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2011年2月

2011年2月28日 (月)

春は遅々として・・・

 紅梅、白梅があちこち満開で、一気に春となったかと思いきや今週は天候不順で、寒さも戻るとの予報。今一刻は暖房も手放せそうにない。

Photo  先日見かけた小鳥。首の辺りや背中が鮮やか赤茶けたきれいな小鳥だったが、ずっと動き回り、なかなかシャッターが切れないうちに、物陰へ行ってしまった。
この時期たった一羽でいるところを見れば「ツグミ」科の小鳥とは思うが、うまく取れず残念だった。

Photo_3  皐月だが、今冬の寒さで紅葉したまま、春になっても一向に色は変わらない。これはこれで、美しく庭木としても、花と紅葉で二度楽しめるからいいようなものの、きっとやがて緑になると期待しているのだが。

 ところで、国会は今日いよいよ予算案が衆院本会議で可決に持ち込まれそうだがどうなるか。中東諸国で、独裁的国家が危機に瀕しているが、外国どころか日本国内がどうなるか、先行き不透明な今日、学卒浪人が増えている現況など、一刻も早く安定した国政が望まれるところなのに、こんな状況では国民の不満は高まるばかりである。

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2011年2月26日 (土)

倭国の興亡13: 縄文期の韓半島

 韓半島の神話時代の実態は、やはり遺跡発掘などから類推するより他ない。
旧石器時代(1万5千年前まで)は列島と同じく、集団生活を営み、血縁氏族社会を形成し、狩猟や漁労・植物採集により食料を得て、火を使用していた。
 紀元前5000年頃から、韓半島は新石器時代(櫛目文土器時代)に入った。列島の縄文土器に相当する櫛目文の入った半島独自の土器文化を持っていた。紀元前1000年位までを3期に分け、2期と3期の層からは日本の縄文土器が発見され、列島との往来があったことを裏付けている。

Photo  人は水辺を生活エリヤとし、漁労が主な生活手段だった。後期には簡単な原始農耕が行われた様だ。櫛目文土器終末期には、幾何学的文様が姿をけし、「無紋土器」へ移行する。壺、甕、高杯、鉢などがある。紀元前1000年頃より、青銅器時代が始まる。銅剣(遼寧式)、銅斧、銅鑿、刀子などの工具類・装飾品がある。(図は典型的な無紋土器、紀元前4-3世紀)。
 前1000年後半には、遼寧式を継承した細型銅剣に伴い、銅鐸、銅鈴など宗教的器具類、そして鉄器が登場して、青銅器は儀器・祭器のの性格を強める

 青銅器時代に入り、母系氏族共同体から、徐々に父系氏族共同体へ移行し、家父長的な家族集団が形成されるようになった。そして集団には支配者と被支配者の関係が形成されて行き、権力者が育っていった
Photo_3   巨大な支石墓が出現し、権力を握った者の墓は権力者の象徴となった。長さ8-9m、幅6-7m、重さ数十トンの蓋石は集団を支配する権力者でないと造れない。支石墓は韓半島全域に分布している。
 蓋石だけが見えて、埋葬部が地下の南方式支石墓は九州の北西部を中心に点在しており、縄文時代の終わりごろから弥生時代中期にかけて伝播したといわれる。当然半島からの渡来人の墓である可能性が高い

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2011年2月24日 (木)

陽気を歩く

 今日もいい天気で、最高気温15、6度の陽気ながら、爽やかで春を満喫しながら歩いた。
Photo  これは松葉菊。確か「マツバボタン」と覚えていたが大変きれいな紫色の花なので、念のため調べたら、やはり一般的にマツバボタンと間違える人が多いとある。両者は葉が多肉で似ているが、全く別種の植物とのこと。花は4月ごろから夏まで咲くとあるので、今頃咲いているのは狂い咲きなのか。
Photo_2  これがヒヨドリであろう。最近この鳥が多く3、4羽ずつ梅の木にとまって、ピーピーと鳴いている。木の上では逃げないが、草むらなどにいるのはカメラを向けた途端に逃げてしまう。これも渡り鳥で、冬には南方へ移動するが、最近は市街地にも棲みついて移動しなくなったのもいるそうだ。

Photo_3  これは全く普通のだが、花よりも木が古木であり、且つ剪定が鉢植の如くしてあり、なかなか見事な枝ぶりなので、それに見とれて撮ったもの。この家の人はきっと庭木選定の弁えがあるのであろう。ほかの庭木もきれいに剪定がなされていた。

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2011年2月23日 (水)

香椎宮の知られざる部分

 当地の香椎宮についてあまり知られてない部分を紹介しよう。
 香椎宮は紀元200年に熊襲征伐に九州に赴かれた仲哀天皇がこの地で薨られ、香椎に棺を安置した御陵と、神功皇后が受けられたご神託により723年建立された廟所(社殿)を合わせ「香椎廟」と称される。明治になり官幣大社となった格式の高い神社であり、末社15社がある。その中のあまり知られてない部分をご紹介しよう。
1.本殿の建築様式
Photo  この本殿の建築様式は「香椎造」と称され、入母屋で左右に翼をだし、車寄せを設けている。この様式はおそらく日本で此処にしかないものであるが、残念なことに本殿の全容が見える場所がない。そこで、写真集より抜出しお見せする次第である。非常に特徴ある屋根組であることはお判りいただけるでしょう。
2.筋塀
Photo_2  耳慣れぬ言葉でしょうが、写真のとおり、楼門に続く塀に帯状の横線が5本入っている。これは定規縁(ジョウギブチ)といわれる築地(ツイジ)である。筋の数は格式により異なり、5本を最上としている。この筋塀は、天皇の勅許が必要であり、天皇家との繋がりがある廟だからつけたものである。勿論楼門の扉には菊の御紋が入っている。
3.御島鳥居
Photo_4  
仲哀天皇を亡くされた神功皇后は、香椎宮の北方の香椎潟の小島に渡られ、神のご神託をお受けになった。その島を御島(ミシマ)と称し、霊地として尊崇すべく海中に鳥居が建てられ、御島鳥居と称している。これに因みこの辺り一帯の地名は「御島崎」となっている。

 最後に、大伴旅人の詠んだ句を挙げておこう。
「いざ児ども香椎の潟に白妙の袖さえぬれて朝菜つみても」(さあみんな、香椎の干潟で袖の濡れるのも忘れ、朝の藻を摘もうではないかとの意)

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2011年2月21日 (月)

倭国の興亡12: 古朝鮮・建国神話から実在の国へ

 前回、中国史書による古朝鮮を紹介したが、今回は韓国の史書を見よう。正史の『三国史記』(12世紀選進)は中国史書の引用などで、ある程度正確とされるが、4世紀以前の古代は不詳である。そこで、唯一の古代朝鮮を載せており、正史の補完的史書の『三国遺事』を見ると、
 「天帝の子・桓雄(神人)が人間を救うため、太白山に天下った。そこにいた熊が桓雄の諭によって人間になり、桓雄の情けを受けて生まれたのが、最初の君主の檀君王倹である」とされている。神檀樹を神の憑代(ヨリシロ)とする呪術信仰に基づく説話であるが、日本にも影響したとされる降臨神話である。この檀君が阿斯達(アサダル:遼東にあるとされる)という処で、紀元前2333年に国を開いたのが始まりとされている。

2  「檀君本記」によると、紀元前12世紀頃、中国の武王が箕子を朝鮮王に封じたので、檀君は隠栖して山神となり、「箕子朝鮮」が誕生したとある。勿論箕子の実在性は疑問であるが、BC4世紀に朝鮮という国があって、前回にも記したが、本拠地は平壌にあった(通説)とするが、新説では遼東方面にあったとする。図は前4世紀の箕子朝鮮所在地をしめす。

Photo_3  BC3世紀前漢成立の頃、遼東方面の燕国の王が追われ匈奴に逃れると、燕人の衛満は郎党を引連れ東方の朝鮮に亡命し、「衛氏朝鮮」を建てた。ここまでを一般に古朝鮮という。檀君朝鮮及び箕子朝鮮の実在は極めて疑わしく、神話の域を出ないが、衛氏朝鮮は間違いなく実在したといわれる。
 衛氏朝鮮は
BC108年前漢・武帝の楽浪郡設置により滅ぼされ、古朝鮮は滅亡した。武帝はさらにその北の満州・撫順に玄菟郡、半島北東部の永興に臨屯郡、西海岸に真蕃郡を置き朝鮮全体を直轄地とし、役人支配の郡県制をしいた。
 しかし、現地の小首長層の反発で、
BC82年に真蕃・臨屯は廃止、玄屯東岸部は放棄され、後漢になると楽浪郡の支配地は縮小する。

 衛氏朝鮮は朝鮮半島で領土拡大に努め、中国から多くの移民を受入れた。この時、漢民族に土地を追われた人々が北九州に移住し、弥生人となったのである。 

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2011年2月19日 (土)

春らしくなって

 先日までの寒さも和らぎ、散歩途中の景色にも春らしさを感じるようになった。
Photo_3   彼方此方の白梅がやっと咲きはじめ、まだ5分咲きといったところだが、大変にいい香りを放っていた。梅の香を殆ど忘れかけていたので、ああ、こんなにもいい香りなんだと改めて感じいった次第。写真は香椎神宮の境内の梅。

Photo_4  散歩コースにある池にも暖かい陽射しが当たり、たくさん群れをなして飛来していた鴨たちも、北方へ飛び去ったのか、残された、或いはここに居ついてる?鴨が4羽、岸部で日向ぼこをしていた。背景の木は未だ芽も出ず枯れ木のような様で、これが返って、春の日差しを温かく感じさていた

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2011年2月17日 (木)

倭国の興亡11: 中国史書の古朝鮮

 日本の縄文期の朝鮮半島には未だ国家は存在せず、日本列島と同じく、集落やその集合体の小さなクニは存在した(遺跡発掘による物証)が、部族間の融合や統合は未だ進まず、”国家”まで成長してない状況であったと推定される。
 ところが、古代朝鮮ともいわれる古代国家が存在したとの神話伝説は別にして、比較文献学上、中国の史書・古典には古朝鮮の存在が確認できるものが二つある

Photo  その一つは西暦前1000年初頭、殷・周政権交代の動乱期、最後の殷帝・取辛王紂の叔父の箕子が興したとされる「箕子朝鮮」。もう一つが、西暦前195年、西漢台頭の初期、沛公・劉邦の妃・呂后の功臣除戮の難を逃れた衛満が箕子の後裔箕準を裏切り、漢民族を根幹として興した「衛満朝鮮」である。
 朝鮮建国神話では、箕子朝鮮の前に、檀君王倹という”神人”が国を興したとする神話を含め「古朝鮮」とされることが多い。神話ではその本拠地は北部朝鮮の平壌であるとするのが通説である。尚、「朝鮮」が現朝鮮半島に適用されるのは14世紀に半島が統一されてからのことで、古朝鮮とは全く別である。

 ではその古朝鮮は何処に存在したか。これも中国史書から見てみると、「史記三注本」の『史記集解』に次ぎの記述がある。
 「朝鮮に湿水、洌水、汕水あり、三水合して洌水となる」
 即ち、「古朝鮮」には洌水があるというのである。この洌水の所在地は『後漢書郡国志』「列は水の名、列水は遼東にあり」と、また、『資治通鑑』の「漢記」には「列口、県名なり、列水の河口は遼東にあり」と。列と洌は往々にして混用されるそうだ。
 これから、遼東方面を見ると(地図参照)、三水合して「洌水となる」河は「太子河」であり、合流するのが「遼河と「渾河」であることがわかる。
 尚、「漢書地理志」に列水の記載あり、起点や全長なども太子河に合致するそうである。このことから「古朝鮮の所在地」は従来の通説・平壌とは異なり、最近の新説では、遼河以東・太子河一帯地区に存在していたという。
 尚、建国神話と従来の定説は次回に紹介する。

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2011年2月15日 (火)

紅梅が満開

 日本全国を厳寒に包みこみ、太平洋岸に大雪をもたらした寒気団もようやく引き上げてくれたか、今朝は予報どおり寒さが緩んだ。今回の雪は余り雪に馴染みがなくなった若い人たちにはいい経験になったかも知れない。滑って転んで怪我をして、雪の中での生活を体験し、日本海沿岸地域の人々の生活苦も少しは理解し、思いやる心が芽生えたなら、災も転じて幸いである。
Photo  そんな中、蕾を付けたものの、この寒さにびっくりしたか、なかなか咲いてくれなかった紅梅がやっと満開になった。時々、鴬のような小鳥も飛んできて、枝から枝へと飛び回り、長閑な春らしい気分に浸してくれた。あと一回、奈良のお水取りの頃の寒さを越えると本当の春になる。やはり春がいいですね

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2011年2月13日 (日)

倭国の興亡10:環状列石と縄文の継承

Photo  環状列石 縄文中期後半(4300年前)位の東日本では石に霊が宿ると信じ、石を墓地の標石や崇拝の対象とした。墓石の始まりである。これらの配石墓が環状列石につながったようだ。写真の如く石が環状に並んでいる遺構である。
 小牧野遺跡(青森市)の場合、直径約35mの外帯と内帯、3mの中央の環で構成され、東に50基以上の墓地と掘立建物群、南東に9基以上の地下貯蔵穴、北東には物送り・捨て場がある。
これは人の葬送を行い、霊を封じ込め、災いを封じ込める儀礼を行う場所であったようだ。寒冷化による自然環境悪化に伴う集落の衰退を抑える為にもマツリと呪術に頼るしかない後期・晩期の停滞社会だからこそ、これら祭祀が発達し、呪術に支配された。これが後の古墳築造やその祭祀具の青銅器につながって行ったといわれる。

 やがて、九州、瀬戸内、日本海側平野部、大阪・東海地方で、小規模ながらの水田稲作農業が開始される。弥生時代の到来である
 しかし、縄文時代に確立した生活技術や精神文化は、その比重が東から西に移ったとはいえ、殆どその基層文化は弥生まで受け継がれた。弥生的上層文化が発達する中、縄文以来の食料捕獲・採取と加工保存法には、米作農耕の影響はそう高い比重を占めたわけではない。
 従来、縄文から弥生への転換は縄文人(漁労が主)と異なる文化を持った弥生人(農耕が主)が列島に渡来し、九州から四国、瀬戸内、山陰そして大和へと広がり、倭のクニを形成した。当然縄文人は東へ追われ、最終的には弥生人に服従した。現在日本人の祖はこの弥生人である。と、まるで民族大移動のように、縄文文化と全く異なる弥生文化が列島に移り来て倭国を創ったかの如き論が横行した。
 しかし、最近の考古学から見れば弥生時代になって、社会がガラッと変わったような痕跡はないと言われる。例えば石斧・石包丁など大陸系磨製石器も九州北部でさえ使用比率は3割程度で、近畿で1割、その他は殆どない。半島では既に使用されていない打製石器で生活していた。道具の一部は鉄製となるものの、採取・漁猟の対象、技術、道具など全て基本的に見事弥生時代に継承されたのである
 現代の生活の原型は、縄文時代に既にその基本が作られ継承されてきたのである。

 

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2011年2月11日 (金)

路傍の小花

 今年最後の寒気か、今回は太平洋側の低気圧とかで、今日から明日にかけては太平洋沿岸各地に雪が降り、気温も0~3℃と予報されている。逆に当地では降っても雨だとか。そんな寒気の中、変わり映えしない風景の中に小さな花が春を喜んでいるように咲いていた。
Photo  これは野草。名前はわからぬが、道端の3,4坪の小さな畑に、一面に咲いているのである。花の径は5mm程度の小さな花だ。
この畑も、夏から秋にかけては、きゅうり、とまと、なす、きびなどが植えられ、夫々収穫されたが、晩秋になると、放置された。結果この草が畑一面を覆ってしまった。只、不思議に、この草以外雑草は一本もないので、かえってきれいな花畑のようで美しい。

Photo_2  これは、民家の門の脇の花壇に一塊に咲いていたので、家人が植えたものであろう。名前がわからぬが、これも小さく径は1cmに満たない小さな花だが、十字になっているところが珍しく、これも群生されればきっと美しいだろうと想像する。

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2011年2月 9日 (水)

倭国の興亡9: 遊動から定住へ

 朝鮮半島では紀元前2000年頃から大がかりな雑穀栽培が広まった。智塔里遺跡(黄海南道・鳳山)では炭化したヒエがまとまって出土している。そこから、石製の鋤、鍬、鎌などの農具も出土した。
 日本列島でも北海道・南茅部町、臼尻B遺跡の住居跡からアワとヒエの種子が見つかっているが、量は少なく農耕を行った形跡は少ない。三内丸山では紀元前3500~3000年頃クリ栽培をしていたが、主食はサケ、マス、イルカ、貝類で、海辺に生活本拠を置いていた。

Photo  縄文のクニともいえる社会・文化圏を形成した東日本の縄文文化は中期後半(紀元前2500年)にピークを迎え、定住集落は大規模となり、豊富な食料、活発な物資の流通そして、マツリと祈りが安定した定住生活を支えていた
 しかし、地域によって縄文文化の変遷は一様ではなかった東日本の場合は縄文中期後半には急速に崩壊した。その崩壊の要因1.気候の寒冷化による自然環境の悪化による食資源不足。 2.集団生活の肥大化による集団内の軋轢。 3.集団のゴミ・糞尿の処理困難、衛生環境の悪化(疫病)などが、考えられる。
 後期前半には持ち直したものの、弥生前期の2000年間は停滞した。そして、縄文後期半ば以降晩期まで、東北の文化は東北南部、北陸、東海地方に移動して、大規模な環状集落が発達した。

 一方、西日本では、縄文中期では未発達であったが、中期末~後期初頭には東海・近畿地方に定住集落、大規模貝塚が安定して見られる。
 後期後半(3500年前)には九州地方にも安定した定住集落・大規模貝塚などが作られ、各種石器、漁具、祭祀具、装身具の発達も見られる。特に熊本・宮崎では30~40棟の竪穴住居が環状に分布する定住集落跡がある。これは寒冷化により広葉樹が繁茂し、食糧資源豊富な生活環境がよくなったことによるものだ。

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2011年2月 7日 (月)

陽気に誘われて

 先日、九州国立博物館で開催中の「大陸との文化交流展」を見に行った。序に隣の太宰府天満宮に参拝し、梅林を覗いてみたが、梅は未だ蕾のままであった。
001  これが、九州国博。黒川紀章の設計になり、全館ガラス張りのモダンなスタイルである。
文化交流展は縄文期の遺跡発掘物など、多数が展示され、現在小生のブログ「倭国の興亡」にも添付している画像にあるようなものの現物を直に見る事が出来て、感激した。
Photo  序に、隣接する太宰府天満宮に参拝。梅林を覗いたが、残念ながら、未だ全然開花してない。ここは山間で元々寒い所なのでおそいのかもしれない。
 これが山門。今は高校・大学の受験シーズンで、合格祈願の受験生及びそのご父兄でごった返してる感じだ。
Photo_2  これが本殿。右近の桜。左近の橘が植わっているが、勿論蕾も固い。祈願を終えた受験生は立ち並ぶお札やお守りを売る店に群がり、又願い事をかいた「絵馬」をぶら下げたり、何処も同じ風景を展開していた。
 帰りに梅が枝餅を買ってかえった。

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2011年2月 5日 (土)

倭国の興亡8: 三内丸山遺跡

 三内丸山遺跡は県営球場建設に伴い、大規模な事前発掘調査により、発見された。
Photo  この遺跡は代前期中頃(約5500年前)から中期末までを中心に凡そ1500年続いた大規模集落跡である。中でも直径1mの栗の巨木を4.2m間隔で6本立てた大型掘立跡は驚異の的となった。これが何なのか未だ不明だが、建物説と木柱列説があるが、今は祀用の建物説がやや強い
 この遺跡は有名なので、ここでは際立った特徴だけを紹介しておこう。
1.模な土木工事による造成の集落である。
2.大型の掘立建物や集落中央の屋根筋を通る道を中心に、極めて計画的に構成・配置された集落である。
3.自然の恵みに加えて、クリなどの栽培も取り入れた安定した経済が営まれ、長期に亘って定住生活が続いた。
4.木製・骨角製を含め、様な道具が多数使われ、良好に保存されている。
5.多種類の遠隔地物品が発見され、遠隔地との交流が認められる。
6.進んでいた縄文文化の多様な要素が、総合的に存在した遺跡である。
 以上、広い、大きい、遺物が膨大、1500年続いた遺跡などが大きな特徴といえる。

012  この時期、東北地方北部は典型的な大規模集落が栄えた、東日本縄文文化の隆盛期でもあった。津軽海峡から太平洋沿岸部に掛けては「貝殻文土器文化」が、東北北部から北海道渡島半島にかけては「円筒土器文化圏」が発達した。東北南部から新潟にかけては「大木式土器文化圏」が、信濃川流域には「火炎土器」(写真)があり、更に西日本ではそれぞれ特有の文様の土器文化が形成された。
 関東・中部地方集落形態は「環状集落」が発達し、東北北部や北海道南部とは大きな地域差を持っており、他地域とは言葉も通じない異なった部族が住んでいたといわれる。

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2011年2月 2日 (水)

寒緩む

 昨日は久しぶりに寒が緩み、正月以来5℃前後だった最高気温も10℃近くまで上昇した。普通の冬型天候の三寒四温に戻ったのか、ここ2、3日は10℃近い日が続くとの予報である。
Photo  何となく春めいてきた日差しの中を、ゆっくりと散策した。しかし今頃咲いているのは山茶花ばかり。今満開といったところか。昔から生垣に使われた種類で、これも民家の生垣である。寒かった割に、これは余り傷まず咲いていた。

Photo_2  この種の小鳥が今頃よく飛んでいて、近づいても余り逃げない。雀より大きく、鳩より小さいといった感じで、全体に褐色系で頭と腹部後方がほんの少し黄緑がかっているかんじである。大きさから言って、モズ、ムクドリ、ヒヨドリの類かと思うが、名前がわからない。
Photo_4  ご存知の方お教えください。

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