいたといわれる
 

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2011年4月14日 (木)

4/11付「群れる白鷺」を訂正

Jpg  4月11日付で「群れる白鷺」と題して掲載した当ブログを以下の通り訂正します
 ウオーキング途中多々良川畔で見た鳥はよくこの川にいる白鷺とばかり思い、それにしてもこんなに群れているのはおかしいなと思いつつ、群れているのが珍しいと思って掲載しましたが、昨日の毎日新聞で、これは越冬のため飛来している「クロツラヘラサギ」ということを知り、訂正し、今日その概要を記載します。

Photo  まず、この鳥は世界に約1850羽しかいない絶滅危惧種の野鳥・クロツラヘラサギといいます。今冬はここで15羽が春を迎えたそうです。
 クロツラへラサギはコウノトリ目トキ科。全長約75cmといいますから、シラサギの小さいのと勘違いしたわけです。大きな違いは、口ばしがスプーンのようにへら状になっていることです(下図参照)。
 毎年秋に博多湾に飛来しここで越冬する群れと、更に沖縄、台湾に向かうのと分かれるそうです。今冬は博多湾和白干潟の埋め立てが進み、行き先を失った群れが、この多々良川に来てねぐらを作ったそうです。来月には繁殖地の中国、朝鮮半島に飛び立つそうです。(写真は毎日新聞より)

 河川も改修され、護岸工事が進み、野鳥類の営巣する場所や、川魚等の棲息箇所が減りつつあり、何とか自然保護をやるべきだと痛感している次第です。

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2011年4月11日 (月)

群れる白鷺

 昨日の統一地方選挙はほぼ予測通りの結果となった。やはり国民は今の状況を的確にとらえていると見た。大阪府議、市議の新会派の躍進ぶり、都知事への期待など、現政権への失望、又他政党への諦めなどが如実に表れている。国民は皆必至に新たな自分たちの国、自分達の住む地域を求めていることを政治家は感じとって、”政治”をやって欲しいものだ。

Photo  川沿いに歩いていると、シラサギが10羽ほど群れているのに出くわした。いつも1、2羽ポツンと立っている姿はよく見かけるが、こんなに群れているのは初めて見た。なんだか未だ雛なのかなと思えるように小さかったが、今頃孵化するものなのかな。
Photo_2  珍しいと思って急いでシヤッターを切ったがすぐに逃げられ、纏って居るところが撮れなかった。なんだか墨絵のような写真になったのは曇天のせいである。

 

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2011年4月 9日 (土)

倭国の興亡23: クニグニの変遷と消長

Photo  弥生前期末(前3世紀末)になると、列島に初めて青銅の鏡や武器を半島から入手し、副葬する墓が出現する。弥生型階級的首長の出現の証左である。
 真っ先に前期末の唐津や早良の玄海灘に面した平野で現れ中期になると、青銅鏡、武器、玉の3点セットを持つ首長墓が現れ、墓域も拡大し、墳丘墓も現れる。(写真は吉武高木遺跡出土青銅器他)。

 倭人伝でマツロ国と称された佐賀・宇木汲田遺跡は前期前半から後期後半(2世紀)まで続いたが、その初期(前3世紀前半)には小共同体の首長家族の墓だが、前3世紀末には青銅器を持つ弥生型首長墓となり規模も拡大する。マツロ国の王墓ともいえる。が、前100年頃には消え始める。そして、後期前葉には左岸に桜の馬場遺跡が出来て、マツロ国の王墓が再び出現するまでの200年間は王といえる権力者が消えるのである。

 博多湾に面した早良平野では、やはり前3世紀末、青銅器副葬の弥生型首長が出現。室見川左岸のクニで吉武遺跡群、右岸のクニでは有田遺跡群の王がいた。吉武には大石、高木の2遺跡もあり、甕棺群には玉類、銅剣類等、多数の副葬があり鏡、武器、玉のセットがそろった意味は大きい。ここは戦闘の犠牲者が多いが、ここも後には王の権威も弱小し、早良国王墓といえるものがない。

 佐賀平野の吉野ケ里遺跡は、巨大な墳丘墓に副葬された半島製銅剣や管玉の数々は弥生型王墓にふさわしい。しかし、周辺にも多くの遺跡が集中し、佐賀平野は基肄、養父、三根、神崎、佐嘉、小城、杵島の郡に相当する7つのクニからなる。青銅器の副葬は玄界灘より遅れ、中期初めからである。吉野ケ里は神崎のクニの中心である。しかし、副葬品を見る限り他のクニと変わらない。勿論半島製の銅鏡や玉を持つ王墓である。
 しかし、この時期「国」の王墓や王族墓といえるのは、玄界灘沿岸に限られている

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2011年4月 7日 (木)

花見をした

Photo  昨日、親しい友人たちと花見に行った。もう2週間ほど前から決めていたが、皆の都合のいい日というのが日にち決定の最大の要因だった。しかし、我々の予定に合わせるように気温も上昇し、空はきれいに晴れ上がり、桜は満開寸前の状態で、これ以上ないという花見日和となった。

Photo_2  例年のごとく、お弁当とおつまみ、ビールに酒と、座り込むためのシートをもって、桜の多い公園に出かけた。ウイークデイでもあり、花見客は少なく、ゆっくりした気分でいつも通り、予定時間を超えての「宴会」となってしまった。
 下の写真はソメイヨシノではなく、少し大きめの白い花で、葉がすこしでている。珍しい桜なので撮ったものである。
 

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2011年4月 4日 (月)

倭国の興亡22: クニの形成と戦争

 列島に戦争が始まったのは弥生時代からといわれる。縄文期にはムラや集落間の諍いや抗争はあったが、武器をもっての戦争の跡はない。
 前3世紀の弥生前期から中期末の1世紀前半までに、北部九州ではいち早く国家形成への歩みが始まった。その中で、福岡スダレ遺跡では、石剣が胸椎に突き刺さった人骨が出ている。
 玄界灘周辺地域では、水田稲作伝来後間もないころの犠牲者も見られ、耕地や水争いなどが引き金になったと思われる。古いのは、前4世紀(縄文晩期末)の福岡志摩町・新町遺跡、宮ノ前遺跡は渡来人のムラだったが、4人の犠牲者には半島系の石鏃が刺さっていた。前期の前半期(前3世紀前半)になると、戦いの犠牲者は玄海灘と響灘周辺に集中する。戦いで首を獲るという風習も含め戦争という社会的行為も伝来してきた要素なのである。

 ところが、前3世紀後半から前2世紀になると犠牲者は佐賀平野、筑後平野、中津平野へと広がり、更に熊本平野や壱岐、平戸島にも及ぶ。この時期の吉竹高木遺跡に副葬された銅剣や銅矛などはその切っ先が折れていた。
Photo  中期中頃から末になると、玄界灘沿岸平野部での犠牲者は殆ど見られず、逆に筑後平野、佐賀平野の内陸部で急増する。戦いが周辺部に拡大し、かつ熾烈になっている。首のない人骨(写真:吉野ケ里遺跡)や首だけという無残な犠牲者が多い。筑紫野市・長岡遺跡は多数の惨殺死体が出ている。この時期には瀬戸内や大阪沿岸部での犠牲者も出始めている。
 特に、伊都国や奴国があった地域では、熾烈な戦争が繰り広げられ、王権への道を先んじて歩み始めていた。福岡平野の丘陵地には弥生前期後半から中期にかけ、集落と墓地がひしめき合い、慢性的な食糧不足と水・土地争い、渡来人からの情報入手、不慮の災害、凶作時の略奪など、戦争を生む条件が煮詰まっていた

 こうして列島に階級的首長が誕生したのは玄界灘地域で、弥生前期後半の頃であろう。そして、北部九州に最初に階級的統合された「クニ」こそが列島における「国家」誕生の姿であり、この国家形成には戦争が必要な条件だったのである。

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2011年4月 2日 (土)

震災を癒せ!百花繚乱

 東日本大震災、福島原発は予断を許さぬ危機的状況ではあるが、米国の技術支援を受け、また各国の専門的救援チームの到来で、何とか危機脱出を図ってほしいものだ。そんな中、ここ2、3日の陽気で当地は桜は五分咲き、その他の花も一斉に開花、まさに繚乱である。被災地の生活にも春が巡り来ることを祈る。

Photo  あせび(馬酔木)。この木は房状の花を一杯付けているが、アセボトキシンなる有毒成分をもっている。これは神経を麻痺させるので、馬が食べると酔っぱらったようになるところからこの名がついた。美しいものには毒があります。ご用心を!

Photo_2

 房アカシア又の名をミモザ。歌謡曲にはよく出るが、実際の花を知る人は少ないのでは・・・。この木は結構大きくなるので、一般家庭の庭には無理かもしれない。これも小学校の校庭に咲いているものである。

Photo_3

 レンギョウ。庭の片隅にひっそりと咲いていたもの。中国から古代に渡来した木らしい。学名のsuspensaは垂れるという意らしく、枝が垂れている。これはよく庭に見かける木で今が見頃。

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