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2011年3月

2011年3月31日 (木)

倭国の興亡21: 青銅器の祭器出現

 水稲農耕が開花した弥生時代になると、豊作を願うマツリを主宰し掌握することは、マツリゴト(政)と表裏をなして、共同体を掌握する首長にとって政治権力を体現することであった。弥生前期末(前3世紀末)に共同体首長に集中した半島由来の青銅武器は、倭でも作られるようになり、前2世紀末頃には首長主催の豊穣のマツリの祭器として独自の発展をする。
Photo_2   中期前葉(前2世紀)に始まる青銅のマツリの第一段階は、銅鐸では2、30cmの小型が、武器系では中細形の銅矛、銅剣、銅戈が共存する。武器系祭器は近畿でも製作され、銅鐸も北部九州で確実に製作されている。ところが1世紀後半からの後期になると、近畿など西日本は銅鐸祭祀圏となり、一方北部九州は銅矛、銅戈祭祀圏に変貌した。銅矛系祭祀器が銅鐸と共存したのは、唯一島根・荒神谷遺跡だけである。

 ところで、銅鐸は祭祀の儀式終了と共に土中に埋納されてしまうのである。なぜ埋納するかについては、隠匿説、保管説、廃棄説など諸説あり定説がない。唯、埋納場所がムラの境界や出入口が多いことから、悪霊、邪気を遮断するためとするのは寺沢 薫氏(橿原考古学研究所長)である。
 銅鐸と違って、武器系は悪霊や邪気と戦うことで豊穣を勝ち取る、積極的で攻撃的な性格を持っているものであり、北部九州は穀霊を守るより、災い撃破することに価値を見出し、共同体の安泰と存亡をかけたのである。
Photo_3  尚、左図の絵は上図の銅鐸に描かれているものである。Aの部分は地霊を力づける呪具を持ったもので、穀霊への祈りである。Bの部分は鳥(白鷺)であり穀霊を表し、それが地霊である魚を咥えている。つまり穀霊が地霊の力を得る、或いは穀霊が大地(水田)に力(地霊)を与えるという。鳥が魚を咥えた図は中国の土器や青銅器に多い。

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2011年3月29日 (火)

遅咲きの花々

 このところ、天候は良くて春の陽差しがいっぱいであるが、気温がとても低い。当地でも日中最高気温がようやく10℃を超えているが、最低気温が2~4℃という冷え込み。そのせいか、木々の開花がだいぶ遅い。昨年は異常に早かったが3月下旬には桜は満開であった。然るに今年の桜並木(老木)は今ようやくちらほらと咲き始めたところである。
Photo  ハクモクレン。これも今頃やっと満開となったが、冷え込みの激しい日が続くせいか、花が傷んで茶色じみて枯れかかったようなのが多い。もう辛夷は終わったが、これも花が茶色に枯れたようになった。天候異変はまさか地震のせいではあるまいが、今日本はすべてが異常事態の中だが、何とか早く平穏な日々に戻るのを祈る。

Photo_2  これは木瓜(ボケ)。この花も3月初めから咲き始めているが、今頃やっと満開状態で、あちこちの庭で咲き誇っている。この花は逆に例年より大きく立派に咲いているのが多い。ようやく本当の春が訪れつつある。被災地の一刻も早い復興と、原発の放射能拡散の終焉を願う日々である。

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2011年3月26日 (土)

倭国の興亡20: 環濠(壕)集落の出現

 ムラを囲んで濠(壕)を巡らした環濠(壕)集落は(濠=水を張ったゴウ、壕=空堀)水田稲作と共に到来した。水稲農耕は共同作業を差配するリーダーが必要で階級差と権力者を生んだ。勿論、環濠集落は敵の侵入や害獣を防ぐ防御機能を備えたのは当然ながら、共同意識と共に強力な首長権力が急速に確立し列島独自の階級形成を伴った
 だから、縄文後期後半、水田稲作が短期間で西日本各地へ伝播したのに、北部九州以外では晩期に遡る環壕集落が見られないのは、共同体が環壕を生むまで社会的に成熟していなかったからである。
 福岡・那珂遺跡、江辻遺跡、板付遺跡等は何れも二重環壕を持ち、一般の人々は外堀の中に、そして、特定の家族のみ内堀の中に住居を持ち、貯蔵穴を構築し、食糧など管理したとみられる。
 環壕集落が韓国慶尚南道・検丹里遺跡で見つかり、無文土器中期(前5~4世紀)初めの年代だのものだから、北部九州の環壕のもとになったとみられ、環壕集落が半島南部からの伝来であることを決定づけた。その後の半島で、忠誠南道・松菊里遺跡で同時期の環壕と巨大な木柵が、また大坪里遺跡でも二重環壕が見つかっている。
 これら
環壕集落のルーツ内蒙古を起源とし、黄河中・下流域に広がり、山東半島から半島南部、北部九州へと伝播した東方ルートと、渤海湾の北から吉林、沿海州に達し、日本を超えて列島北端に達した北方ルートの二つがあった。最古の環壕集落は内蒙古自治区に集中する(前6200~前5000年)。

Photo_2  一方水を湛えた環濠集落佐賀平野・町南遺跡や筑後平野・平塚川添遺跡や高知平野・田村遺跡、大阪・池上・曽根遺跡、奈良・唐古・鑓遺跡などその典型であり、大規模なものは何重にも水濠を並行させたり、幅広い環濠帯をもっている。環壕より遅れての築造は、環壕とは別に新たに(環濠が)有明沿岸に入ってきて西日本平野部に広まり、近畿や西日本の弥生文化が、北部九州とは違った独自の文化を築き上げたからである。図は広大な環濠を巡らした吉野ケ里遺跡。
 環濠集落は長江中流域に起源する。この南方の環濠は湖南省・城頭山遺跡や湖北省・陰湘遺跡などは前3200~前2800年であるが、更に遡り湖南省・八十塘遺跡が最古(前6000年)であり、環濠集落の起源である。環濠はコメと同じく、長江中流域からの直接渡来説もある。

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2011年3月24日 (木)

菜の花満開

 昨日はグランドゴルフに田舎の方に出かけた。我々のホームグラウンドは郊外の温泉に近いところで、温泉ホテル付設の7コースからなるゴルフ場である。結構遠方から温泉とグランドゴルフのセットツアーで来る客が多い。小高い山の上で、遠方まで見晴らしがよく、気晴らしにはいい場所である。3コースを1ラウンドとし、3ラウンドで成績を競うが、大概成績は二の次で、昼の食事や終了後の温泉が楽しみなのである。

Photo  その帰り、満開の菜の花畑のそばを通ったので撮った写真である。柔らかい陽射しの田舎の田園風景はのんびりとして身も心ものびのびとした。

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2011年3月22日 (火)

倭国の興亡19: 後漢、公孫氏と三韓の出現

 前漢朝紀元前1世紀頃から急速に衰え、王莽が建てた新朝(8-23年)を経て25年に劉秀が後漢朝を立て、中国はようやく安定した。後漢はまず内政を安定させて、1世紀後半から対外策に力を入れ、楽浪郡を中心に東方経営が盛んになった。韓と倭について、前漢書では東方民族としての紹介だけであったが、後漢書では「韓伝」と『倭伝』をはっきり分けて記述している。
Photo  後漢書・韓伝には、韓に馬韓、辰韓、弁辰(弁韓ともいう)があると記している。韓は楽浪郡と倭の間にあり辰韓と馬韓とは言葉が異なり、辰韓と弁辰は言葉や習俗はよく似ているともある。言い伝えでは、衛氏朝鮮の頃の馬韓に三韓全体を支配する辰王がいたという。そして後漢代の頃まで、辰王の子孫が韓を代表して楽浪郡と交渉にあたっていた。
 そのころの馬韓は54の小国に分かれ、辰韓は12、弁辰も12の小国があったという。この記事から、1、2世紀の韓は小国が分立し、そこを代表して交渉にあたる名目的な君主いたようだ。倭国の2世紀末ごろ、卑弥呼が代表した30余国がまとまった段階に似ており、倭国より100年ほど進んでいたとみられる。

 『後漢書』は57年に倭国の奴国王が後漢朝に使者を送り、金印を与えられたとある。次いで帥升107年に後漢から倭国王に任命された。帥升は伊都国の王であったが、卑弥呼のような広域を支配したのではなかった。
 この直後から後漢朝では政争が続き、倭国との国交は途絶えた。但し、楽浪郡と韓や倭との交易は盛んであり、韓や濊が強大化し楽浪郡を圧迫し、後漢の衰えと共に、楽浪郡の勢力は低下した。
 そして、190年頃遼東郡の太守(長官)であった公孫度が自立し、玄菟郡と楽浪郡を支配下におさめた。これで、韓や倭は公孫度に従った。さらに、公孫度の子、公孫康は204年頃、半島中部への支配強化のため、楽浪郡の南部をさいて帯方郡を置いた。これにより、帯方郡が韓や倭との外交を扱うようになった。

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2011年3月20日 (日)

花が咲く

 まだ少し空気が冷たいが、陽射しの中ではふんわりと温かく、すっかり春に浸っている感じだ。少し足を延ばし、新芽が萌える風景を楽しんできた。

Photo  まず桜。老木の桜並木はまだまだ蕾も硬いようだが、時に見かける若木は写真のように4、5分咲きといったところで、この陽気ではすぐ満開になるだろう。ややピンクがかった色で、樹皮からみて桜は間違いないが、ソメイヨシノかどうかはわからない。

Photo_2

 これはネコヤナギのような感じであるが、ネコヤナギでもなさそうだ。いろいろの花木や野菜が植えられた田舎の畑の片隅で見つけたもの。いかにも「春だ!」と言って出て来た感じが、ほほ笑ましかった。

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2011年3月18日 (金)

倭国の興亡18: 中国の東方侵入

 紀元前4~5世紀から紀元前後、中国東北部に乱立した諸国の戦乱は半島及び列島に大きな変化を引き起こす引き金となった。

 前1050年「商」を滅ぼした「西周」首都:西安)は前770年頃より春秋戦国時代に入り、前403年「晋」「韓」「魏」「趙」の三国に分かれ「秦」「斉」「燕」「楚」と共に戦国の七雄といわれた。この頃から朝鮮半島への逃亡民や流浪民が多く、南下した。それに追われて半島からの渡来人が増えたのである。
Photo  前256年、秦が周を滅ぼし、前221年秦始皇帝が中国を統一し、郡県制をしいた。前206年は漢の劉邦が秦を滅ぼし、前202年には楚の項羽が敗死し、劉邦が帝位について漢王朝(前漢)が始まった。そして前154年の呉楚七国の反乱で諸侯の勢力を抑え七代皇帝・武帝がようやく本格的な対外政策に取り組んだ
 武帝は北方の匈奴を攻撃し、対決拠点を敦煌に置いた。張騫を西方の大月氏国に派遣したのがきっかけで、シルクロードによる交易を開いた。南方はベトナムも抑え、紀元前107年朝鮮半島に侵入し衛氏朝鮮を破り、紀元108年楽浪、臨屯、真番三郡を置き、翌年その北方を攻略、玄菟郡をおいた

 楽浪郡は衛氏の本拠地・平壌(一説に遼東とも)の辺りに置かれた。真番と臨屯は前82年に廃止され楽浪郡に組み入れ、玄菟の一部も楽浪に合わせて、楽浪は戸数6万を超す有力な郡となった。
 周辺の異民族の首長が交易を求め楽浪郡に赴いている。だから、国際的文化が育ち、首都周辺の遺跡や楽浪漢墓からは豪華な中国製の副葬品が出土している。
 中国正史『漢書』「地理志」に、古代倭国人も楽浪に赴いたことや100余国に分かれていたことが記されている
 

 

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2011年3月16日 (水)

寒風に花芽膨らむ

 寒風荒ぶ中、東北関東大震災の被害者たちの悲惨な様子が刻々報じられ、胸締め付けられる思いがする。真冬並みの気温とか、暖房設備や燃料がなく少なく、寒い中で食料や水を分かち合っての避難生活が痛ましい。

Photo  そんな中でも桜の目は確実に膨らみ始めた。この状態では、1週間余りで開花しそうである。春が目の先に来ている。どうか頑張ってやがて花咲く春を迎えてください。

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 これはカササギ。佐賀県の県鳥であり、当地ではカチガラスと呼ぶ。腹部は真っ白で頭、羽が真っ黒だが、背のあたりは少し青みがかっている。カラスより少し小さな鳥で、吉野ケ里や、筑後地方など有明海沿岸が棲息地だが、最近はここら(福岡市内)でも見かけるようになった。
 この鳥は、古事記など神話に出てくる鳥で、神武天皇が東征して、河内から熊野に入り、大和に向かった折、天照大神が道案内に差し向けた「八咫烏(ヤタガラス)がこれであるという。

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2011年3月14日 (月)

倭国の興亡17: 渡来人(弥生人)のもたらした文化

 渡来人が携えてきた稲作技術や磨製石器などの農耕具以外にも多くのものをもたらした。箇条書きにすると、
1.金属器。不純物の少ない鍛鉄(鋼)を使った鉄斧、銅鑿、両翼式銅鏃、鉄鏃、鋳造の鉄斧などが北部九州から出土している。
2.無文土器。半島南部の無文土器と形や製作技術がそっくりな土器が西日本に広く分布する。
3.支石墓。無文土器文化を特徴づける墓制で、碁盤型が半島南部に、テーブル型が北部に集中している。列島ではテーブル型はなく、縄文晩期のものは海灘に面した地域及び有明、天草諸島に及んでいるが、福岡以東には全く波及してない。西北九州だけの特異な墓制で、半島南部の渡来人によるストレートな伝来を推測させる。
 縄文晩期前半の支石墓が畑雑穀農業の痕跡がある火山灰土壌地帯(島原、熊本平野)と一致し、晩期後半から弥生前期初めの分布が玄海灘沿岸と有明海沿岸の平野部との二つに分かれて波及している。人骨でも見られる二つのタイプは渡来ルートに二段階、二ルートあったことの証拠といえる。
4.環濠集落と松菊里型(半島)竪穴住居。環濠集落の中に半島南部からの渡来人が分離して同居していた(福岡・江辻遺跡:最古の環濠集落に11軒の松菊里住居)。以降、松菊里型住居は弥生中期前半まで西日本各地の弥生集落にその痕跡をとどめている。

 渡来した文化の定着は、板付Ⅰ式(前4世紀後半)という土器様式でみると、玄界灘沿岸地域を核とした北部九州に限られた地域にのみ分布する。初期の多彩な穀類が集中した列島での起源地であり、弥生文化の花開いた地である。
Photo  続く板付Ⅱ式(前3世紀頃)、遠賀川形土器(写真)とともに水田稲作環濠集落は東へと拡散してゆく。響灘沿岸、筑後平野、佐賀平野などの環濠集落では、渡来人たちの生活エリヤが確保されていた。
 瀬戸内以東の環濠集落は社会的な成熟につれ成立してくる。この時期、遠賀川形土器は伊勢湾地方まで及んでいるが、ここで足踏みする。環濠集落の出現に至っては、弥生中期頃(紀元前後)大多数は後葉になってからの出現である。弥生時代、東北にはついぞ環濠集落がつくられることはなかった。

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2011年3月12日 (土)

超巨大地震の発生

 昨日、聞いた時には大変びっくりした。後次々入ってくるニュースを見ている内、こりゃ大変だと、テレビにくぎ付けになってしまった。

 そして今日、さらにその規模の大きさに改めて吃驚している。何にもまして、津波がこんなに恐ろしいものとは知らなかった。やはり自然の驚異には、まだまだ人間は太刀打ちできないんだなと改めて感じている次第。

 恐ろしいのは福島原発が異常状態に入っていることである。日本の技術では起こりえないと信じていたトラブルが、現実に起こっている。今現代第一原発で、爆発があったと報じている。なんとか大きな事故に至らないうちに収まることを祈っている。

 今後とも、各地の被害が極小に終わることを祈りながら、テレビを見ている。平穏理に地震が終息することを念じています。

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2011年3月10日 (木)

倭国の興亡16: 稲の伝来ルート

 稲の起源はかって中国雲南省説が風靡したが、最近は長江の中・下流域説となった。下流域の浙江省(前約5000年)や中流域(前約7000年)の地層から稲作の遺跡や米、籾、鍬、鋤ほかの農具類がほかの雑穀とともに発見され、また前約4500~前4000年の水田跡も見つかり、稲作の起源地と目されている。
Photo  この稲の伝来ルートもいろんな説があるが長江下流域から黄海を超え、半島南部西岸を経由し北部九州へ到達する(図A)コースが一番有力である。勿論これに限定されず、下流域から東海を超えて九州西北部に(図B)、或いは華南地方から南西諸島経由伝来した(図C)こともある。其々の遺跡から稲作の痕跡が見つかっていることからも考えられることである。
 尚、列島に来たジャポニカ種と同じ稲(DNA分析で確認されている)が半島に来たのは、半島の忠清南道と慶尚南道の遺跡で、無文土器時代前期~中期にかけての水田跡が発見されていることから、前八世紀~前五世紀の頃とされている。その頃が列島での縄文晩期後半の水田の直前でもあることから、Aルートを通じての稲の伝来が最も有力と考えられるのである。

 稲の伝来以降、稲作農耕で安定してコメ生産ができたかどうかについては必ずしもそうではないと思える。天候不順や台風の発生などによる不作時の食料確保対策と思われる、ドングリ貯蔵用のドングリ・ピットが多く出土していて、五世紀頃まで続いているのを見れば、その頃まではまだまだ自然環境に支配される稲作技術だったことがわかる。

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2011年3月 8日 (火)

オープン戦に行った

 フォークスのファンである。今年のフォークスにはかなりの期待が持てるのではないかと心密かに思っている。ここんとこズーッとなんとかAクラスに残るものの、クライマックスシリーズで勝ち残れない。特に昨年は、パ・リーグ優勝しながら、日本シリーズ出場を果たせなかった。
Photo  ところが今年は違う。何しろ、かなりの補強を行い、強力投手陣に加え、打撃陣が大いに期待できる陣容を整えたからである。横浜から内川が入り、多村との横浜コンビは期待できる。その上ここぞという時に威力を発揮しそうなカブレラの入団もあり、若手の成長も期待できる。

Photo_2  そんな事で、先日オープン戦、対ヤクルトを見にドームに行った。まず今年から先発に転向の摂津が4回を2安打無失点の好投、ついで今年入団の外人レルーも4回を投げ、HRを打たれたもののなかなかの好投。そして抑えに金沢が無失点。打線もようやく調子を見せ始め、初回には連打で4点を取り活気づいてきた。

 これから、各チームとも一線級が出てくるので本当の調子がつかめるだろうが、ソフトバンクは本当に期待できそうだ。秋山監督の監督としての力量にも期待が膨らむ。

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2011年3月 6日 (日)

倭国の興亡15: 水稲農耕の始まり

 稲作の開始は弥生時代の代名詞であった。しかし、最近縄文晩期後半の水田が次々と発見された。縄文と弥生の明快な境界が無くなっているのが実情である。
Photo  福岡・板付遺跡で弥生前期初めの水田跡の下層に縄文晩期末の水田跡が発見され、集落の縁辺に用水路や井堰もあった。鍬や石釜などの農具も出ている。佐賀・唐津市・菜畑遺跡からも縄文晩期末よりさらに古い前5世紀の水田跡が出ている。その後、福岡市・野多目遺跡ほか二丈町・曲り田遺跡、有田・七田前遺跡ほか、日本海沿岸で縄文晩期後半(前6世紀ー前4世紀)の水稲農耕遺跡が次々と見つかった。東北では弥生中期~前期末の水田跡が見つかっている。(図は福岡・板付水田遺跡の足跡)。
 このように「遅くとも前5世紀には九州・玄海灘沿岸地域に定着した水田稲作は約100年のうちには西日本の主だった平野部に広がり、その後百数十年で本州最北端まで到達した」
 尚、水田稲作ととも遠賀川系と呼ばれる無紋の弥生土器が広がっているが、これは必ずしも北九州からのものばかりでなく、同系統の土器が東北では、直接大陸から伝わった兄弟土器だとする説もある。

Photo_2  稲の渡来種は図のうちの「ジャポニカ」であり、長江下流域で起原。ジャパニカはジャポニカの古種ともいわれる
 弥生農業に直結する縄文晩期時代後半以前にも、稲作跡は東北含めあちこちで発見されている。しかし、人骨のコラーゲン分析から、縄文後・晩期には必ずしも彼らの食物が穀類に依存していたとは言えないという。水田稲作による生活の始まりはやはり紀元前5世紀前後と考えるべきであろう。

 

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2011年3月 4日 (金)

寒風の中の春

 春というのに風が冷たい。真冬の気温とかで春未だ遠しの感がするも、草木はもうすっかり春のようで、新芽が吹き出し、花がさいている。
Photo  まるで枝垂桜のごときの咲きっぷりながら、これは枝垂れの紅梅。見事な枝ぶりで満開となっていた。最近は白梅がほとんどなく、桃色から真紅の梅が多くなって、彩あかるく咲いている。

Photo_3

 これを遠望したとき、一体何なのか不思議に思い近づいてみると、大根が葉っぱを切り取られ、根っこだけが突き出ている何とも言えない妙な風景を見せていた。恐らく先日の寒冷で、葉っぱは枯れて腐りかけたので切り取られてしまったのであろうか。
 なんだか、悪戯っ子が叱られ、しょげて立っているようで哀れな感じ。

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2011年3月 2日 (水)

倭国の興亡14: 縄文から弥生へ

 縄文から弥生への急激な変化はなかったとする考古学的遺跡調査からの意見と、周から漢への中国の激動が東方に波及し民族移動により弥生人(弥生文化)が到来したとする文献史学の見方の対立両論を記述してきた。
 しかし、近年ようやく弥生文化の成立についての具体的検討が進んできた。

 縄文が何故弥生へ変化したのか、その原因と背景を箇条書きすると、
1.縄文晩期後半の寒冷化による生産力低下
 約2千年前の縄文晩期末・弥生初期に、列島は再び寒冷化に見舞われ、海水面の低下(結氷による)により、海岸部の肥沃地が露出し大きく広がった。これが水田稲作に適し、西日本は寒冷化による農業・牧畜の生産性低下を水田稲作より回避した。
2.停滞期を打破すべき呪術の行詰り
 祭りや呪術により保持された集団の結束、平等性は稲作社会で内部矛盾を抱かえ、支配者の発生と、祭祀への疑問が顕在化した。配石遺構の縮小化がこれを表している。
3.西日本での受入れ態勢の充実
 この時期西日本では季節的なサイクルと協業の態勢を持ち、水田稲作の農耕・貯蔵に従事する組織・社会へ移行していった。
4.朝鮮海峡を挟む文物の往来
Photo  半島では3千年前の無紋土器の時代、既に稲作が始まっていた。列島側にこれを受け入れる態勢さえあれば水稲作が伝播しておかしくない状況だった。勿論、水稲作のできる一定の人数が渡来し、また大型構造船を持つ半島の航海術も大きく寄与した。

この他の要因もあるが、西日本が稲作受入れの条件を整えていたことが、稲作と弥生人を受け入れる要因であった。
(図は突帯文土器で縄文晩期、西日本一帯に分布した口、肩に突帯文を持つ無紋土器)

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