« 寒緩む | トップページ | 陽気に誘われて »

2011年2月 5日 (土)

倭国の興亡8: 三内丸山遺跡

 三内丸山遺跡は県営球場建設に伴い、大規模な事前発掘調査により、発見された。
Photo  この遺跡は代前期中頃(約5500年前)から中期末までを中心に凡そ1500年続いた大規模集落跡である。中でも直径1mの栗の巨木を4.2m間隔で6本立てた大型掘立跡は驚異の的となった。これが何なのか未だ不明だが、建物説と木柱列説があるが、今は祀用の建物説がやや強い
 この遺跡は有名なので、ここでは際立った特徴だけを紹介しておこう。
1.模な土木工事による造成の集落である。
2.大型の掘立建物や集落中央の屋根筋を通る道を中心に、極めて計画的に構成・配置された集落である。
3.自然の恵みに加えて、クリなどの栽培も取り入れた安定した経済が営まれ、長期に亘って定住生活が続いた。
4.木製・骨角製を含め、様な道具が多数使われ、良好に保存されている。
5.多種類の遠隔地物品が発見され、遠隔地との交流が認められる。
6.進んでいた縄文文化の多様な要素が、総合的に存在した遺跡である。
 以上、広い、大きい、遺物が膨大、1500年続いた遺跡などが大きな特徴といえる。

012  この時期、東北地方北部は典型的な大規模集落が栄えた、東日本縄文文化の隆盛期でもあった。津軽海峡から太平洋沿岸部に掛けては「貝殻文土器文化」が、東北北部から北海道渡島半島にかけては「円筒土器文化圏」が発達した。東北南部から新潟にかけては「大木式土器文化圏」が、信濃川流域には「火炎土器」(写真)があり、更に西日本ではそれぞれ特有の文様の土器文化が形成された。
 関東・中部地方集落形態は「環状集落」が発達し、東北北部や北海道南部とは大きな地域差を持っており、他地域とは言葉も通じない異なった部族が住んでいたといわれる。

|

« 寒緩む | トップページ | 陽気に誘われて »

古代史、邪馬台国」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/534272/50780454

この記事へのトラックバック一覧です: 倭国の興亡8: 三内丸山遺跡:

« 寒緩む | トップページ | 陽気に誘われて »