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2010年7月28日 (水)

古代史の謎101:最澄、空海の新仏教請来

Photo  最澄と空海は桓武天皇より修学のため遣唐使の一員として入唐を下命され、延暦23(804)年に渡航した。最澄は請益僧(遣唐使と共に帰国)として、空海は学問僧(一定期間滞在し、仏教学を研鑽する留学生)としての渡唐だった。
 桓武は平安遷都の際、旧都の寺院の新都への移転は一切許さなかった。玄昉や道鏡のなどの怪僧の悪弊や堕落にに対し、厳しい修業や戒律を守る事を期したのと、国家による寺院建設費用の緊縮もあった。又国家は専ら鎮護国家を目的に、ひたすら護国経典の理解・読経能力を重んじ、護国の呪力増強を期待した。

Photo_2  寧波に上陸した最澄一行は遣唐使と別れ、天台山への巡礼に旅立ち、円頓戒という天台宗の戒を受け、帰国まで約半年の間、越州龍興寺、明州開元寺で、密教の教えを受けた。
 一方空海は出発時既に真言密教の体系に達していたが、長安行きが許可され、真言宗第七祖恵果から密教を学び、その学識と能力を認められ、2年余の修業の後帰国した。

 先に帰国し、桓武の信を得ていた最澄であるが、真言密教を学んだ空海に教えを乞い学んだが、空海が最澄に潅頂を授ける事によって、密教の師としての空海の優位が鮮明となった。
 天台宗を開いた最澄と、真言宗を開いた空海は共に協調路線をとったかに見えたが、桓武亡き後正当な密教の真言と天台は対立し、次世代へと受け継がれて行く。しかし、空海の密教の「仏と合一する」という思想が日本文化に定着し、日本仏教史、精神史に深い影響を与えた

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コメント

学生の頃はあまり気にならなかったのですが・・・・。
遣唐使として派遣された人達はいろんなことを学んでいますが、言葉は理解できたのでしょうか?
理解できた人もいると思いますが、密教の教えなんて言葉の深い意味をどうやって理解していたのでしょう?
もしかしたら、解釈によって流派が分かれた、なんてこともあったんじゃないかと思ってしまいます。

投稿: Y | 2010年7月29日 (木) 09時47分

はじめてコメントします。なんだか楽しいですね^^

この間、奈良の大遣唐使展で 鈴 見てきました。
歴史はとても苦手ですが、仏道なども凄いな~と感動しました。
花きれいですね。私も日常で何か発見しよう!! と思ちゃいます。                                     みか

気が向いたらコントラバスの情報も載せてください。 なつき

投稿: なつみか | 2010年7月29日 (木) 15時20分

 なつみかさんへ。初めてのご投稿ありがとう。私の趣味に合ったものだけアップロードしてますので、面白くないかもしれませんが、今後も時々覗いて見てやってください。尚、なつきさんのコントラバスってあの楽器のことですか。それであれば又気をつけておきます。

投稿: | 2010年7月30日 (金) 09時19分

 Yさんへ。遣唐使時代の言葉は、多分話せたと思いますし、当時、中国や半島からの渡来者や使者が結構多く来ていて、遣使には必ず隋行員として、漢人や韓人が付いて行っています。
 現在次期ブログネタとして、「倭国」を取上げようと勉強中ですが、弥生末期から古墳時代を経て平安初期までは半島や大陸との行き来は予想外に多く、特に半島とは、「日本」が出来る前は半島南部と九州、山口全体が「倭国」であり、当時の大王は韓人或いはその血が混じった人が多いようです。平安朝初期の京都盆地の人口の7-8割は渡来人であったといわれています。

投稿: 山猿 | 2010年7月30日 (金) 09時31分

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