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2011年3月22日 (火)

倭国の興亡19: 後漢、公孫氏と三韓の出現

 前漢朝紀元前1世紀頃から急速に衰え、王莽が建てた新朝(8-23年)を経て25年に劉秀が後漢朝を立て、中国はようやく安定した。後漢はまず内政を安定させて、1世紀後半から対外策に力を入れ、楽浪郡を中心に東方経営が盛んになった。韓と倭について、前漢書では東方民族としての紹介だけであったが、後漢書では「韓伝」と『倭伝』をはっきり分けて記述している。
Photo  後漢書・韓伝には、韓に馬韓、辰韓、弁辰(弁韓ともいう)があると記している。韓は楽浪郡と倭の間にあり辰韓と馬韓とは言葉が異なり、辰韓と弁辰は言葉や習俗はよく似ているともある。言い伝えでは、衛氏朝鮮の頃の馬韓に三韓全体を支配する辰王がいたという。そして後漢代の頃まで、辰王の子孫が韓を代表して楽浪郡と交渉にあたっていた。
 そのころの馬韓は54の小国に分かれ、辰韓は12、弁辰も12の小国があったという。この記事から、1、2世紀の韓は小国が分立し、そこを代表して交渉にあたる名目的な君主いたようだ。倭国の2世紀末ごろ、卑弥呼が代表した30余国がまとまった段階に似ており、倭国より100年ほど進んでいたとみられる。

 『後漢書』は57年に倭国の奴国王が後漢朝に使者を送り、金印を与えられたとある。次いで帥升107年に後漢から倭国王に任命された。帥升は伊都国の王であったが、卑弥呼のような広域を支配したのではなかった。
 この直後から後漢朝では政争が続き、倭国との国交は途絶えた。但し、楽浪郡と韓や倭との交易は盛んであり、韓や濊が強大化し楽浪郡を圧迫し、後漢の衰えと共に、楽浪郡の勢力は低下した。
 そして、190年頃遼東郡の太守(長官)であった公孫度が自立し、玄菟郡と楽浪郡を支配下におさめた。これで、韓や倭は公孫度に従った。さらに、公孫度の子、公孫康は204年頃、半島中部への支配強化のため、楽浪郡の南部をさいて帯方郡を置いた。これにより、帯方郡が韓や倭との外交を扱うようになった。

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