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2010年8月14日 (土)

古代史の謎104:政争に翻弄された菅原道真

 菅原道真は祖父・父共に文章(モンジョウ)博士の学者一族で、母は大伴氏出身の名門。道真は幼い頃より頭がよく、18歳で学者官僚の難関「文章生」に合格、26歳で最難関の「方略式」に合格。法律・数学にも抜群の才能を発揮、30歳で民部少輔に抜擢され政治家として頭角を現した。
Photo_2  仁和2年(886)道真は讃岐国司に任命され赴任。仁和3年即位した宇多天皇は藤原基経に「阿衡(関白)に任ず」との詔書を下すが、阿衡には職掌(摂政)が記されていないとして、政務を放棄した(「阿衡の紛議」)。これは天皇と藤原の政治的実権を巡る綱引きだったが、道真が上京し、学者としての立場で説得し、解決する政治的力量を発揮した。
 宇多天皇は道真を高く評価し、蔵人頭をはじめ政府中枢の要職を歴任させ、昌泰2年(899)道真は右大臣に就任し、同時に基経の子時平が左大臣に昇進、並んでトップの座に着いた。宇多天皇が藤原氏専横を抑えるための道真重用とも言われるが、税制改革の面で業績を残し国政改革に意欲を示した。又皇室の人事など上皇の相談相手となり「君臣水魚の交わり」とまでいわれた。

 しかし、身分不相応の高官に登った道真には嫉みも多く反道真派からの圧力で、延喜2年(901)に醍醐天皇から宣命が発せられ「太宰権師」に任じられる。実質左遷であり、俗には「配流」されたという。
 延喜3年(903)、道真は下記の歌を残し、太宰府に於いて無念の死を遂げた。『東風(コチ)吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春を忘るな』
 
(図は死去した道真の遺骸を運ぶ牛車が動かなくなったので、そこを墓所としたといわれるもの(北野天神縁起絵巻より)。現在の太宰府天満宮本殿の場所といわれる)

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