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2011年2月13日 (日)

倭国の興亡10:環状列石と縄文の継承

Photo  環状列石 縄文中期後半(4300年前)位の東日本では石に霊が宿ると信じ、石を墓地の標石や崇拝の対象とした。墓石の始まりである。これらの配石墓が環状列石につながったようだ。写真の如く石が環状に並んでいる遺構である。
 小牧野遺跡(青森市)の場合、直径約35mの外帯と内帯、3mの中央の環で構成され、東に50基以上の墓地と掘立建物群、南東に9基以上の地下貯蔵穴、北東には物送り・捨て場がある。
これは人の葬送を行い、霊を封じ込め、災いを封じ込める儀礼を行う場所であったようだ。寒冷化による自然環境悪化に伴う集落の衰退を抑える為にもマツリと呪術に頼るしかない後期・晩期の停滞社会だからこそ、これら祭祀が発達し、呪術に支配された。これが後の古墳築造やその祭祀具の青銅器につながって行ったといわれる。

 やがて、九州、瀬戸内、日本海側平野部、大阪・東海地方で、小規模ながらの水田稲作農業が開始される。弥生時代の到来である
 しかし、縄文時代に確立した生活技術や精神文化は、その比重が東から西に移ったとはいえ、殆どその基層文化は弥生まで受け継がれた。弥生的上層文化が発達する中、縄文以来の食料捕獲・採取と加工保存法には、米作農耕の影響はそう高い比重を占めたわけではない。
 従来、縄文から弥生への転換は縄文人(漁労が主)と異なる文化を持った弥生人(農耕が主)が列島に渡来し、九州から四国、瀬戸内、山陰そして大和へと広がり、倭のクニを形成した。当然縄文人は東へ追われ、最終的には弥生人に服従した。現在日本人の祖はこの弥生人である。と、まるで民族大移動のように、縄文文化と全く異なる弥生文化が列島に移り来て倭国を創ったかの如き論が横行した。
 しかし、最近の考古学から見れば弥生時代になって、社会がガラッと変わったような痕跡はないと言われる。例えば石斧・石包丁など大陸系磨製石器も九州北部でさえ使用比率は3割程度で、近畿で1割、その他は殆どない。半島では既に使用されていない打製石器で生活していた。道具の一部は鉄製となるものの、採取・漁猟の対象、技術、道具など全て基本的に見事弥生時代に継承されたのである
 現代の生活の原型は、縄文時代に既にその基本が作られ継承されてきたのである。

 

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コメント

ふ~む、歴史の謎ですな・・・・。
確かに弥生時代に入って急速に生活環境が変わるわけではないでしょうね。鉄などの新しいモノがどうやって拡がっていったのか、不思議です。伝道師のような人でもいたのでしょうか?旅人?
それにしても墓石のルーツがこんな時代に遡るとは思っていませんでした。勉強になりました。

投稿: Y | 2011年2月14日 (月) 10時19分

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