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2010年7月

2010年7月30日 (金)

Petit fleur

 今朝は残念ながら、曇りで蒸し暑く、いつものようにからっと晴れ上がり、青空と遠くの山々を眺めながらのウオーキングとはいかなかった。
 仕方なく、時には下を向いて歩こうとコース周辺の路辺の花を見ながら歩いた。いや、実に驚くほどの小さな野草が、健気にも小さな花を付けて咲いていることに気付いた。その小さな生命力には感動したが、写真に撮るとその感情は多分伝わらないと思い、私が珍しく思ったもの2点だけ添付した。

Photo  これは所謂”ツタ”と称しているが、〇〇カズラと称されるものと思うが、花径5mm以下の”小さな”、”可愛い”(Petit fleur)花で、名前が判らない。野草として咲いているものである。

Photo_2  これは、多肉植物で分厚い葉をつけた、やはりつるものであり、ハートカズラと称されるものの一種かと思うが、ハートカズラにはこのような花をつけるものはない。そんなに沢山の花をつけている訳ではないが、花がなんとも小さく、色が朱色で綺麗なので撮った。

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2010年7月28日 (水)

古代史の謎101:最澄、空海の新仏教請来

Photo  最澄と空海は桓武天皇より修学のため遣唐使の一員として入唐を下命され、延暦23(804)年に渡航した。最澄は請益僧(遣唐使と共に帰国)として、空海は学問僧(一定期間滞在し、仏教学を研鑽する留学生)としての渡唐だった。
 桓武は平安遷都の際、旧都の寺院の新都への移転は一切許さなかった。玄昉や道鏡のなどの怪僧の悪弊や堕落にに対し、厳しい修業や戒律を守る事を期したのと、国家による寺院建設費用の緊縮もあった。又国家は専ら鎮護国家を目的に、ひたすら護国経典の理解・読経能力を重んじ、護国の呪力増強を期待した。

Photo_2  寧波に上陸した最澄一行は遣唐使と別れ、天台山への巡礼に旅立ち、円頓戒という天台宗の戒を受け、帰国まで約半年の間、越州龍興寺、明州開元寺で、密教の教えを受けた。
 一方空海は出発時既に真言密教の体系に達していたが、長安行きが許可され、真言宗第七祖恵果から密教を学び、その学識と能力を認められ、2年余の修業の後帰国した。

 先に帰国し、桓武の信を得ていた最澄であるが、真言密教を学んだ空海に教えを乞い学んだが、空海が最澄に潅頂を授ける事によって、密教の師としての空海の優位が鮮明となった。
 天台宗を開いた最澄と、真言宗を開いた空海は共に協調路線をとったかに見えたが、桓武亡き後正当な密教の真言と天台は対立し、次世代へと受け継がれて行く。しかし、空海の密教の「仏と合一する」という思想が日本文化に定着し、日本仏教史、精神史に深い影響を与えた

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2010年7月26日 (月)

花から花が出てる?ハイビスカス

2  過日泊ったホテルのロビーで見つけた花。ご覧のように、どう見ても花から花が出ている。フロントで聞くと、ハイビスカスに間違いありませんが品種の名前まではわかりませんとのこと。写真はフラッシュのため、色がとんでいるが、普通の深紅に近い物である。
 「がく」が変化したものかと、よく見ると、花の付け根には薄緑の「がく」らしき物が着いてはいる。

 インターネットで探してみたが、このような花は見つからなかった。これは非常に珍しいものなのか、それともごく普通にあるものなのか? 2、3の人に写真を見せたが、「へぇー珍しいね」で終っている。

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2010年7月23日 (金)

古代史の謎100:嵯峨天皇「薬子の変」鎮圧

Photo  延暦25年(806)桓武天皇が没し、安殿皇太子が即位、平城(ヘイゼイ)天皇となった。併せて年号を「大同」と改元し、又同母弟の神野親王を皇太子に立てた。
 大同2年、平城は桓武の寵愛を受けた異母弟伊予親王を、謀反を企てたと幽閉し自殺に追い込んだ。平城天皇は神経過敏で潔癖性であり、過剰防衛に走ったと見られる。かって「早良親王」や伊予親王事件の怨霊に悩まされた平城は風病(躁うつ病)が再発。官制改革も緒に着いたばかりの大同4年(809)、譲位し、神野皇太子が即位嵯峨天皇となった。(図は嵯峨上皇の書による戒牒(僧が戒を受けた証文))。

 譲位した平城上皇は、寵愛していた藤原薬子(クスコ)や、多数の官僚を伴い平城京宮に移った。薬子の兄仲成も平城宮の改修にに従事し、2,500人の雇人たちが立ち働いていた。これに嵯峨天皇が神経を尖らしていた矢先、上皇は平城京への還都命令を下した
 ここに来て、嵯峨天皇側は薬子の官を解き、仲成を逮捕・監禁、翌日射殺し対決姿勢を明確にした。上皇は東国に逃れ再起を図ろうとしたが天皇側の軍隊に阻まれ、出家した。薬子も毒を仰ぎ自殺。世に言う「薬子の変」である。

 この薬子の変鎮圧後、嵯峨天皇平安京を「万代(ヨロズヨ)の宮」と宣言した。平安遷都の疲弊からまだ回復しきっていないこの時期、天下の大乱になりかねないところ、嵯峨天皇の素早い決断が、平安期400年の礎となったのである。
 嵯峨天皇は律・令の基本法典に対して、追加法としての格、施行規則の式の修正を進めた。父桓武の壮大な改革の精神を定着させる役割を果した。弘仁14年(823)退位し上皇となるが、天皇・上皇の約30年間は社会が安定し、「弘仁文化」と称される優雅な文化も花開き、政治的にも文化的にも一時代を築いた。子沢山だったので一部に「源氏」姓を与えたのが、後世の源氏政権の基盤となる。

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2010年7月21日 (水)

湖畔に気になる輝光

 連日の猛暑、35、6℃の最高気温となる日が続く。外出も億劫になり、行き先は涼しい大型ショッピングモールか、図書館だ。やはり、早朝の涼気の中を歩くのが一番気持ちがいい。

1  ウオーキングコースの中では好感度の高いスポットである。ここは丁度朝日が差し始めるころ通過する地点である。ここは何故か風がよく通るところであり、水面はいつもさざ波が立っていて、朝の涼風が気持ちいい。いつも水鳥が2、3羽泳いでいるが、撮影時は手前に来て画面に入らず残念。又ここは鯉が多く、人が近づくと大きな口を開けて沢山寄って来る。

Photo  ここを撮った最初の目的がこの写真である。写真の中ほど向こう岸寄りの水面に、小さな白い点が有るのがお判りだろうか。実は、写真では小さいが、この点はここに鏡でも置いてこちら向けに反射させているように、こちらに向いて光るのである。
 それが、この撮影地点に於いてのみ判るのであり、一歩でも移動するともうこの現象はなく、なにも存在しない漣の立っている状態となる。誠に不思議な現象が起こるのである。
 写真で見る限り、上の小屋の窓が水面に映るから、そう見えるのかとも思うが、単に水に映るだけでなく、強くこちらに向かって反射するのである。
 物理学に弱いので、何か霊気でも存在するような変な気分である。

 

 

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2010年7月20日 (火)

古代史の謎99:蝦夷征伐

Photo_4   桓武天皇の治世、千年の都・京都となる「平安京遷都」は何とか軌道に乗るが、あと一つの難問が蝦夷征伐。隼人は律令制下、朝廷の支配下に組み込まれ公民化してゆくが、蝦夷には簡単には朝廷の支配が及ばなかった。
 延暦8年(789)第一次征討戦。紀古佐実征東大使率いる東海、東山、坂東諸国の5万2800の軍が多賀城に集結するも、蝦夷の大酋長アテルイ率いる胆沢勢に惨敗
 延暦13年(794)第二次征討戦。大伴弟麻呂征東大使に、坂上田村麻呂副使(実質指揮)が兵10万繰り出すが戦果上がらず
 延暦20年(801)第三次征討戦。田村麻呂征夷大将軍が4万の軍の指揮を執るが戦果が不明
 延暦21年(802)田村麻呂胆沢城を築き、アテルイが田村麻呂の軍門に下った
 延暦22年(803)坂上田村麻呂志波城を造営する。

Photo_2  この志波城が何処にあるのか、記述は「日本紀略」にあるが、実際何処にあるか長年不明であった。それが高速道建設(1976-1977)に伴い、遺跡が発見され、翌年「志波城」であることが確認された。930m四方の中心に政庁が置かれ、平城宮の朱雀門の劣らぬ正門があったとされる。立派な築地塀に囲まれその中央に正殿があった。国府である多賀城と変わらぬ規模だったと推定されている。千葉や福井からの墨書も発見され、各地からの兵が徴収されたと窺がえる。場所的に度々水害に見舞われたが、補修費が平安京の造営のため不足し、弘仁3年には規模を縮小した「徳丹城」造営に取って代わられた様だ。
 朝廷は一先ず蝦夷を平定したと見做し、政策を「征夷」から「鎮守」へと方向転換をしたというのだ。律令制の及ばぬ地域を「化外の地」と呼び、従わぬ者を「服(マツロ)わぬ者」と呼び、強制と懐柔両面で、律令制へ取り込みを図ったのが「征夷」で、志波城で「征夷」は終止符を打った。 

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2010年7月18日 (日)

早朝ウオーキングに切替えた

 昨日より、福岡地方は梅雨明け宣言が出て、急に夏の日差しとなり、天気予報も連日晴れマークで最高気温33℃となっている。運動不足解消のためやっているウオーキングもこの暑さでは逆効果だと思い、早朝ウオーキングに切替えた。
 早朝に歩くと目に映るものが皆新鮮に見える。

Photo  5時45分、太陽が顔を見せ始めた瞬間、気持ちのよい青空に白い雲が浮かんでいた。これは「巻き積雲」というのか、夏に出る雲だ。積乱雲になると夕立が来るが、これは雨にはならぬ。予報どおり快晴となりそうである。

Photo_2  珍しく、カタツムリが歩道の上を歩いて(?)いるのに出会した。梅雨が上がり、住む場所を変える必要が生じてのお引越しだったのかな。よく見ると子供の時分に見たのと少し違う感じがする。これもヒョットすると外来種かな?

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2010年7月16日 (金)

古代史の謎98:旧弊を革新した平安京遷都

Photo  桓武天皇の2大政策、長岡京遷都と東北経営が挫折し、延暦4年(785)後半から同6年(787)秋口まで停滞、見るべき治績がない。ここで、長岡京造都継続の断念と新都建設を進言したのは和気清麻呂である。
 平安京造都は長岡京の失敗を踏まえ、効率よい土地収用や造営使の専任に代わるプロジェクトチームが編成された。又桓武自身が再三建設現場に出向き、人任せにせず、現場の督励に努めた。そして、延暦24年(805)まで18年間に亘って建設工事は継続されたのである。

 新都建設の中で、桓武天皇が行なったことで特異なことは、新都造営や行政に渡来人を重用したことである。渡来系氏族では、和気家麻呂、菅野真道を参議とし、参議待遇にも次々と登用した。その理由の一つに、桓武の母の実父が百済王族の末裔であり、前記和気家麻呂も縁戚である。又桓武の後宮には百済王族の娘達が居り、内親王も生れている。百済王族行政の場でも、かなり高い地位を占めていた。尚新羅系渡来人の秦氏も新都造営には、経済力、技術力で大きく貢献した。平安京遷都までの京都盆地の人口の7,8割までが渡来人系で、彼等の経済基盤の元に、京都国際的文化の花が開いたという。

 桓武天皇は新しい国家体制で、中国や半島の様々な文化を包容した国際政権を樹立し、律令制の再編を意図したとも言われている。これについては各種の見方があり、真実は謎の部分も多いが、奈良時代の閉塞感を打ち破る意図があったと思われる。結果的に、この革新的な試みは平和な400年の平安時代の楚を築いたのである。

 

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2010年7月14日 (水)

よく使う名数 その7(九)

 福岡は昨日から激しい雨が断続的に降り続き、あちこち浸水、冠水、場所によっては土砂崩れなど被害が多く、地区によっては公民館や学校に避難しているところもあります。
 又交通網はあちこち運休停止があり、冠水と交通網の遮断で、所定の場所に行けずに困っている人も多いようだ。
 明日早朝には祇園祭・櫛田神社の「追い山」があるが、この天候でどうなるだろうか。政界の混乱と同様天候も大混乱である。早く鎮まる事を祈念している。

 ところで今日の名数は「九」。「四」と共に喜ばれる数字ではないせいか、あまり使われないので少ない。

九界(クカイ):<仏教>迷いと悟りの世界を十種に分けたうち、「仏界」を除いたものを言う。即ち、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界(以上迷界)と声聞(ショウモン)界、縁覚界、菩薩界(以上悟界)。天上界までの六界は迷いの世界でこれを六凡と称し、声聞界以下は悟りの世界で、仏界も入れて四聖という。
九星:陰陽道で、九つの星に五行を組み合わせ、生年に当てはめ吉凶を判断するもの。よく暦につけられている。
一白(水星=北)、二黒(土星=南西)、三碧(木星=東)、四緑(木星=南東)、五黄(土星=中央)、六白(金星=北西)、七赤(金星=西)、八白(土星=北東)、九紫(火星=南)。
九族:高祖、曾祖、祖父、父、自己、子、孫、曾孫、玄孫。
 他は日用的でないので、省く。

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2010年7月12日 (月)

古代史の謎97:長岡京遷都、短命の謎

026  称徳天皇の死により、帝位に就いた光仁天皇「官を省き役を息(ヒソメ)る」ことに努め、道鏡の悪政からの脱却をしつつあるとき、陸奥国の大領、伊治公呰(アザ)麻呂が多賀城を攻め、鎮守府副将軍、紀広純を殺害し、武器兵糧奪い北方に引上げた。心身ともに疲れた光仁天皇は、天応元年(781)皇太子山部親王(桓武天皇)に譲位した

 桓武朝は初期には、安価な政府実現をめざし、律令国家の再建を図ったが、この政策はすぐ撤回され、抜本的な国家再建策を打ち出した。それは奥羽征服の決戦体制と、全国支配を視野に河川、陸路の交通至便な土地への遷都である。
 この遷都には、政治的な背景が幾重にも交差していた。それは天智天皇の孫光仁天皇を即位させ、更にその長男・桓武天皇の即位と続き、天武系から、天智系皇統に変えたこと。中国の天命思想による新王朝には新都を建設する事の理論付けで、政権基盤の強化を図ったとされる。
 難波宮の解体、移築など遷都は果断に行なわれたが、反対勢力が長岡京造営責任者、藤原種継を暗殺した。この暗殺に関与したとの嫌疑をかけ、弟の早良親王を廃太子とし、親王は憤死する。以後、親王の怨霊に長岡京は祟れているとの噂が絶えなかった。
新都反対勢力、桓武の対抗勢力、加えて天変地異に禍されての長岡京断念とされているが、真の理由が判らず、謎なのである

 水運の便がよいとされた長岡は、低湿地でもあり、度々の洪水を蒙り、早良親王の怨霊説が絶えず、且つ天然痘の流行もあって、長岡京の完成を見ずに、平安遷都へと移った大きな要因となった。『幻の都』といわれた長岡京も昭和29年(1954)以来、1600回以上の発掘調査により、かなり判ってきており、初期構想の6割程度の工事が終っていることがわかる。

                 

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2010年7月10日 (土)

夏の風物

 ウオーキング途次に撮った写真で、夏らしい風物を2、3枚紹介。

Photo  揚羽蝶がよく飛来する。しかし、とまってじっとしていることがなく、写真がなかなか撮れない。ようやく撮れたのがこの1枚。次はからす揚羽の大きいのをマニュアルモードで撮ってやろうと狙っている。

Photo_2  近辺の水田。先頃ようやく田植が終わり、白鷺がよく飛来している。用心深い鳥で、カメラを向けると直ぐ逃げる。仕方なく遠くから望遠にして撮ると手ぶれが出た。

005  ハイビスカス。この辺りでは庭でよく見かける。もうそろそろ咲き頃で元気のいい大輪を見つけたので撮った。

Photo_3  通称「ブラックダイヤ」とか。観賞用のトウラガシである。じっと見ていれば厭きそうな物ではあるが、珍しいので撮った。

 

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2010年7月 8日 (木)

古代史の謎96:万葉集

 万葉集は、飛鳥時代から奈良時代(7世紀後半~8世紀後半)に編まれた、現存する日本最古の歌集である。但し、歌われた年代は5世紀~8世紀までのものである。全20巻からなり、約4,500首に及ぶ歌が納められている。編者は諸説あるが、大伴家持との説が有力である。

 「万葉」とは「万(よろず)の言も葉」即ち「たくさんの歌」とのこと。天皇や貴族から無名の庶民までの様々な身分の人が読んだ歌が集められ、内容も花鳥風月から、男女の恋、病気など非常に幅広い。
Photo
 代表的な歌人は上表の通りである、
 尚、この時代、まだ「かな文字」はなく総て漢字で表記されている。但し、漢文ではなく、漢字の音訓だけを借用して日本語を表記する「万葉仮名」という表記法である。
 代表的な歌を下記しておく。
(ヒムガシ)の 野にかぎろひの 立つ見えて かえり見すれば 月かたぶきぬ 柿本人麻呂
世間(ヨノナカ)を 憂しとやさしと 思えども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば 山上憶良
田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける 山部 赤人
あかねさす 紫草野(ムラサキノ)行き 標野(シメノ)行き 野守は見ずや 君が袖振る 額田王(ヌカタノオオキミ)

 

 

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2010年7月 6日 (火)

梅雨の中休み

Photo  昨日から梅雨前線が南下し、予報では3~4日晴天が続くそうだ。気温も30度を越える真夏日が続く予想が出ている。よく行く図書館の庭にある池を覗くと、鯉が仲良く涼しそうに泳いでいた。

Photo_2  当地ではこの種のブーゲンビレア(野生種に近い)がよく庭に植えてあり、今時期、今を盛りと咲いている。かなり強い樹で、毎年刈ってあるが春先から新芽を伸ばし、このような花の束になって咲く。但し、強い棘があるので、花後の刈り取りは大変だろう。

  

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2010年7月 5日 (月)

よく使う名数 その6(八)

 今日は昔から末広がりで目出度いといわれる「八」の名数の代表的なのを紹介。

八州:よく言われる関八州とは、武蔵、相模、安房、上総、下総、常陸、上野、下野。関東の方にはよくお判りでしょうが、他地域の人には名前と所在が一致しないかも。改めてご確認を。
八卦:中国古代の占術を儒家が取り入れ経書したもので、その理論は陰・陽二元を持って天地間の万象を説明する。乾(けん)=天、坤(こん)=地、坎(かん)=水、離=火、艮(こん)=山、兌(だ)=沢、巽(そん)=風、震=雷の八つを言う。乾坤1擲(一投げに総てを賭すこと)の言葉がある。
八宗:倶舎宗、成実宗、律宗、法相宗、三論宗、華厳宗、天台宗、真言宗。
八逆:謀反、謀大逆、謀叛、悪虐、不道、大不敬、不孝、不義。
八省:中務省、式部省、治部省、民部省、兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省。
八景:①<日本八景>紀州・和歌浦、摂津・住吉浦、播磨・明石浦、大和・芳野山、陸奥・塩竃浦、山城・加茂川、出羽・最上川、駿河・富士山。②<近江八景>比良暮雪、矢橋帰帆、石山秋月、勢多夕照、三井晩鐘、堅田落雁、粟津春嵐。ほか~八景あるも省略。
八節:立春、春分、立夏、夏至、立秋、秋分、立冬、冬至。
八穀:稲、黍、大麦、小麦、大豆、小豆、粟、麻。
八州国(やしまのくに):淡路州=淡路島、大日本豊秋津州(おおやまととよあきつしま)=本州、伊予二名州(いよふたなのしま)=四国、隠岐州=隠岐島、佐渡州=佐渡島、筑紫州=九州、壱岐州=壱岐島、対馬州=対馬。記紀神話には以上が日本の国として初めに作られたとしている。現在日本が固有の領土とする北海道や南西諸島は勿論、五島列島や西部諸島、伊豆諸島などは当時認知されていなかったようだ。

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2010年7月 4日 (日)

古代史の謎95:多賀城は古代「東の京」だった?

Photo  最近の発掘調査により、宮城県・多賀城跡のある市川橋遺跡は、壮大な古代都市だったことが判った。中心にあった政庁から真直ぐ南に伸びる南北大路(幅17-23m)と、多賀城廃寺から西へ伸びる東西大路(幅12m)を基準に道路網が整備され、区画ごとの住まいが立ち並んでいた。舟運を考慮した河川には直径30-40cmの丸太を使った橋が架かってもいた。
 唐から運ばれたと見られる陶磁器や漆器類も出土し、豪奢な生活が窺がえる。この遺跡実態から、多賀城が単なる蝦夷征伐の拠点ではなく、西の京・大宰府に対応した「東の京」といえる都市の存在であった事が窺がえる。

 多賀城の創建の頃の変遷を見ると、
和銅5年(712)出羽国設置。
神亀元年(724)藤原宇合征夷持節大将軍に任ず。多賀城を造営。
天平5年(733)藤原押勝の息、朝狩、多賀城の大規模な改作。
天平宝字4年(760)陸奥・桃生城、出羽・雄勝城完成、押勝褒章。
天平宝字6年(762)多賀城碑造立。
 この碑は偽作説が強かったが、真碑の可能性が強くなっている。碑文によると、724年大野東人によって、多賀城が創建され、後に、藤原朝狩が改修、雄勝城を完成させ東北経営の強化に成功したとある。

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2010年7月 2日 (金)

城の睡蓮(スイレン)

Photo_2   福岡城の睡蓮が咲き始めたとのローカルニュースで、見に行ってきた。これは薄黄色で、結構沢山咲いていて美しい。写真機を据えて、じっとチャンスを待っているカメラ愛好家に聞くと、睡蓮は水温が上がって来ると咲き始め、夕刻には閉じる。これを繰り返し、花も段々大きくなって来る由。

Photo_4  これは赤い睡蓮。赤いのは珍しいが、数は余り多くない。この横にサギが1羽、まるで彫像のようにじいっと立っていた。多分獲物を狙っているのであろうが、その我慢強さにはカブトを脱ぐ。勿論写真は撮ったが、今日は花が主役なので省く。

Photo_5   城内にはバスが通る道路があり、その先が駐車場になっている関係で、この大手門を潜ることは滅多にない。今日は序に「蓮(ハス)」の花も見ようかとこちらのお濠まで歩き、この大手門を潜ったので、写真も撮った。蓮は残念ながら、中旬にならぬと咲かないとのことで、今はまだ蕾だった。睡蓮と蓮は全く別種の植物だそうだ。

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