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2011年3月26日 (土)

倭国の興亡20: 環濠(壕)集落の出現

 ムラを囲んで濠(壕)を巡らした環濠(壕)集落は(濠=水を張ったゴウ、壕=空堀)水田稲作と共に到来した。水稲農耕は共同作業を差配するリーダーが必要で階級差と権力者を生んだ。勿論、環濠集落は敵の侵入や害獣を防ぐ防御機能を備えたのは当然ながら、共同意識と共に強力な首長権力が急速に確立し列島独自の階級形成を伴った
 だから、縄文後期後半、水田稲作が短期間で西日本各地へ伝播したのに、北部九州以外では晩期に遡る環壕集落が見られないのは、共同体が環壕を生むまで社会的に成熟していなかったからである。
 福岡・那珂遺跡、江辻遺跡、板付遺跡等は何れも二重環壕を持ち、一般の人々は外堀の中に、そして、特定の家族のみ内堀の中に住居を持ち、貯蔵穴を構築し、食糧など管理したとみられる。
 環壕集落が韓国慶尚南道・検丹里遺跡で見つかり、無文土器中期(前5~4世紀)初めの年代だのものだから、北部九州の環壕のもとになったとみられ、環壕集落が半島南部からの伝来であることを決定づけた。その後の半島で、忠誠南道・松菊里遺跡で同時期の環壕と巨大な木柵が、また大坪里遺跡でも二重環壕が見つかっている。
 これら
環壕集落のルーツ内蒙古を起源とし、黄河中・下流域に広がり、山東半島から半島南部、北部九州へと伝播した東方ルートと、渤海湾の北から吉林、沿海州に達し、日本を超えて列島北端に達した北方ルートの二つがあった。最古の環壕集落は内蒙古自治区に集中する(前6200~前5000年)。

Photo_2  一方水を湛えた環濠集落佐賀平野・町南遺跡や筑後平野・平塚川添遺跡や高知平野・田村遺跡、大阪・池上・曽根遺跡、奈良・唐古・鑓遺跡などその典型であり、大規模なものは何重にも水濠を並行させたり、幅広い環濠帯をもっている。環壕より遅れての築造は、環壕とは別に新たに(環濠が)有明沿岸に入ってきて西日本平野部に広まり、近畿や西日本の弥生文化が、北部九州とは違った独自の文化を築き上げたからである。図は広大な環濠を巡らした吉野ケ里遺跡。
 環濠集落は長江中流域に起源する。この南方の環濠は湖南省・城頭山遺跡や湖北省・陰湘遺跡などは前3200~前2800年であるが、更に遡り湖南省・八十塘遺跡が最古(前6000年)であり、環濠集落の起源である。環濠はコメと同じく、長江中流域からの直接渡来説もある。

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