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2011年2月 9日 (水)

倭国の興亡9: 遊動から定住へ

 朝鮮半島では紀元前2000年頃から大がかりな雑穀栽培が広まった。智塔里遺跡(黄海南道・鳳山)では炭化したヒエがまとまって出土している。そこから、石製の鋤、鍬、鎌などの農具も出土した。
 日本列島でも北海道・南茅部町、臼尻B遺跡の住居跡からアワとヒエの種子が見つかっているが、量は少なく農耕を行った形跡は少ない。三内丸山では紀元前3500~3000年頃クリ栽培をしていたが、主食はサケ、マス、イルカ、貝類で、海辺に生活本拠を置いていた。

Photo  縄文のクニともいえる社会・文化圏を形成した東日本の縄文文化は中期後半(紀元前2500年)にピークを迎え、定住集落は大規模となり、豊富な食料、活発な物資の流通そして、マツリと祈りが安定した定住生活を支えていた
 しかし、地域によって縄文文化の変遷は一様ではなかった東日本の場合は縄文中期後半には急速に崩壊した。その崩壊の要因1.気候の寒冷化による自然環境の悪化による食資源不足。 2.集団生活の肥大化による集団内の軋轢。 3.集団のゴミ・糞尿の処理困難、衛生環境の悪化(疫病)などが、考えられる。
 後期前半には持ち直したものの、弥生前期の2000年間は停滞した。そして、縄文後期半ば以降晩期まで、東北の文化は東北南部、北陸、東海地方に移動して、大規模な環状集落が発達した。

 一方、西日本では、縄文中期では未発達であったが、中期末~後期初頭には東海・近畿地方に定住集落、大規模貝塚が安定して見られる。
 後期後半(3500年前)には九州地方にも安定した定住集落・大規模貝塚などが作られ、各種石器、漁具、祭祀具、装身具の発達も見られる。特に熊本・宮崎では30~40棟の竪穴住居が環状に分布する定住集落跡がある。これは寒冷化により広葉樹が繁茂し、食糧資源豊富な生活環境がよくなったことによるものだ。

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