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2010年8月

2010年8月30日 (月)

朝焼けの風景

1  今朝の朝焼けである。あたり一面が赤くなるほどの朝焼けだったが、写真が取れる場所まで5分ほど歩く間には、もうこの程度になってしまい、更にこの5分後にはすっかり消えてしまい陽光が射し始めた。上が陽が昇る寸前の東の空。下が同時刻の西の空。

2  昨夜は20日ぶりのまとまった雨が降り、干上がっていた山野も潤い、草木が何となく元気になったようである。稲の葉先に露の玉がひかり、虫のすだく「秋の風景」が忽然と現われた感じで広がっていた。

 しかし、昨日37℃を越えた当地最高気温は、週間気象予報では35~36℃の最高気温が続くそうで、今朝も朝食を済ませた頃にはもう31℃となっている。
 夏ばてせぬよう、暫くは朝からクーラーを入れ、水を沢山飲んで、せめて熱中症にはなるまいと、外出は控えてテレビのお守で過ごす日々が続きそうである。

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2010年8月28日 (土)

古代史の謎107:「化外の地」の新田(1)遺跡

0012  青森の西、三内丸山遺跡の北、石江地区の新城川右岸の河岸段丘と沖積地上にある遺跡が、東北新幹線及び土地区画整理事業で発見された。
 竪穴住居や、井戸や竃の跡の他、約70条の溝跡や1800基のピット(凹地)が見つかった。掘立建物が並ぶ集落遺構や周囲の二重の溝跡がある。
 遺物は10世紀後半から11世紀の土師器が中心であり、陶磁器や鉄製品、木製品も出土している。

 注目されたのが檜扇である。これは中央の役人の持ち物であり、又馬形、刀形、鍬形などの木製律令的祭祀用具と見られるものがある。律令制支配の及ばない「化外の地」(王権の及ばぬ地)ながら、出土品からはこの地方までも、中央と直結していたことが考えられ、東北や関東の官衙に比肩する遺跡といわれる。

 海を通じて中央と直結していたとも見られるが、坂上田村麻呂の討伐からわずか140、50年での津軽のこの大きな変化は謎ながら、急速な変化が窺がわれる遺跡である

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2010年8月26日 (木)

群れている

Photo  最近、毎朝歩くとき、運動公園の芝生グラウンドでカラスが群れて、芝生を突いている。カラスの好きな虫か何かがいるのかと思うが、あの獰猛なカラス群が、いともおとなしく草を突いている光景を目にする。その場所も一定しており、不思議な光景である。カラスの朝食会なのか?

Photo_5     この池の鯉は傍を通るだけで、毎朝よってくる。以前は錦鯉や緋鯉など鮮やかな鯉集団だったが、この頃のは不景気のせいか、真鯉が多い。

Photo_4  これはシジミチョウなのである。シジミチョウは大きさ1cm程度の小さな蝶で、群れていることはない。ところが、朝6時半頃、この蝶が目についたので、写真を撮ろうとして、よく見ると、この小さな蝶が、あたり一面いる。それも未だ眠っているのか、カメラを近づけてもびくともしない。未だ目が覚めず、お休み中なのだ。シジミ蝶が群れて寝ている不思議な光景の一部。

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2010年8月23日 (月)

古代史の謎106:海賊を制圧したのは純友か

 東国での将門、西海の純友による反乱は、実質的には「僦馬の党」と称される富豪層が暴徒と化したものだとの説がある。
Photo_3  即ち、税を運搬管理する富豪層の不正着服が横行し、その一部を藤原一族に貢進し、その家人となっていた。ところが、菅原道真の税制改革と財政構造の転換が進み、その旨味がなくなった富豪層が反乱を起こした。将門は彼等にうまく利用されたとも見られるが、東国の反乱は10年くらいで終息した。

 一方承平期(931-938)には瀬戸内の富豪層も海賊となる。彼等は天皇の親衛隊だったが、律令下の宮廷儀式用の親衛隊も、制度改革により不要となった。それで瀬戸内諸国からの進納米を得ていた彼等への支給が、役職剥奪と共に閉ざされたので、進納米徴収を名目に海賊行為に出たのである。
Photo_4  政府はこの反乱に苦労したが、承平6年(936)海賊30余集団2500人余が一斉に降伏した。それは新赴任した伊予守、紀淑人の人柄ともいわれるが、実は海賊平定に伊予入りした藤原純友の説得工作が効を奏したからだという。これは最近の見解だが未だ謎の部分が多い

 純友が海賊の首領だというのは、「日本紀略」に書かれているからであり、「扶桑略記」にはその記事はない。状況から見ても、最高殊勲は純友だと思われるのに、恩賞はなかった。この不満が天慶2年(939)の純友の反乱に繋がったとも言われる。
 200年続いた律令国家は、寛平・延喜の国政改革では、改正に反発した反乱が各地で発生しそれを鎮圧する中から武士が出現してきたのである

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2010年8月21日 (土)

待宵草

 暑い! 本当に暑いですね。昨日は所要あり大阪にいた。新幹線新大阪駅プラッットホームに列車待ちで5分間立っていたら、頭、顔、体中から汗が噴出し、シャツが汗ぐっしょりになったのには驚いた。

Photo  だから、外出は専ら朝のウオーキングだけ。昼間は暑さにグッタリとなっている花も、早朝では元気だ。この花「待宵草」ではないのかな。ちょっと違うようでもあるが・・・。
 「宵待草」とも言うが、子供の時分は「月見草」といっていたが、月見草は待宵草とは違うようだ。
 酷暑の砌、皆様お大事に。

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2010年8月18日 (水)

古代史の謎105:武士の萌芽、将門の乱

Photo_2  藤原一族が中央で権勢を誇っている頃、律令体制崩壊の兆しが現われた。地方に赴任したままで土着した受領(ズリョウ)の末裔達は、開墾や荒地の再開発を行い生産拠点を拡大、有力農民や土豪と結託し、支配網を拡大していった。

 寛平元年(889)桓武天皇の曾孫、高望王は平姓を与えられ上総介として東国に下った。その子の良持(ヨシモチ)は鎮守府(岩手・水沢市)将軍となり、一族も国の長官を歴任した。良持の子が将門であり、天皇の血を引き且つ武芸家に生れたのである。
 将門は父の遺領を継ぎ、承平5年(935)に前常陸大掾・源護を打ち破りその所領を没収。引き続き、武蔵国での内乱で救い求められ、常陸国府を襲撃した。そんな折、この内乱に呼応するがの如く、瀬戸内海賊の首魁・藤原純友反乱した。引き続き下野、上野を攻略し、八ヶ国を制圧後自ら「新皇」と称した
 殿上会議で、西海(純友)は懐柔し、東国(将門)を軍事制圧する政府方針が決まり、将門は翌天慶3年(940)4000の軍勢を整えた藤原秀郷。平貞盛の征討軍に責められ、藤原秀郷に首を討たれ壮絶な最後を遂げた

 武士階級が芽生え始めた時期の反乱であるが、この時、将門が目指したものは何だったかが未だ以て謎のままなのである。
 坂東の自主独立政権だったとか、或いは新たなる朝廷の創設だったとかいろんな説があり、「新皇」即位の詳細も不明だという。新しく誕生する武士階級による時代への転換期で「早すぎた英雄」とも称され、将門にかんする小説も多い。(写真は東京大手町にある将門の石碑)

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2010年8月16日 (月)

秋の気配2

 秋の気配を感じる頃となった。未だに最高気温35℃、蝉は朝早くから鳴いている。雲も夏雲がもくもくとそそり立っている。夏の真只中の感じ。だが早朝ウオーキングでは、夏の花が終わり、夫々実をつけている。従って、今は秋の野草が咲き始めた。

1  これは何処にでもあるエノコロ草。これが出て来ると間違いなく、秋はそこだ。子供の時分この草ではよく遊んだ。

Photo  これは昼顔。昼顔にはいろんな種類があるようだが、これがどれに該当するかは不明。

Photo_2  所謂「白百合」。これも種類が多いが、今一番あちこちに咲いているもので、「タカサゴユリ」だろう。これは、何故かゴルフ練習場のフェンスから、花だけが外部に出て咲いている。何故こうなるのか、不思議というより、滑稽な感じなので撮った。
Photo_3  これは花とは違うが、先日TVでやっていた「環八雲」ではないのか。東京環状8号線沿いに、今頃真横にたなびいて流れる夏雲の呼称。これは一定の気象条件で発生するもので、東京湾以外に、名古屋、博多湾で発生する特殊な雲の名称だそうだ。

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2010年8月14日 (土)

古代史の謎104:政争に翻弄された菅原道真

 菅原道真は祖父・父共に文章(モンジョウ)博士の学者一族で、母は大伴氏出身の名門。道真は幼い頃より頭がよく、18歳で学者官僚の難関「文章生」に合格、26歳で最難関の「方略式」に合格。法律・数学にも抜群の才能を発揮、30歳で民部少輔に抜擢され政治家として頭角を現した。
Photo_2  仁和2年(886)道真は讃岐国司に任命され赴任。仁和3年即位した宇多天皇は藤原基経に「阿衡(関白)に任ず」との詔書を下すが、阿衡には職掌(摂政)が記されていないとして、政務を放棄した(「阿衡の紛議」)。これは天皇と藤原の政治的実権を巡る綱引きだったが、道真が上京し、学者としての立場で説得し、解決する政治的力量を発揮した。
 宇多天皇は道真を高く評価し、蔵人頭をはじめ政府中枢の要職を歴任させ、昌泰2年(899)道真は右大臣に就任し、同時に基経の子時平が左大臣に昇進、並んでトップの座に着いた。宇多天皇が藤原氏専横を抑えるための道真重用とも言われるが、税制改革の面で業績を残し国政改革に意欲を示した。又皇室の人事など上皇の相談相手となり「君臣水魚の交わり」とまでいわれた。

 しかし、身分不相応の高官に登った道真には嫉みも多く反道真派からの圧力で、延喜2年(901)に醍醐天皇から宣命が発せられ「太宰権師」に任じられる。実質左遷であり、俗には「配流」されたという。
 延喜3年(903)、道真は下記の歌を残し、太宰府に於いて無念の死を遂げた。『東風(コチ)吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春を忘るな』
 
(図は死去した道真の遺骸を運ぶ牛車が動かなくなったので、そこを墓所としたといわれるもの(北野天神縁起絵巻より)。現在の太宰府天満宮本殿の場所といわれる)

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2010年8月 7日 (土)

秋の気配

 昼間の暑さは35-37℃という猛暑。しかし、早朝ウオーキングでは秋の気配を感じている。先ず、草や稲の葉先に露玉が付き始めた。当然朝は少し涼しさを感じ気持ちがいい。草叢からはジイージイーと虫の鳴き声が聞こえ始めた。当然朝は少し涼しさを感じ気持ちがいい。もう秋を感じさせる状況だ。

1  昨夜の雨のせいか、空は薄雲がかかっていたが、今日も暑い日ざしを予測させる入道雲が、朝日を受けてピンクに染まって、湧き出ていた。

Photo  昨夜の雨でか、毎朝多くの人が歩く運動公園の芝生のグラウンド。露を付けた芝生には、私のつけた足跡のほかあと一人の足跡だけがついた。やはり昨夜の雨のせいか、歩いている人が少ない。でも、夜に降り、昼は晴れ上がる理想的な気象が続く。願わくばもう少し涼しくなってくれないかな。

 来週は盆休暇と、ホームページメンテのため、ブログは1週間お休みします。

 

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2010年8月 5日 (木)

古代史の謎103:「格式」が律令制を完成させたか

Photo  「格式」はキャクシキ。「格」とは、単行法令「式」とはこれら法令の施行細則のこと。
 従来、8世紀に完成した律令制度9世紀はじめ衰退、崩壊期に入ったとされたが、最近は律令制の延長線上にある”古代国家の完成期”との見方が有力になった。これを推進したのが「公卿による合議制の確立」「格式による法典整備」だという。

 律令制下、8世紀では公卿(左・右大臣、大納言、中納言、参議等の議政官)が6人で国政審議をした。平安に入ると公卿は20人以上で、各種案件は弁官を通じて公卿に上申・決裁した。重要な物は天皇の裁可をうけ、差し戻されると公卿で合議し、再裁可を受けた。
006  天皇の裁可は大極殿だったが、内裏を出るには相応の儀式、手続きを要したので、これを効率化し内裏内での裁可となった。且つ、奏上も、直接の奏請ができるようにした。

 法典整備も進み、弘仁11年(820)に完成した「弘仁格式」があるが、まだ不完全だった。のち、貞観11年(869)に「貞観格」が編まれ、最終的に集大成されたのが「延喜格式」である。延喜5年(905)に編集が始まり、醍醐天皇が自ら編纂したといわれる。
 法典整備の推進には官僚群が活躍し、その核となったのは菅家三代といわれる菅原清公、是善、道真達である。
 9世紀は日本的律令国家の完成に向けた大きな転換期にさしかかった時期と見られ、摂関政治もこの結果出て来るのである

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2010年8月 3日 (火)

「金印」は贋物か

Photo  昨日の毎日新聞学芸欄「月曜文化」の頁に『「金印」真印説に異議』なる文字が躍った。"何!贋物だと!"と驚きの目を紙上に走らせた。記事は金石文学の大家・工芸文化研究所長の鈴木勉氏の新著『「漢委奴国王」金印・ 誕生時空論』(雄山閣)で技術史の観点から真印説に疑問を投げかけたという。

 真印説の最大の根拠は、81年に中国江蘇省で発見され、光武帝の子が使ったとされる金印「廣陵王璽」。福岡の金印と大きさが一致することから同時代の同一工房が製作した兄弟印とされてきた。この二つの金印を比較し、印面の彫り方が、中国印「線彫り」であるのに対し日本のは線彫りして内側に残った金属を浚いとる「浚い彫り」で技法が異なると推定する。線彫りでは彫刻を施す者が文字配置を決める者より力関係が上、「浚い彫り」はその逆で<製作思想生産システム>が全く異なっていたと指摘。兄弟印の可能性が低いとする。その前提が崩れば、日本側金印の真印説は崩れるというのである。

 兄弟印と断じ、日本側の漢代製作・光武帝下賜説を主張したのは、当時の考古学の権威達。鈴木氏は「現定説が、論証によって強固になったわけではない」と指摘し、「権威ある学者の意見に便乗し、ブレーキをかける人が誰もいなかった」と手厳しく批判。切れ味の鋭い鏨の使用、書的な表現技術ばどが江戸時代製作の国内金属性印章と技術的共通性が認められると調査結果を記している。

 1784年(天明4)福岡市志賀島「叶の崎」で、百姓甚兵衛によって掘り起こされた金印が、当時の藩校館長亀井南冥に届けられ、彼の判定により藩庫に納められたという経緯も怪しいが、何故志賀島のの海辺に土中に有ったのかが不思議である。金印に関する論議や研究も長いが、現時点での結論は、『日本の歴史02巻』(講談社)によると
1.印面サイズが後漢1寸(2.35cm)で一致。
2.上記「廣陵王璽」と同一規格で、陰刻篆体の薬研彫り字体を持つ。
3.同じ蛇紐同規格の「滇王の印」が見つかったこと。
4.純度95.1%で中国大陸の他の金製品とも、純度、金属組成とも一致

ということであり、定説として、現金印の真印説は認められてきたものである。
はたしてこれまでの定説を覆せるか

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2010年8月 1日 (日)

古代史の謎102:真言密教が日本仏教を革新できたのか?

Photo_2   前回、空海による真言密教が旧来の南都六宗(三論・法相・華厳・律・成実・具舎宗)を凌駕し、「国家仏教」となった旨記述した。しかし、従来のこの”通説”に最近異論が出ている。
 即ち、空海真言密教の真言宗を国家仏教の一部として定着させたに過ぎず、他の各宗派と共に、夫々独自性を持ちながら、共通基盤に立って共生・共存したに過ぎないと見る。
その象徴が、東大寺二月堂の「お水取り」(修二会)だという。修二会は密教的要素が強い悔過会が起源であり、呪師の作法は真言密教修法の基本に沿ったもので、礼堂での法華懺法も天台宗の儀礼である。又講説・論議も神祇的要素を含み、真言密教請来以前より行なわれていた「お水取り」は諸宗派・神祇要素の融合した日本仏教の象徴であるとする。

 元々6世紀に伝来した仏教は外国文化の受容という朝廷権力のシンボルだったし、思想教学としては7世紀にようやく三輪宗、法相宗の「宗」が確立され、その学問的高揚の最後にやっと本格的教学が空海によって導入されたのであった。
 尚、空海が帰化人の子孫最澄蝦夷の子孫である事も大きな要因で、二人は大和民族中心の奈良仏教に背を向け、密教をめざしたという説もある。
 何れにしろ、奈良時代より密教的行法は南都の基礎学ともなっており、山林行法などが行なわれ、密教的要素が諸宗派の共通基盤でもあった。よって、空海は奈良仏教と断絶したのではなく、それを継承発展させたと見る。

 一方、最澄は空海とは晩年対立し、仏教会で孤立化する。しかし、空海が奈良仏教に埋没したのに対し、最澄亡きあと、弟子の円仁、円珍らにより、密教との論理的融合が解決して、天台教学が確立し、結果的には日本密教の伝統は天台宗が支えたのである。

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