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2011年3月 2日 (水)

倭国の興亡14: 縄文から弥生へ

 縄文から弥生への急激な変化はなかったとする考古学的遺跡調査からの意見と、周から漢への中国の激動が東方に波及し民族移動により弥生人(弥生文化)が到来したとする文献史学の見方の対立両論を記述してきた。
 しかし、近年ようやく弥生文化の成立についての具体的検討が進んできた。

 縄文が何故弥生へ変化したのか、その原因と背景を箇条書きすると、
1.縄文晩期後半の寒冷化による生産力低下
 約2千年前の縄文晩期末・弥生初期に、列島は再び寒冷化に見舞われ、海水面の低下(結氷による)により、海岸部の肥沃地が露出し大きく広がった。これが水田稲作に適し、西日本は寒冷化による農業・牧畜の生産性低下を水田稲作より回避した。
2.停滞期を打破すべき呪術の行詰り
 祭りや呪術により保持された集団の結束、平等性は稲作社会で内部矛盾を抱かえ、支配者の発生と、祭祀への疑問が顕在化した。配石遺構の縮小化がこれを表している。
3.西日本での受入れ態勢の充実
 この時期西日本では季節的なサイクルと協業の態勢を持ち、水田稲作の農耕・貯蔵に従事する組織・社会へ移行していった。
4.朝鮮海峡を挟む文物の往来
Photo  半島では3千年前の無紋土器の時代、既に稲作が始まっていた。列島側にこれを受け入れる態勢さえあれば水稲作が伝播しておかしくない状況だった。勿論、水稲作のできる一定の人数が渡来し、また大型構造船を持つ半島の航海術も大きく寄与した。

この他の要因もあるが、西日本が稲作受入れの条件を整えていたことが、稲作と弥生人を受け入れる要因であった。
(図は突帯文土器で縄文晩期、西日本一帯に分布した口、肩に突帯文を持つ無紋土器)

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