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2010年7月23日 (金)

古代史の謎100:嵯峨天皇「薬子の変」鎮圧

Photo  延暦25年(806)桓武天皇が没し、安殿皇太子が即位、平城(ヘイゼイ)天皇となった。併せて年号を「大同」と改元し、又同母弟の神野親王を皇太子に立てた。
 大同2年、平城は桓武の寵愛を受けた異母弟伊予親王を、謀反を企てたと幽閉し自殺に追い込んだ。平城天皇は神経過敏で潔癖性であり、過剰防衛に走ったと見られる。かって「早良親王」や伊予親王事件の怨霊に悩まされた平城は風病(躁うつ病)が再発。官制改革も緒に着いたばかりの大同4年(809)、譲位し、神野皇太子が即位嵯峨天皇となった。(図は嵯峨上皇の書による戒牒(僧が戒を受けた証文))。

 譲位した平城上皇は、寵愛していた藤原薬子(クスコ)や、多数の官僚を伴い平城京宮に移った。薬子の兄仲成も平城宮の改修にに従事し、2,500人の雇人たちが立ち働いていた。これに嵯峨天皇が神経を尖らしていた矢先、上皇は平城京への還都命令を下した
 ここに来て、嵯峨天皇側は薬子の官を解き、仲成を逮捕・監禁、翌日射殺し対決姿勢を明確にした。上皇は東国に逃れ再起を図ろうとしたが天皇側の軍隊に阻まれ、出家した。薬子も毒を仰ぎ自殺。世に言う「薬子の変」である。

 この薬子の変鎮圧後、嵯峨天皇平安京を「万代(ヨロズヨ)の宮」と宣言した。平安遷都の疲弊からまだ回復しきっていないこの時期、天下の大乱になりかねないところ、嵯峨天皇の素早い決断が、平安期400年の礎となったのである。
 嵯峨天皇は律・令の基本法典に対して、追加法としての格、施行規則の式の修正を進めた。父桓武の壮大な改革の精神を定着させる役割を果した。弘仁14年(823)退位し上皇となるが、天皇・上皇の約30年間は社会が安定し、「弘仁文化」と称される優雅な文化も花開き、政治的にも文化的にも一時代を築いた。子沢山だったので一部に「源氏」姓を与えたのが、後世の源氏政権の基盤となる。

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コメント

古代史の謎100号達成おめでとうございます!
ウチの息子も最近日本の歴史に興味を持つようになってきました(マンガですけど)。
自分自身もマンガ日本の歴史を繰り返し読んでいたので、何となくここの古代史の謎を呼んでいると、昔の記憶が蘇ってきます。
この時代は天皇と上皇の関係がおもしろいですよね。
息子から京都・奈良に行ってみたいと言われ、少し嬉しかったでです。(^o^)

投稿: Y | 2010年7月27日 (火) 11時09分

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