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2011年1月

2011年1月31日 (月)

倭国の興亡7: 温暖化と縄文早期

 朝鮮地域における新石器や隆起文土器と呼ばれる土器の出現は、紀元前6000年頃といわれる。継いで、紀元前4000年頃から、櫛目文土器が広まった。東アジヤに分布したツングース系の文化である。
Photo   一方日本列島には半島より約6000年早く、新石器(縄文)時代が訪れ、縄文文化速やかに列島全体に広がった。縄文早期(紀元前14000年頃)シベリヤ東方から千島、樺太経由で細石刃(石器)が広まっており(図参照)、これを伝えた人々が縄文土器を生み出した。つまり、縄文文化は半島は半島から来たものではないことを示し、弥生直前までは日本と韓国の文化系統は異なっていたと言える。
 氷河期終末(1万5千年前)位から、列島は急激に温暖化し始め、約1万年前に現在の気温と成った。温暖化により、広葉樹の繁茂、木の実、猪鹿の生息が始まった。氷河が消え海水面も上がり、内湾が形成、魚介類が繁殖した。この環境変化は、採取、魚労、狩猟を可能にし、定住生活を可能にした。それは、用具の発展を来たし、生活に大きな革命をもたらした。北海道は本州以南より3、4千年遅れたものの、同様の変化が起こり、竪穴生活を営み始めた。
Photo_2  縄文時代に出現した素焼土器は、質量共に際立っており、世界最古といわれる。縄目ほか色んな模様や形状があり、としての深鉢も多く造られた。
 従来縄文文化は北方起源が定説だったが、桜島火山灰の下から縄文早期の遺跡が発見され、2段階説となった最初の段階は旧石器時代からの細石刃を主に石器と無文土の時代で、本州~九州同時に始まっている。次の段階は、九州南部から石皿、敲き石、流体文、隆起線文土器が始まった。
 1万3千年前に南九州に成立した縄文文化は暖流に乗り四国、紀伊半島、東海、南関東まで範囲を広げ、その後、山陰、近畿、北陸地方に北上した。
 縄文期の「定住」が生活に革命的変化をもたらしたが、定住には、竪穴生活のような施設、発生するゴミ処理の場所、死者を埋葬する墓が必要で、考古学ではこの3点を定住集落の要件としている

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2011年1月29日 (土)

霧島・新燃岳噴火が続く

Photo  霧島山系の新燃岳は27日、第一回の爆発的噴火をし、28日午後にも2回目の爆発噴火をして、その後も衰えず噴煙を上げている。噴煙はかなり大きな石が混じった砂利状の灰を降らせ、高さ1500mまで吹き上げている。東南に吹く季節風の為、霧島より南東の宮崎・鹿児島地区は一面に5-10cmの灰が積もり、農作物を傷め(壊滅)、道路を塞ぎ、家屋の屋根の灰除去作業に追われている
 爆発時には大きな岩石も飛び、家屋や自動車等が壊れ、日常生活にも大きな打撃を蒙っている。

 この噴火は昭和34年以来52年ぶりだが、その時は熔岩流出はなかった。しかし、今回マグマが噴出し火口にたまり、溶岩ドームを形成している。又小規模ながら火砕流が発生し、500-600m流出したのが確認されている。マグマ噴出は文政5年(1822)以来189年ぶり、火砕流発生となると享保噴火(1716ー17年)以来、約300年ぶりの大噴火となる。享保噴火は収束まで1年半かかっている。

Photo_2  今のところ衰えを見せず、このままマグマの供給が続けば、火山灰がガスと共に山腹を流れる「火砕流」となる怖れがある。雲仙の普賢岳と同じく熔岩ドーム崩壊時に流れ出す「メラピ型」火砕流が起きる可能性があるという。
 又、マグマ組成が、享保噴火のマグマに近いことが28日判って、今回の噴火も長期化する可能性が指摘されている。噴火の様式は、マグマの組成と、粘性によるというから、非常に心配される。
 宮崎・鹿児島は「口蹄疫」「鳥ウイルス」と災難を蒙り、さらに噴火が追い討ちを掛けている。何とか早期に終焉することを祈る。(写真は毎日新聞より)

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2011年1月27日 (木)

倭国の興亡6: 日本民族の起源

Photo  400年前にアフリカで誕生した人類の祖は170万年前の寒冷期を過ぎて、その一部がインドを経てスンダランド(図示)に来た集団がある。間氷期には一部は海没し現状の地形になったが、80万年前陸続きだった頃から北へ移動し始め、大陸にいた先住者を更に北に追いやり、北京周辺に定着した。京原人である。
 これら北に追われた旧石器時代の「原人」たちは大陸と地続きだった列島にも渡来し、海没後の列島内での狩猟・漁猟の遊動・魚労の遊動民となった。
 更に、この北上した新人類達は東流し、南下してアメリカインディアンとなった。これは、遺跡の石器類や貝加工品から裏づけられている説である。
Photo_2  4万年~3万年前の旧石器時代の石器や貝などの遺跡出土品で、人類が列島内で生活を始めたことは明らかである。これらの人々は図示の如く、色んな方面から列島に到来し、多様で異質な文化の複合・重層により、「日本民族」を形成した。日本語は北方アルタイ語系と南方マライ・ポリネシア系の複合であり、日本神話はユーラシア大陸的要素と環太平洋海洋民族的要素の複合の現れだとも言われている稲作民の農耕儀礼、北シャーマニズム稲作と照葉樹林の焼畑農耕の重層などがそれを示す。

 石器時代(3万5千年前)になると、列島には石斧、台形様石器、ナイフ形石器など固有の道具類が誕生し、から独立した文化圏を形成した。その後も更に地域性が明確になり、約2万年前には地域により異なる石器が発達した。
 期後半には団生活も行なうようになり、離合・集散しながら遊動生活をした。またかなり言語も使ったといわれる

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2011年1月25日 (火)

寒風に春膨らむ

 相変わらず最高気温5、6℃の厳寒が続いている。でもそんな中、よく見ると木々の新芽が膨らみ始めている。こんなに寒くて、気圧配置は全くの冬型であるに拘わらず、どうして草木は芽立ちを始めるのだろうか。きっと単なる寒暖ではなく、太陽と地球の(公転軌道の)位置関係で、植物生理は動いているのではないか。自然は何によって動いているのか不思議ですね。
012  そんな中、蝋梅が満開の時期になった。真冬に咲くので珍重されるが、花の色は地味ではある。昆虫類がいない時は派手な色である必要が無いのか。これも自然の摂理だろうか。
Photo  紅梅がもう開花を始めた。こんな寒さの真只中で、もう春が近いことを感知するセンサーを持っているに違いない。逆に言えば、人間の感覚なんて鈍いものなのか。
 何れにしろ春が近いことは嬉しいことだ。

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2011年1月23日 (日)

倭国の興亡5:列島形成と人類出現

 愈々本論に入ります。先ず日本列島の形成とそこに人類が出現した時代からスタートします。文章説明より図表表示が判りやすいと思いますので、図表を表示します。
日本列島形成
Photo_4  洪積世には氷河期と間氷期を4回繰り返し、大陸と列島が地続きとなったり離れたりを繰り返し、大陸との間を人類及び動物が行き来していた。
人類の出現
Photo_5  
約2500万年前、類人猿から類が分化し、170万年前から旧石器時代前期の間(約8万年前まで)に猿人→原人と進化し、ネアンデルタール人出現後、約4万円前(旧石器後期初頭)には新人(現代人・クロマニヨン人)が出現している。
 
日本列島でも牛川人(愛知)、三ヶ日人(静岡)、葛生人(栃木)、港川人(沖縄)などの洪積世人骨が出土している。
 尚、
群馬県岩宿遺跡では旧石器時代後期(3万5千年前~1万3千年前)の石器も発見された。又、正式認定されてないが旧石器・中期と見られる石器類も発見されているが、日本ではこれ以上古い石器はない。
 現在
日本での最古の人類の痕跡は凡そ8万年から4、5万年前の中期旧石器時代の石器まで遡るといえる。類似した石器類がシベリヤに広く分布し、本列島は東北アジヤ文化圏に含まれることを示している。
 又、野尻湖湖底遺跡(5万年前~3万3千年前の堆積層)から出土したナウマンゾウやオオツノシカの骨や骨を加工した道具類、石器類が当時の狩猟生活を示している。先日(1月20日)石垣島洞穴遺跡で2万4千年前の地層から人骨が発見され、今後の直接測定で最古となる可能性があると発表された。

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2011年1月21日 (金)

大寒を過ぎる

 昨日は大寒だった。1年中で一番寒い日である。即ち陰暦で1年24節気の24番目の節気。旧暦の12月中旬で、小寒と立春の中間なのだ。天文学上は時刻で表現し、今年は1月20日10時18分が大寒点だそうである。
Photo  これを過ぎると立春に向かう。即ち春に向かうので、今日は薄日ながら、日も差すので田圃のある方面へ歩を進めた。しかし、いわば冬のど真ん中、遠くの山は薄っすらと雪を被り、田圃には何故か鳩と雀が群れを成して舞い降りて、何かを啄ばんで居る。人が近づくとご覧のように空に舞い上がり、すぐに又舞い降りる。冬の小鳥は何故群れるのか。

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2011年1月19日 (水)

倭国の興亡4: 序論3 日韓の風土と信仰

 半島南部の伽耶国があった慶尚北・南道の一帯は日本に非常によく似た景観で、植物の植生も日本で見られるものが多い。特に飛鳥地方は新羅の古都慶州によく似た風景だから、渡来者がここに都を定めたのも不思議でない。自然風土がよく似た環境であれば、弥生期に半島から列島に相当数の集団移住があってもおかしくはない

 このようによく似た風土の中で育まれた日・韓の信仰と宗教を見てみよう。
 日本の神道縄文人の精霊崇拝から発展した。すべての自然現象は神々の働きだとし、自然界に色んな神の存在を信じ、動物も人間も霊魂をもち、死後神になるとした。自然神「磐座(イワクラ)信仰」、卑弥呼の「シャーマン」、「呪術」なども派生した。後の仏教などの外来信仰も、精霊信仰と融合しつつ今日に至っている。
 一方半島にも精霊信仰があった。また三国志東夷伝には古代の高句麗や濊や韓で、天神と地神を祭っているとある。日本の天神(アマツカミ)と国神(クニツカミ)の発想と似ている。新羅では6世紀に花郎(ファラン)の習俗が発展し、山深い地で山上と交霊した人を尊ぶ。これは日本の山伏に代表される山岳信仰にも似ている。

 そんな中、中国より372年に高句麗に伝わった仏教は、4世紀以降朝鮮半島に普及したが、固有の信仰との対立はなく、新羅では花郎とも融合した。しかし、高麗が立つと教が護国鎮護の法とされ多くの寺院が建ち、有力寺院は広い寺領を有するなど、固有信仰は大きく後退した。
 ついで李朝朝鮮が儒教を国教としたしたため、14世紀以降は寺院の地位は大きく後退し、社会の指導原理として儒教を第一とした。
 尚半島ではその後道教なども出たが、教で王家の支配を正当化することはなく、王家を支える宗教がなかったことが歴代の王朝を短命にした

 日本への仏教の伝来は百済から5世紀の初め新羅を経て「豊の国」に伝来したのが始とされる。但しこれは釈迦ではなく、弥勒菩薩を拝む弥勒信仰である。公式には552年百済の聖明王が経典と仏像をもたらした事になっている。

 以上我等の祖先である弥生人は半島から渡来し、縄文人と混血しながら倭人となり、生活文化や精神文化も含め、その後継続的な交流を重ねながら、「倭国」を形成していった。この事実から日本・朝鮮同祖論もとなえられた。

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2011年1月17日 (月)

久しぶりの好天

 快晴となり、少し白い雲が浮かんでいる空は高く、気持ちのよい冬日和となった。でも、空気は冷たいので、防寒着で、防寒帽を被っての散歩である。
Photo  通りすがりに見つけたこの鉢植えは、聞くと「ヒューケラ」という観葉植物だと教えてもらった。田舎にあった「ユキノシタ」に非常に似ていると思いながら、帰って調べてみると、ヒューケラはユキノシタ科ヒューケラ属の観葉植物で、北アメリカ原産だが、日本にも昔からありツボサンゴとも呼ばれている由。
 ご覧の如く1鉢ではあるが、葉が色々あるのがお分かりであろう。葉の色は豊富で20種位あるそうで、葉の大きさや形もいろいろあるようだ。開花期は初夏(5-6月)で茎が20-30cm伸びて白~ピンクの小さな花をつける。葉は常緑性でー15℃までは枯れないという。余り手が掛からず、ものぐさ向けにおすすめか。

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2011年1月15日 (土)

倭国の興亡3: 序論2 弥生人の人種と語族

 縄文時代に日本列島に渡来した「縄文人」は、シベリヤ方面からと南西諸島伝いの南方型が多かったという。
 その後、縄文末期から弥生にかけて、南方方面やヒマラヤ山脈から中国南部に住んでいた「倭人」の集団が海を渡って直接或いは朝鮮半島経由でやってきたのが「弥生人」で、従前と異質の「弥生文化」をもたらしたとされている。

 このことは血液型からも判る。東北地方ではB型、O型が多いが、西日本ほどA型の比率が高く、海辺に住む人はB型が多いという。この傾向は近畿地方から西日本に行くほど朝鮮人の型に近くなっていることと無関係ではない。即ちO型の多い縄文人が、弥生人に追われて東に移動した証拠と考えられる。
 頭蓋骨の分類では、白人は長頭、日本人は中頭、朝鮮人は短頭である。弥生人が多く移住してきた瀬戸内から近畿にかけては短頭の人が多く、弥生人には韓人がかなり混じっていることがわかる。
 人種判別法に「B型肝炎ウイルス」比較法というのがあるそうだが、それによれば現在の日本では南方型が南西諸島や沖縄では89%と最も高く、九州から近畿では10~20%と低く、本州では秋田県が最も高いそうである。これからも、圧倒的に南方系が多かった日本列島が、北方型の弥生人によって、縄文人が北に追いやられたというのが通説である。

 次に日本語と朝鮮語の相違点と類似点を見ると、双方とも同じウラル・アルタイ語族といわれながら、相違点が多く、日本語は「世界に稀に見る孤立性の高い言語」だといわれている。
 共通点は語順が同じで、冠詞や語の性別や単複数の別が無いこと等あるが、発音が著しく違っている。更に基礎的な共通単語が余りにも少ないことから、異系統の言語説の論拠にもなっている。
 ところが、近年朴炳植氏、金思燁、李寧熙氏等の学者は、多くの日本語は古代朝鮮語に由来しており、純粋なヤマト言葉もかっての伽耶国(慶尚南北道)の言葉だという。
 個々の単語は半島からの渡来語だけでなく縄文期から列島内部で使われた言葉も一杯あり、それに南島方面や東南アジヤからも伝わって、混成、合成された複合語であるのは間違いない
 

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2011年1月13日 (木)

文旦を見つけた

 今日は今冬一番の寒さ(最高気温4℃)」とか。しかし久しぶりの晴天なので、防寒着、防寒帽にて、歩いてきた。
Photo  今の季節、柑橘類が目につくが、これはここら辺りでは珍しい「ブンタン(文旦)」。ボンタンとかザボンとの呼び方もある。主に熊本以南には多く植えられており、鹿児島の「ボンタンアメ」が有名である。
 大きさは20-25cm位で、重い。蜜柑の種類であり、食べるとあっさりした味。果皮が肉厚で、砂糖漬けにしたものがみやげ物として売られている。他の柑橘と同じく風邪にはよいとされているが、何しろ大きいので、貰っても迷惑?。
Photo_2  これは我家の庭の水仙。正月には2輪ほどしか咲いていなかったが、正月以来の長雨で株も大きくなり、花も沢山咲いてきた。何処の庭でも今花盛り。蝋梅にしろ、水仙にしろ、どうしてこの寒い時に咲くのか不思議だが、神様の按配によるものか。

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2011年1月11日 (火)

倭国の興亡2:序論1 違う視点から

 最初に、倭国の地理的範囲に触れておきます。倭国と言えば何となく「日本列島」をイメージしますが、古代には未だ倭国という「国家」は存在せず、列島の一部の地域が倭と呼ばれていたのです

 未だ大陸と地続きであった列島には、大陸の人類が移り住んだと考えられています。旧石器時代を経て、縄文時代から弥生時代になって、遊動生活から一定の場所に定住する生活に変わり、小さなムラとなり、更に集合したクニ(集落)が形成されていった。
 このクニグニは互いに交流やせめぎ合いを続けて、朝鮮半島南部と九州北部を行き交いながら、一つの文化を持った生活圏を形成していった。それが徐々に四国、中国地方西部まで広がり、この地域が『倭』と呼ばれるようになったのです
 勿論、列島には縄文時代から、南は琉球、奄美、北は東北まで縄文人がいたし、それなりの文化を持っていたことが最近の遺跡発掘からもわかってきました。しかし、これらは「倭国」とは別の文化圏であり、「倭」との交流や支配は及んでいません。
 だから、この「倭国の興亡」は「倭」と称された地域(のちには、近畿、北陸、中部まで及ぶ)に、8世紀初頭に「日本」という「国家」が誕生するまでの盛衰を描きます

2_2  このことを視覚的に納得するには左図の如く、日本を中心にして見たり考える習性から抜けるため、大陸、半島から客観的に列島を眺めてみてください
 この列島の西部と半島の南部を含めた地域は非常に近く、古代共通の生活文化圏だった「倭」だといっても何の不思議もない感じがしませんか。又、中国とも大変近いことが判ります。これが彼等の視点です。図:大陸から見る列島地図(講談社「日本の歴史」00巻より)

 

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2011年1月 9日 (日)

やっと晴れた

 暮れから雪や雨が降り続き、寒くて暗い日が続いていたが、昨日は久しぶりに太陽が顔を出した。風景が明るいとやはり晴れやかな気分になる。
Photo  正月の間、借りていた本を返しに図書館に出かけたついでに、その近辺をウオーキングがてら、散策した。
 これは、図書館の庭のバラ。葉は殆ど散っているが、深紅の花はひと際晴れやかな雰囲気をかもしていた。
Photo_2  少し歩いた所からの遠望。山にはまだ薄っすらと雪が残っている。この山は太宰府天満宮の裏にある竃門(カマド)神社から登ると、右から宝満山(869m)、三郡山(936m)、砥石山(774m)と続き、若杉山に到達する連山である。
 昔の山伏達が修練した霊山である。小生も若い頃、富士登山の前にトレーニングの為、友人と5時間がかりで尾根伝いに縦走した。
 

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2011年1月 7日 (金)

倭国の興亡ー半島との交流史ー1:はじめに

 これまでの古代史関係のシリーズ連載で、古代史を読み漁り、日本の古代は未だ不明の事柄が多く、諸説紛々たることを知りました。今回はこの古代の日本即ち「倭国」についての通説や異説を紹介し、古代の謎に挑んでゆきます。

 中国の史書に、紀元1~2世紀の頃の「倭」という蕃夷のクニが朝鮮半島(以下半島)の更に先にあると(聞いて)書かれたのが、最初に歴史に登場した「倭」です。
 以降、三国志の「魏志」東夷伝倭人の条などに2世紀末から3世紀半の「耶馬壹国」女王卑弥呼が都を置いた「倭」国があったと書かれています。しかし伝聞に基づいて書かれたもので、何処まで真実かは判っていません。未だに「耶馬壹国」の所在場所もわからないのです。
 特に「謎の四世紀」といわれる4~5世紀にかけての「倭」の状態は中国・韓国の史書にも出ておらず殆ど判ってないのが現実です。
 日本の正史として書かれた「日本書紀」によっても、いろんな事が類推できます。しかし、これは編纂した当時の王統系譜の正当性を裏付けるために書かれた書物で、且つ当時の半島や中国の史書を都合よく利用しており、「史実」といえるかどうか疑わしい部分も多いのです。

 しかし最近、土地開発や道路・鉄道工事などで古代の遺跡発見・発掘が大規模に行なわれるようになり、列島の「史実」が少しずつ明らかにされ、過去の歴史観や学説が修正されつつあります。その結果これまでの常識が覆され、逆に謎が深まることも多いようです。だからこそ「古代史」が面白く古代史マニヤも多いわけでもありますが・・・。

 そんなことで、今回は「倭国の興亡」-半島との交流ーと題して、列島誕生から倭国誕生、そして半島との攻防や交流による倭国の盛衰を経て、倭国の滅亡即ち「日本国の誕生」となるまでの興亡史を追って見たいと思っています。

 どうぞ、末永くご愛読頂き、誤り指摘やご異論など頂戴できれば幸甚に存じます。

 

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2011年1月 5日 (水)

ゴッホを観る

 明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。又、このブログへのご訪問もお待ちしております。

Photo  この正月は今日まで毎日、氷雨が降り続き、寝正月を決め込んでいたが、昨日は流石に飽きて、帰省中の息子一家と共に、九州国立博物館で開催中の「ゴッホ展」を観に行った。寒くて今日ならば、隣接する「太宰府天満宮」の初詣も可能であろうと出かけた次第。 
 九国での展覧はいつも多人数で、例えば阿修羅展では3-4時間待ちでの入館であった。しかし、今回はこの寒さの上、雨だから多分待ち時間なしで入場可能と思い行ってみると、目論見通り、入館も待つことなく入場でき、ゆっくり鑑賞できた。
 写真は、ゴッホの自画像をジグソーパズルにしたものを買ってきて、昨日から今日に掛けてやっと完成したものである。

 ゴッホは37歳で自殺したが、画風はミレーにもよく似ている。ゴッホは自己流で自分の画風を作り上げたそうである。デッサンも多数展示されていたが、実に細かくまるで写真を撮ったようなきめ細かい精密な絵が多い。農夫の作業のものが多い辺りはミレーとも共通であるが、歌麿などの浮世絵には心酔していたそうである。

 次回からは、「古代史シリーズ」を新たに開始し、「倭国の興亡ー半島との交流史」のタイトルで、「日本国」が誕生するまでの間の「倭国」が半島南部から瀬戸内、四国、大阪辺りまでを、倭人(縄文人と渡来人の混血人=弥生人)が小さな集落から大王を君主(=天皇)に戴き、日本と云う国家を作るまでの、通説を柱に、奇説、珍説も交え、現時点での「古代」を描いてゆきたいと思っています。関連する面白い話があればお教え下さい。乞うご期待。

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