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2010年9月

2010年9月29日 (水)

マニ教「宇宙図」が日本にあった!

 マニ教の宇宙観を描いた「宇宙図」が国内に存在することが判ったと報道された。
Photo  先ずマニ教って何?という方が多いと思う(小生含め)ので、これの簡単な説明。
 始祖は3世紀にメソポタミヤ(現イラク)で生れた「マニ」である。ゾロアスター教やキリスト教、仏教などの思想を取り入れ、万物は光の要素(精神)と闇の要素(物質)からなる善悪二元論の立場をとった。
 地域や民族を越えた世界的な宗教に発展。キリスト教、仏教、イスラム教に影響したが、11世紀頃より衰退し、やがて滅亡した。

Photo_2  今回京都大の吉田豊教授(文献言語学)が国内に存在することを見つけ、「国際マニ教学会」で公表し、画期的と高い評価を受けた。「10層の天と8層の大地からなる」というマニ教の宇宙観の全体像が、ほぼ完全な形で確認されたのは世界で初めてという。上の写真は此の図の上部部分で、一番上が天国、その下の丸の左側が、右が太陽を表わしている。下の写真は地上界で一番下が地獄、その上の楕円の部分が人間が住む地上、そこからきのこ雲状に伸びているのが須弥山。この中間10層の天だが上手の下方部分が10層あるが、スペースの都合でカットしています。 この絵は現在国内で個人が所有しており、137.1(高)×56.6(幅)cmの絹布に彩色で絵が描かれているとか。仏教絵画との比較で、中国の元(13~14世紀)のもので、江南地方の絵師が製作したものと見られている。日本に渡った時期は不明。 

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2010年9月27日 (月)

彼岸花

 この花、Photo 群生していると見応えがある。今年は暑さが続いたせいで開花が1週間遅れたとかで、今頃見頃となっている。
 この花は雌雄株の別がなく、種子は作らないので、球根で増える。最近薄く橙色がかった白色の花を見かけるが、これは似て非なるもので、鍾馗(ショウキ)水仙といわれる別種であり、種子ができるそうである。

 手折ると、嫌な匂いがするが、鱗茎(球根)にアルカロイドを含む有毒植物である。食すると吐き気・下痢、酷ければ中枢神経の麻痺を起こし、死に至るとか。
 水田の畦や墓地に多いが、前者はネズミ、モグラが田を荒らすのを鱗茎の毒で忌避させる為、後者の場合は土葬の場合、虫除けや死体が動物によって堀荒らされるのを防ぐために人手によって植えられた物であるという。先人の知恵が今に生きている訳だ。

 彼岸花の由来は、彼岸に咲くからというのが普通だが、若し食べたら「彼岸」即ち「死」しかないところから来たとも。又の名を「曼珠沙華」ともいうが、これは法華経などの仏典に由来し、「天上の花」という意味を持っているが、仏教の曼珠沙華は彼岸花とは似ても似つかぬもので白い花だそうである。一説に「壱師の花」がそれで、万葉集に「路のべの壱師の花の灼然く人皆知りぬ我が恋妻は」と歌われている由。灼然く=燃えるごとくの意か。

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2010年9月25日 (土)

柘榴、花と実がつく

Photo  これ柘榴(ザクロ)の花である。勿論花が今時分咲いているものとは知らなかったし、柘榴の花など見た事がなかったので、珍しく思い撮った。
 この木は大きく実も沢山ついているが、花もあちこちついていて、これから実になるであろう。今年は暑かったので、花が遅れて実と一緒の状態となったのかも知れない。

Photo_2  これが柘榴。勿論上の写真の花の付いている木と同じ木に付いている実である。これは大きいほうで、まだ青く小さなものも沢山ついていた。成熟して実が割れるのは大分先のようだ。

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2010年9月22日 (水)

珍しい花2

2  前回に続き、名前も判らぬが、何とも奇妙な花である。青紫色で色は美しいが、長さ約3cm位の大きさで、まるで鳥が口ばしを開けたような感じの花である。
 実はこの花1ヶ月前位から咲いているのだが、早朝ウオーキング時には、花が閉じている。従ってこれから開くものと、いつも見過ごしてきた。今日はやや遅い時間に見ると写真のように咲いていたので、よく見ると、ご覧の通り妙な珍しい花で驚いた次第。

 この花も、周りには1本もなく。これだけが咲いている。野生ではなさそうだが、手入れして植栽した風でもない。風か鳥が運んだものか。

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2010年9月20日 (月)

珍しい花

1  この花の名前は判らない。これはウオーキングコースにある民家の隣の空き地に、雑草にまぎれて一本だけ伸びて花をつけたもの。雑草にしてはたった1本しか生えてない。かといって誰かが植えた物でもなさそうだ。

 この花、咲いてからもう1ヶ月ほど経つが、一向に花の状態が変わらぬのも不思議だ。花は5mm程度の小さなもので、下を向いて咲いている。小さな単体で、風に揺れてピントが合わず判りづらいが、可憐な可愛い花ではある。

 名前をご存知の方、お知らせ下さい。

 

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2010年9月18日 (土)

「円仁の石板」(唐代)の真偽は?

Photo   新聞報道(毎日・文化欄)によると、「平安時代の高僧で、遣唐使として大陸に渡った円仁(794-864)の名前が刻まれた石板と拓本が中国・河南省登封市の法王寺で見つかった」と今年1月に来日した法王寺の住職が、円仁とゆかりの深い大慈寺(栃木県岩舟町)を訪れた。これを聞いた国学院栃木短大の酒寄雅志教授が7月に現地を訪れ、唐代の物と見られると発表していた。

 石板とその拓本は貴重な発見と報道され、又酒寄教授も国学院でのシンポジュウムで「円仁の『入唐求法巡礼行記』に記載が無いが、巡礼行記の空白を埋めるもの」と発表。ところが、一部メディアが、その後石板と拓本では模様と字の間隔が違うと報道。この拓本に合う別の石板が存在するか、或いは両方とも唐代の石板の模作の可能性が浮上してきた。
Photo_2  これを受け、酒寄教授が8月末に法王寺にを再訪。拓本とぴったりと重なるもう一つの石板を見つけた。酒寄教授の帰国後9月2日に国学院大で報告会が開かれたが、「後世の明代か清代のもの」と意見が分かれ、酒寄教授も唐代よりずっと後かもしれないと軌道修正した。捏造品の可能性もあると、関係者の意見も分かれている

円仁:792年(延暦12)、下野国に生まれ、長じて比叡山延暦寺に入り、最澄に師事した。834年43歳で入唐の命を受け、遣唐使と共に旅立つが、船の遭難により838年にやっと入唐。あちこち苦難の修業を重ね、847年に帰国している。
 帰国後更に研鑽し、朝野の尊崇を受け、日本最初の大師号、すなわち慈覚大師の称号を受け、最澄の後を継いで天台宗の深化を図り、天台宗への密教の本格的な導入を果したといわれる高僧である。

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2010年9月16日 (木)

果実の成長進む

 秋の果実も実り始めた。今のところまだ実が青いので、よく見ないと葉に隠れて判らないが、この暑さにも負けず、間違いなく大きく成長しつつある。

Photo  花梨(カリン)。この木にはご覧のように沢山の実が付いている。数が多いからか、やや小ぶりな感じがするが、まだ成長してもっと大きくなるのかな。こんなに数多く実をつけている花梨は見たことが無い。
 これも花梨酒として、飲用すれば咳、喉に効くと言われている。薬用としての効果が大きいが、、蜂蜜を使うと良い香りのおいしい果実酒ができるそうだ。

Photo_2  富有柿。当地では柿も富有が圧倒的多く、郊外では大抵の家に富有柿が植っている。勿論、最近は立派な富有柿が果物屋の店先に並んでいるが、お値段も立派で、買ってまで・・・とは思える。やはり自分家の庭先のを、もいで食べるのが一番美味だ。

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2010年9月14日 (火)

実り始めた柑橘

 いつまでも暑い日が続くが、植物は季節に沿って花から実になりつつある。今回はこの辺りの家庭の庭先にある果樹の内、柑橘類が実をつけているので撮った。

Photo  金柑。この辺りでは多くの家が庭先に金柑を植えている。つい先日まで花ばかりだったのが、いつの間にか実になっている。写真の右の方にはまだ花が付いている。
 金柑は風邪予防に良いとのことで、金柑酒を造る家が多い。

Photo_3  これは温州みかん。庭に温州を植えるのは珍しいが、山裾などの畑などに数本植えてあるのは多い。これも右端にはまだ花が残っているのが判るだろうか。

Photo_4   夏柑。夏みかんを庭に植えている家は多い。一本あればそこそこ数もあるが、冬場の花が無い庭先に黄色い実があるのはそれなりにいい景観である。この木にはもう花は付いてなかった。

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2010年9月12日 (日)

斉明天皇陵を特定

 毎日新聞のトップ記事に「牽午子塚(ケンゴシヅカ)古墳 斉明天皇陵と特定」の見出しが踊った。
Photo  奈良県明日香村の牽午子塚古墳(7世紀後半)で、墳丘が八角形に凝灰岩で石敷きされているのが発掘され、八角形墳と確認された。八角形の墳丘は飛鳥時代の天皇陵の特徴で、天智、天武両天皇の母である斉明天皇が被葬者であることが確定的となった。
 牽午子塚古墳は巨大な凝灰岩をくり抜いた横口式石槨が露出し、貴人に用いられる棺「夾紵棺(キョウチョカン)」などが出土していたが、墳丘の構造は未確認だったという。墳丘は下図ののごとく石敷きであり石槨は16個の巨大な切石が壁のように囲んでいたと見られる。石槨は東西5m、南北3.5m、高さ2.5m、重さ約70トンの1個の巨石であることが判明した。図は古墳所在地。

2_2  日本書紀によれば、斉明天皇は661年に死去。667年までに娘の間人皇女(ハシヒトノヒメミコ)と合葬された。6世紀までの大王陵が前方後円墳だったのに対し、7世紀以降は天武・持統天皇合葬陵や文武天皇陵のようにいずれも八角形となり、他の豪族とは差別されだした。故に牽午子塚古墳が天皇陵であるのは確実である。図は発掘調査状況。

Photo_2  斉明天皇は舒明天皇の皇后で、舒明の後に即位した皇極天皇であり、退位後娘婿に当る弟の孝徳天皇に譲位の後、再び「斉明天皇」として即位。飛鳥において次々と大工事を行い、飛鳥京跡の大規模庭園の石造物など多くの遺跡を残している。
 半島の百済が唐・新羅に滅ぼされた時、救援のため軍勢を率いて筑紫(福岡)に赴いたが、朝倉宮で病没した女傑であった。当時はまだ「天皇」は存在せず、豪族の中の最高有力者が「大王」と称され、当時の倭国をほぼ掌握し、これから「倭国」が「日本国」へと飛躍し、対外的にも「大王」から君主「天皇」の称号に変わる直前の頃の女帝であった。図は墳丘の葺き石模式図。(図は何れも毎日新聞掲載より)

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2010年9月10日 (金)

これは花なの?

 相変わらず、路傍の小さな草花を楽しみながら歩いている。ところが最近、どうも花らしからぬ物に出会って、「これは花なのかねー?」と不思議に気になっているものを紹介。

Photo  これは以前紹介した「小さな花」で、「・・・かずら」という類のつるもの草花の一種かとおもうが、あれは玉粒状の蕾からいきなり開化して細長い小さな花をつけている。
 ところがこれはマッチ棒位の太さで、1cm強の棒状に成長しながら、沢山付いてはいるが「開花」しているのが一輪もない。やはりこれは花ではないのか。

Photo_2  これは、ご覧のとおり、大きさ2~3cm、太さ5mmぐらいの房状のものから白い毛状のものが出ている。これが花なのか、それとも実なのか。又、これは他所の庭にあるものだが灌木に混じっており、雑草なのか植栽なのか判らない。小生はこんなものは始めて見るものである。

Photo_3  直径2、3mm程度の玉が付いている。パッと見たときは木の実がなっていると思ったが、近づいてよくみると、薄緑色のは蕾で、赤味がかっているのは径2mmほどの、実に小さな花なのである。これは小さな灌木であり、野生ではなく植栽したものであろう。木につく花でこんなに小さなのは見たことが無い。

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2010年9月 8日 (水)

ツシマヤマネコの野生復帰訓練計画

Photo  対馬にだけ棲息してる、絶滅の危機に瀕している国の天然記念物ツシマヤマネコの野生復帰のための訓練施設を建設する方針を、環境省が決めたと新聞に出ている。人工繁殖した動物の野生復帰の試みは、トキやコウノトリがいるが、哺乳類は初めてという。

 ツシマヤマネコは1960年代で250~300匹いたと推定されるが、2000年代には80~110匹に激減したとされる。最も絶滅が懸念される「絶滅危惧1A類」に、沖縄・西表島のイリオモテヤマネコと共に指定されている。
 環境省では国内の5つの動物園で人工繁殖にも取り組み、00年以降39匹が生れた。現在34匹が繁殖可能という。
 そこで今回、対馬・下島に13年度までに野生復帰訓練施設を整備し、14年度から野生下で、自力で餌を取る訓練を始める計画を策定し、来年度予算に設計費4,000万円を盛り込んだとのこと。

[ツシマヤマネコ]:ネコでは、日本にはイエネコ以外には、このツシマヤマネコとイリオモテヤマネコ(共に天然記念物指定)しかいない。
 約10万年前に渡ってきたベンガルヤマネコ属の亜種アムールヤマネコ(マンシュウヤマネコやチョウセンヤマネコがいる)の中の変種ツシマヤマネコが分類学上の名前。モンゴル、中国大陸、東シベリヤ(アムール川流域)、朝鮮半島、済州島、対馬に棲息している。

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2010年9月 5日 (日)

古代史の謎:終章

 このシリーズも108回となり、人間の煩悩の数といわれる除夜の鐘と同じ数になったのと、記事の内容もちょうど「古代」を終り、中世に入りますので、これを以て終わりと致します。

 長らくの御視読有難うございました。古代は実を申しますと、文献史学といわれる分野での研究や論争が盛んですが、物的証拠と対応した文献資料は少なく、神話や口称伝承に拠ることが多く、大学の研究所や研究室による専門学者の意見から、市井の古代史愛好家まで、各種各論が吐かれており、未だ判らないことばかりです。
 従って、古代史の謎というより、「古代史は謎ばかり」といえるでしょう。
 特に日本では戦前の皇国史観が全面否定されても、それに変わる真実の古代史はあまり研究されていなかったので、未だに「日本書紀」が古代史の骨格をなしている部分が多いようで、「神話的」部分が削除されただけで、何も判っていないのが現実です。

 考古学の分野で、土木工事などに伴って偶然に発掘された遺跡や遺物で、古代の生活ぶりや集団生活の様子が垣間見れるようにはなりました。その結果、縄文末期には既に定住生活をしており、又弥生期には大陸、半島との行き来もかなり活発にあったようで、集落程度の「クニ」は相当早くからあったようです。それが成長し、首長が王になり国が形成されだしたのいつ頃からか、更にそれを統括する大王が誕生して国家らしくなったのいつごろで、国の境界はあったのか、あったとすればどの辺りまでが「倭の国」といえたのだろうかなど、謎は深まるばかりです。

 そんなこともあり、「古事記を読む」から始めたこの古代史シリーズも、次回は「倭の国」とはいつ頃生れ、いつ頃消えた(「日本」に発展解消した)か、その場所・範囲とは何処までを言ったのか。など倭国の誕生とその盛衰について、出来るだけ新しい論を参考に、余り学術的でなく、面白い内容に綴ってみたいと思っています。乞ご期待!

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2010年9月 3日 (金)

夜明けの街灯

Photo  日の出が遅くなったのか、朝歩きの時刻(6時10分頃)、いつも通る公園の道路脇にある街灯が未だ点灯している。

 夜が明けて明るくなってきたが未だ陽が昇っておらず、夜の部分が残っている感じの時刻である。ぼんやりとした感じで灯っている街灯はメルヘンチックではあるが、何となく夜の重い感じを漂わせ、薄気味悪い部分があるようで、私は余り好きではない。

 10分もすれば明るく輝いた陽が昇り、あたり一面に希望と夢を撒き散らしてくれるような雰囲気とが余りにも対照的だからであろうか。

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2010年9月 1日 (水)

古代史の謎108:藤原道長の真実

 「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思えば」。この歌は、寛二2年(1018)3女の威子が後一条の皇后となった宴席での道長の即興の歌である。謂わばお遊びに詠ったものであるが、如何に絶頂期に在ったとはいえ、その驕り高ぶりには批判も高かったとも言われている。この話が道長評価を二分する象徴であろう。
Photo  藤原一族が隆盛を極めたころ、娘を後宮に入れ外戚となり、皇子が生れば摂政として、成人後は関白として後見する「摂関政治」を行なったのである。
 道長は長女・彰子(ショウシ)を一条天皇の中宮に、二女妍子(ケンシ)は次に即位の三条天皇の中宮として、その上三女威子が、彰子の生んだ外孫・後一条の中宮に冊立されるという、威子による後宮対策の総仕上げを行なったのである。
 この他、道長の専横ぶりや権謀術数を尽くしての飽くなき権勢欲が『大鏡』に記されており、それが信じられてきた面があるが真実はそうではなかった

 戦後の研究では道長は決して独裁的ではなく、天皇や公卿会議の意見によく耳を傾け、それを巧に政治に反映させた(道長自筆の日記「御堂関白記」による)。その政治家としての手腕と人柄が、摂政・関白の地位を自分の子孫だけが継ぐという藤原氏の黄金期をもたらしたとされだした。
 先の御堂関白記の他、「小右記」「権記」等貴族の日記の研究が進み、「大鏡」の記述には過ちが多く、道長の善政が裏づけられるようになった。150年近くの摂関政治での制度疲労とも云うべき時期に、型破りの強いリーダーシップを持った、清濁併せ呑む道長はニューヒーローだったようである。
(写真は道長の別荘を受け継いで藤原頼道が創建した「平等院鳳凰堂」

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